創作論 〜後半戦〜
※前半戦はこちら
後半の目次
④一次創作から二次創作に行って一次創作に戻った話
⑤ぶっちゃけ文章って絵ほど見られないよね問題
⑥承認欲求と創作意欲を混同したがる人たち
⑦表現の自由と性描写とチョコレート
まとめ
④一次創作から二次創作に行って一次創作に戻った話
「一次も二次もやる」としれっと書いたが、実は「どちらかだけ」という人は意外に多い。Twitterは7:3くらいで二次の方が多い気がする。なろうや掲示板系のクラスタは自分もよく知らないのでバイアスがかかっていると思うけど、世の中の「なんか作ってる」人は概ね二次創作が足場になっているか、作り始めるきっかけという例が多いと思う。今まで一度も二次創作やったことないっすわ、という創作クラスタは非常に少ない。「見たこともない」まで含めるとゼロに近いのではないだろうか。
自分の話をすると、「ポイントが貯まるから」という理由で某大手アニメショップで漫画を買い始めて以来、逃れられずに二次創作を見るまでは非常に早かった。リアルにそんな昔のこと忘れちまったよ状態である。では作るほうの最も古い記憶はというと、小学生の頃には学級内に「小説係」という係を新設し、担任の許可をとってノートに連載小説を書いていた。心ない級友に落書きをされることもあったが、担任が可愛いシールを貼ってそれらを隠してくれるなど配慮のある人だったので、なんとか学年が終わるまでちまちまと続けることができた(進級と共に自然消滅し、当然のように未完)。何を書いたか覚えていないし、どういう話だったか、どんな名前だったかもかけらも記憶にない。しかし、例えば担任のそうした寛容と配慮であったり、同級生たちの「読んだ」という一言であったりが原体験としてプラスに作用しているので、今に至るまで「創作をやめようかな」と思ったことはない。というか「やめた」ところで「やる」のは目に見えているので、それは決意としては極めて無為なものに近い。
あくまで自分の場合だが、そうした経験から次に部活で一次創作をやっていたので、二次創作を人の読める形にして人前に出したのは逆に結構最近の話になる。たぶんもう成人していたと思う。そしてはじめから創作物に関しては「評価ありき」ではない。ましてや文章媒体である。読まれないのが前提なので、反応は極めて副次的なものとこちらも認識しているし、それが不満ならおそらく今まで続けていない。あくまで人の反応は結果論であって、そこまでの過程を楽しんでいる。
書いているときに「書いている」行為そのものが楽しい。これはおそらく諸説あって、知り合いにも何人か「完成させるために書きたくないところを頑張って書いている」という人がいるし、原稿が苦か否かもよく話題に上がる。人の感じ方は様々だが、自分の場合はその「完成品」に対する執着というか自負心というか、そういったものが極めて薄い。比喩ではなく、書き終えた話のことはあまり関心がない。書いた日中の再掲くらいはするが、翌日になると怪しい。二ヶ月も経てば書いたことを忘れる。おかげで設定がよく頭から飛ぶ(真似してはいけません)。二次創作の場合は原作を読み返せば設定が拾えるが、一次の場合は自分で組んだはずの設定がカケラも残っていなくて過去作を漁る羽目になることが多い。設定にない設定を書きながら生やすからよくそういうことになる。これは自戒を込めて「やめておきなさい」と後続の方々に伝えたい。
どちらも自分にとっては必要なものなので、「なぜ読まれない一次創作をするのか」とか、「二次創作は所詮遊びで無為なもの」とか言われても困る。なんならどちらも間違っているとすら思う。
作品を見られることによる最大の利点は「読む人を意識する」ことだ。実際、一次創作しか書いていなかった頃の自分はかなり偏重した、独りよがりな文章を書いていた。書いている人はわかっていても読んでいる人には伝わりきらない、まるで主語と目的語を欠かした国語の記述問題の回答みたいだった。添削対象だ。
それを「伝わるように」という視座で自己批判できたのは、やはり人口の多い場にいて、誤解なきように意図するところを伝えたいという欲求に基づいてのことだと思う。「読まれる」ための文章は書く必要がないが、「少なくとも読んだ人に伝わる」文章を意識することはそれなりに大事だ。特に私のような独りよがりな人間には必要なことである。それによって文章そのものの偏重や独りよがりな表現は以前よりかなり改善された気がする。これはおそらく一時の承認や優越感などよりよほど価値のあることで、そういう意味で二次創作が無為だというのは間違いである。
事実として素人の創作物が日本で最も多く取り沙汰されるPixivの小説総合ランキング上位は二次創作が占めていて、ゆえに様々な小説投稿サイトが「一次創作のための」と銘打って乱立せざるを得なくなった面は否めない。小説は基本的に読まれないのだ。これについては次項で詳しく触れるが、そうした条件下で「人目に触れている」「人様にこの拙い文が読まれてしまっている」というある種の危機感を抱く経験は、長い目で見て文書きとしての自意識をかなりブラッシュアップしたように思う。
もちろん(こんな注釈をつけるのは読者のレベルを低く見積もるようで大変恐縮なのだが)「見てもらう『ため』の二次創作」というのは非常にばかげているし、情熱や萌えのない、まるでただ機械的に首を挿げ替えたような二次創作に出くわしたときは何よりも自分が怒り狂う。二次創作はファンアート、原作やキャラクターへの愛がなければやってられないものであってほしいし、事実自分の場合はそうなのだが(直近のジャンルは長短合わせて約250本書いていたし、web再録も含めると19冊も本を出していた。好きでなければやらなかった類の活動であろう)、よく二次創作否定派の一次創作者はやたら二次創作を無為なものに貶めたがるので、どちらもやるものとして双方の良さを語りたかった。一次がなければ二次がなく、二次がなければ一次もない。これはあくまで私の話ではあるが、そうした意味で創作者は好きなようにものを作ればいいと思う。前編の内容と重複する。エレン・イェーガー並みの自由厨である。
⑤ぶっちゃけ文章って絵ほど見られないよね問題
はい。
話が終わってしまう。待って。
先に言っておきたいのはあくまで特性である。あくまで見られる数に限って言うなら、絵と文は比べるまでもなく絵の方が多い。ただこの絵だが、意外にも非ファン、クラスタ外、非オタクなども目にする。私がこのnoteに紐づけているアカウントは実在俳優の仕事を追いかけ、感想文を書き、情報収集するためのアカウントだが、それでも人気コンテンツのファンアートくらいは普通にTLに現れる。
もっと数の話をするなら、日本の出版業界を支えているのは多くの場合マンガだ。統計を見てみたが(日本の出版販売額 | 出版科学研究所 https://shuppankagaku.com/statistics/japan/)紙書籍が売上シェアの41%で、おおー頑張ってんじゃんと思ったら当たり前だけど学習参考書なんかも含む数字だったらしい。GIGAスクール構想が進められる当世においてもまだまだ教育現場は紙信仰が根強いため、教育市場を含むならそりゃ4割行くわなあと思った。であれば仮に、参考書や新書、あやしいビジネス書なんかを除いて、一般文芸だけならどうなるんだろう。ちなみに漫画は電子もあわせて32%くらい。そして電子書籍で文章を読む人はなんと全体の2.5%! これはまあまあな衝撃だった。漫画を読む人は電子書籍を購入するが、文章を読む人は電子書籍を買わない。というか端末で長文を読まない。紙信者が多いのか、電子アンチが多いのか。モニタで長い文を読むのが目に悪く苦痛という意見もあった。ツイッターしてる人が何言ってんだと思ったが、確かにそれはいろいろあるかもしれない。
そして日本で公開される映画の興行収入ランキング上位は多くの場合アニメ映画だ。「鬼滅の刃」の400億はもちろん記憶に新しく、「呪術廻戦」もさっそく100億が見えている。そもそもそれ以前のランキングだって「千と千尋の神隠し」「もののけ姫」と続くし、これらに比べるなら国産実写映画はいかにも不人気だ。アニメは最もいろんな人が見るコンテンツなのだ。私は国産実写映画特有の陰鬱で情緒的な描写が好きだが、アニメの刺激に慣れてしまったら確かに冗長で婉曲的が過ぎるかもしれない。
数が示してしまっている。日本におけるフィクション人気は絵であること、それは言い換えれば「わかりやすさ」が命なのだ。実写作品の地上波ドラマでもそうで、この1年アカウントを運用しながら「平日の夜にシリアスな話は見る気がしない」「難しい話はたのしくない」みたいな意見をたくさん見た。複雑にギミックを凝らし、緻密な伏線を張ることは、読み手/視聴者にとって正解ではないのだ。おそらくどこかの誰かに刺さることがあったとしても、それは数的な正解に繋がるものではない。数がほしいなら難しさより優しさ、複雑さより簡易さを求めた方が良い。今は西田幾多郎の著書を求めて、大衆が丸善に列を作った時代ではない。世の中にはもっと優しくて癒しになる娯楽コンテンツがたくさんあるからだ。
だから「文章を書いて神作家になりたい、チヤホヤされたい」というのは、それが本音なら本当に悪いこと言わんけぇ絵の練習しんさい、と言いたくなる。絵は文章に比べて、上手くなればなるほど、うまければうまいほど目に見える数的な評価に繋がりやすい。もちろん好き嫌いは分かれようが、「数」という努力と目的の指標をひとつ据えるならば、文章でそのアプローチを目指すのはあまりにも効率が悪い。上達が目に見えにくく、上達したからと言って「見た人の心を一瞬で奪える」わけではないからだ。読むには時間がかかり、何が引っかかって次につながらないか知れたことではない。言葉遣いが引っかかる、句読点のリズムが心地悪い、地の文が多い少ない、♡が多い、云々。絵が描けないから文を書いているという人は(意外にも)多いらしいが、そのモチベーションで5年程度でも書き続けている人が何人いるだろう? 人は「本当にしたいこと」を犠牲にして無為な趣味を継続できるほど無欲ではないのだ。まあ大概それは本音ではなく、まわりくどい自虐を続けながら書くのをやめられない「同じ穴の狢」なのだが。
継続的に活動する字書きは自分たちのこうした不利性を、しかしながらそれほどディスアドバンテージとは捉えていない。字書きは字書きであることを選択して字書きでいる。それが能動的な理由か、受動的な理由かは知らないしケースバイケースだろうが、事実として文章媒体を選んでいるのには様々な理由がある。絵が描けないから仕方なく、はその一部でしかないし、評価がもらえないことを悔やむのもその一部だ。考え方の一つでしかない。
好きなタイプの字書きがよく言ってるのは、「字には修正が要らない」。そりゃもちろん個人や団体を特定する文言であったり、プライバシーあるいは商標などの権利侵害はアウトだが、基本的に「エロすぎて発禁」とか「喘ぎ声を黒塗りで修正」とかはしなくていい。今やチャタレイ夫人だって新潮文庫から「ちゃんと」出てる。公文書よりよっぽどクリーンだ。ギリギリのネタである。
また、二次創作であれば年齢指定くらいはあるが、一般文芸にはそんなものはない。名作文学と言われるものにどれだけノーガードでベッド描写が挟み込まれるかという話であり、高校国語の教科書に載っている小説が大体パターン化するのを見ればわかろうというもの。つまりそれ以外はアレがアレでアレなのである。仄めかすのもよし、ガッツリ書くもよし。故に「小説の方が良い」シーンも明白にあり、それは負け惜しみでもなんでもなく事実そうなのだ。どこまで書くか、どこまで明記するかを自分で線引きできる自由さは絵よりずっと高い。ずっと男口調で女性を描写することだってできる。まごうとなき人間を描いているように素体を持たない人工知能を描写することだってできるし、ありとあらゆるビジュアル要素から独立した世界を表現することもできる。そもそもインターネットの匿名性も文章に起因するものだ。YouTube, TikTok全盛の今世においてそれもギリギリという気はするけど。
媒体が違えば特性が異なるのは当たり前。何か文章創作は「絵のバーター」みたいに捉えられがちなので、やる人も見る人もそういう感覚でやりとりしがちなのかなと思う。ちゃいまっせ、と書くことにも一定の価値があると思ったので明記しておいた。なんでも優劣でしか捉えられない価値観で創作をやってたら、過去の秀逸な数多の作品に押しつぶされて何もできなくなってしまうのである程度開きなおる。本当にパクってない限り「パクリだ」と怒られても「まあこのネタなら被ってもしゃーないか……」と流す。自分より上手な人がスゲエ創作をしていたとして、自分の人生をコイツは送ってきてねえし見聞きしたもんも違うんだから同じはずがねえんだよなという姿勢。同じものを見ても違って出力される結果。
類似とパクリとオマージュの違いはこれである。
このあたりは青木琴美「カノジョは嘘を愛しすぎてる」に最適解が載っていた。「『ダルビッシュが野球やってるから』って野球やらない人はいない」。常に心に刻んでおきたい名言である。
⑥承認欲求と創作意欲を混同したがる人たち
これもさっきの話とつながってくるのでサクッと済ませたいところ。
承認欲求と創作欲求はまた別の話だ。承認欲求は創作意欲より手軽に、もっと簡単に満たすことができる。親にご飯を作って、美味しいと言ってもらおう。終わり。夫でも子でも友達でもいい。掃除をして綺麗と言ってもらってもいい。飼っている魚を褒めてもらってもいいし、着ている服を可愛いと言ってもらってもいい。
承認欲求というのは他人に「承認されたい」という感情で、承認の定義をどうするかにもよるが、少なくともインターネットで不特定多数の顔も名前も知らない人間に神扱いされたところで満たされるものではないのである。なんでもいいから褒められたい、というのも見聞きするが、それなら生きてるだけで褒めてくれるbotに話しかけた方が気楽で気軽だ。予めプログラムされているものなので誰の手も煩わせない。わざわざ他人の手を煩わせて褒めさせるストレスを思えば。なんなら自分で自分を褒めてもいい。マッサージと一緒で、自分のツボは自分が一番よくわかる。それでも人にしてほしいからプロに金を払うのだろうが。
創作意欲というのは厄介で、常にあるわけじゃない。大体忙しい時に最も活発になる。現実を逃避すべく、週の残業時間が20時間近くなった時ほど書く文章の量が増える。これは私の体験談。
創作意欲は誰に褒められても解消されない。料理は創作意欲ではない。多分料理が創作意欲になる人もいるけど、文章創作の奴はやはり文章が創作意欲を満たしてくれる。きっと音楽なら音楽で、絵なら絵で。創作じゃなかったらたぶん、いろんな欲になるんだと思う。こうしたい、これがほしい、これが見たい。
書きながら思い出したのですが、マズローの欲求に関する説では承認欲求は第4段階だった気がします。自己実現に関してはそのさらに上の第5段階。なのでまずは第4段階の承認を満たさないと第5段階には行けすらしないわけで。敢えてめちゃ雑な言い方をするなら「人に褒めてもらって満足してるような段階は創作そのものに欲を見出すような次元にまだ達してない」ということですかね。知らんけど。
一般的に自己顕示欲の強い人ほど承認欲求は満たされてないと言うが、確かに他人の評価を集めて欲を満たすって結局は他者に依存してるので、人への関心が他の物事より上回るあたり社会的動物の片鱗があって可愛いモンだなと思います。
孤高を気取るうちはまだ孤高ではないわけで、「気がついたら一人だった」とは質が違う。そういうオタクを何人も知っているので、ひとり同士で仲良くしつつリスペクトフルに己の創作を続けたい所存。本当に一人だったら死んでも誰も気付いてくれないので、それだけは避けていきたいところ。
⑦表現の自由と性描写とチョコレート
全体的に後半戦は細かめのトピックが多いので前項と部分的に重複する箇所が多い。表現の自由問題は触れると絶対炎上する気がしたが、散々創作表現の話をしてきて全く触れないのもいかにも日和ってるというかクソだせえなと思ったので言及だけしておきたい。
この話題を飛ばすと性描写に関して、しかも「ツイッターフェミニズム」と「美少女コンテンツ」の安易な構造に貶められた二項対立で描かれがちなので、黙れ黙れハウス、という気持ちで書いていることは最初に書いておく。
憲法に規定された「表現の自由」は性描写だけを容赦したものではないし、「フェミニズム」は自分の不快を正当化するために持ち出すものじゃない。これで終わり。すべては無為で馬鹿げたことだ。どちらも自分の主張を通し、相手を屈服させるためのケツモチ的な理論でしかない。個人レベルの快不快を憲法や学問に守ってもらおうとしないでほしい。仮にそういう姿勢でいるならもっと色々勉強した方が良いし、少なくともTwitterで口汚く罵っている場合ではない。ということで基本的にはあれらの大半と距離をとっている。距離を取ろうとしても視界に入ってくるので、よっぽど関心の高い人が多いらしい。性別という先天的なカテゴライズが人間に与える影響はまあまあ大きいので致し方ないのかもしれないが、びっくりするほど「自分ごと」にしている人が多いのは気になる。主観的に捉えて感情で処理すると絶対ミスるトピックだと思うけど、「気に入らないもの」を叩くためなら正当性は割とどうでもいいのかもしれない。
個人的には性描写の云々よりもお手軽なヘイトや安易なネタ化の方が気になる。表現の自由というが、表現の自由が無秩序に、無制限に繰り広げられるせいでありとあらゆるものがネタとして消費される危うさみたいなものの方がよっぽど肝が冷える。具体的には「実在した国家」や「実在する政治的思想」、「実際に苦しんだ民族」「戦争犯罪」なんかがカジュアルにネタ消費されている日本独自のガラパゴス倫理観にドン引きしている。昨日も実はそういうことがあって、おいおいマジか誰も止めんかったんか、どんだけ無知なんやと天を仰いだ。やはりなんだかんだで人が何人も死んでいる事象には敏感になった方がいいし、そういう感覚を持てずとも想像くらいはした方が良いんじゃねえの、と思ったりもした。ちょっと前に藤本タツキ「ルックバック」が実在の事件を連想させるとして話題になり、配信版から表現がやや修正されるなどの対応が取られたが、ああいう過剰な(個人的には過剰だと思った。スクールデイズのnice boat. とかもそう。国内で突発的に生じ、大々的に報道された凶悪犯罪については謎の配慮と倫理規範が行き渡り、それがさも当然のように処理される)対応ができるなら何故この規模の悲痛な歴史をエンタメとしてカジュアル消費できるんすか? なんでそんなコスプレを安易にできるんですか? みたいなことが結構あって、これはまさにチョコレートの話と一緒だなと思う。チョコレートは誰もが食べるから、カカオ農場の悲惨な児童労働を誰も批判しないし、不買運動も起きない。それはその恩恵に与るから、恩恵に与っているから批判しない。日本に住んで日本社会のトレンドを見ていると、こういう都合の良いダブルスタンダードをめちゃくちゃ見る。本当に同じ口から言ってる。まあ好きにしたらいいよ好きに考えなよ、人間だから主旨一貫することだけが正解じゃないよと思いはするのだけど、「表現」をするときにこの辺無頓着だとやべえなという危機感もある。あまりに浅く、考えなしで、馬鹿っぽく見える。これは自己への戒めとしてだが、鈍感であることや無知であることを恥じるくらいの度量は持っていたいと思う。知らず知らずのうちに何かを踏みにじる創作は、言い方は悪いが今の時代に「わざわざする必要はない」。今まで散々作られてきた名作で十分。何故今も作るのかといえば、今の価値観でしか表現できない世界があるからであってほしい。今の価値観が良しとするものだけその時代に作っていたい。
幸か不幸か、この10年での日本の創作物における価値観はめちゃくちゃ変貌している。多分インターネットの発達と、色々な見解を目にする手軽さがそうさせたのだと思うが、2013年くらいの邦画で信じられないような差別発言をしていたり、2012年くらいの映画で社会的弱者が何の解決過程も得ず、本当にひどい扱いを受けていたりする。そんなモンだった。10年前なんて。10年で社会の中心層は変わる。社会は常に変化し続ける。その変化に敏感でないと、結局何かを模したような、価値のないものしか作れない。意図しない追随はそれはそれはダサい。パクリ呼ばわりされても「仕方がない」。
数字ではなく自分が許せる創作を。「表現の自由」に関して自分が思うのは、結局そうやって何かを「害する」自由が後押しする暴力を肯定しているうちは、害悪的な価値観に抑圧されているという点でどこまでも不自由極まりないのだということだ。生粋の自由厨なので、誰の言うことも聞きたくないし、他者の不自由も自分と同じように好かない。「不自由」を肯定する自由なんてなくていい。誰よりも批判的に自作を見られるのもまた自分なのだという気持ちで、今後も創作に取り組んでいきたい。
ちなみにこの章のタイトルに関しては元ネタがあるが、わかった人に伝わればいいなと思っただけで深い意味はない。ここ読んでる人にいるかなあ…
まとめ
だらだら書いてたら2021年も今日で終わってしまう。やばい。
この文章を書きながら今日Netflixで配信された常田大希のドキュメンタリを見ていた。2021年1月に放映されたものらしい。常田氏の創作過程はものすごく興味深くて、この映像を見たことでようやく創作論を語り尽くそうという気になった。ありがたい。あとかわいい。いい男。綾野剛に惚気倒される男。わかる。
書きたいことがたくさんあった。ありすぎて読みにくいから分割したくらい、創作に対して言いたいことを全部書いた。結局、自分は自分が作る側であると同時に、ものすごく受け取る側でもいたい生き物なので、双方の立場から創作全般について色々なことを書いた。受け取る人が作ることも好きかどうかはわからないが、作る人は概ね、受け取ることも好きだと思う。好きの輪の中に偶然、作る立場として交わっているだけ。作る行いは根底的にインタラクティブなものだ。めちゃくちゃ自由に振る舞いながらも、その意識を持つことだけは大事にしたい。
これを読んだ人の2022年の創作が実り多く、楽しく、自分にとって有益なものであることを祈ります。そして尊敬するクリエイターの作品を来年もたくさん見られることを願ってこの文章を締めます。
ありがとうございました。では皆さん良いお年を。
またよろしくどうぞ。では。