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ゴッホの青い手紙 23

 テオよ。ご機嫌はいかがか?君はシャバンヌの「貧しき漁夫」を知っているね。
 私も好きな画家だ。私もあのような絵を描いてみたいがなかなか描けない。描いたところで二番煎じになる気がする。いろいろ試してはいるがね。
 ボードレールの「悪の華」を君は読んだかね。あのような詩が生まれてくる必然性はたぶんあったんだろうね。カトリックとプロテスタントの、皆、口を閉ざしているあの、惨たらしい過去があればそれはありうるだろう。
 だが、また少し時間が経てば学者や知ったかぶりの頭でっかちの玩具になってしまうだろうな。絵画もあのような表現をせざるを得なくなるだろうな。
 所謂、古典は歴史画や宗教画、または神話にかこつけて表現せねばならなかったのだ。夢、愛、官能美、葛藤といった人間の内面的な動きを、静的かつ平面的に、時には壁いっぱいに装飾的に表した。ギュスターヴ・モローみたいな絵もある。
 そこ行けば印象派は能天気さ。外光に活路を見出してケツまくって逃げている感じもする。それはそれで良いよ。悪いことではない。
話を戻そう。シャバンヌの「貧しき漁夫」だ。僕は眼を閉じればあの絵を思い出すことができる。

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 水平線と地平線の両方が見える。画面の色は緑の色調だ。静かで詩的な画面に入江が遠近感をかもし出している。画面右側には花々が咲いていて、その花の上に幼子があおむけになって寝ている。もう少し向こうには、漁夫の妻らしき若い女性が花を摘んでいる。
 岸辺につないだ小舟は、画面下の水面に、まるで鏡のようにその形を映しだしている。ここには風もなく、凪の状態だ。小舟の中には魚は一匹もなく、漁夫が船首に垂らした小さな網には、魚が入っている様子もない。漁夫が魚の動きに注視するというよりは、立ったまま目を閉じて、静かに祈っているようだ。彼はいったい何を祈っているのだろうか。
 描くものに表現の自由があるように、見るものにも解釈の自由が与えられたところにこの絵のいいところがあるというがそれはどうだろうか?所謂、古典はよっぽどの眼力がない限り絵の中に入り込めなかっただけのような気もする。
 キリスト教徒なら、この絵を見て。「ルカによる福音書」の第四章を思いおこすだろう。湖畔でイエスが漁師のシモンと出会い、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言う。しかし、シモンは「私たちは夜通し苦労したが、何も採れなかった。」と答えた。しかし、イエスが言った通り、沖に漕ぎ出して漁をしたところ、網が破れそうになるほどいっぱいの魚がとれた。この漁師のシモンは、イエスの最初の弟子でペトロ(教会の礎石)と命名された。漁夫が聖書に書かれたシモンのように感じる人もいるだろうな。花の上に寝る子供は幼子イエスとみる人もいるだろう、花を摘む若い女性は聖母のように感じる人もいるだろう。シモンは自分の背後に、イエスがいることを知らずに、まだ空の網を見つめながら、豊漁を祈っているかのようにも感じるだろう。別に見る人の自由だ。決まりなどない。そこが良いところではある。
 では、僕がどう見たか話そう。私がこの絵を見てこの絵はレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐のオマージュではないかと言う推論に至る道のりを書きたい。もちろん各自見方は違って良いことは言うまでもない。私の見方はちょっと変わっている。
 最初この絵を見て自分はどう感じただろう。正直に言う。
① そこらへんに居そうな、人は良いがちょっと間抜けでのんびり屋のおじさん。
② 「魚取れねぇな。今度網を引き揚げられるときは魚網に入っているかなぁ」
③ 赤ちゃんが寝ているな。この三人は親子かな?
④ 赤ちゃん地べたに寝ているが虫に刺されないかな。心配。
⑤ 杭にロープが巻かれ船を固定しているが一か所だけじゃ不安定だな。
⑥ 奥さんは花を摘んでいるのかな。のどかな情景と言えばのどかだ。
ざっととこんな程度の感想だ。我ながら、どうしようもない低次元の感想だ。
それはそれで良いのだ。

続く・・

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