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ゴッホの青い手紙 22

 テオ、元気かい。私はすこぶる元気だ。君はル・ナン兄弟を知っているかい。忘れかけられた画家だそうだが、最近、陽の目を浴びているらしい。
 僕はこの画家の絵を見たことがある。農民を描いた画家だそうだね。
 君はこの兄弟の絵をどう思う。農民に同情して悲哀を描いたのだろうか?確かに一見宗教的な絵にも感じられる。だが私は案外、絵に必要な小道具が、と言うか部品と言ったらおかしいかな?そんなものが農民の暮らしの中にあったからじゃないかと思う。直感だがね。桶とか柄杓、暖炉、パン、猫や犬、鳥・・そんなものが思う存分描けるではないか。
 案外世間は短絡的にものを見る。農民、貧しい、かわいそう。このような決まりきった見方で、さもこの画家はこんな感じの絵描きでした、みたいなね。これを覚えて試験に合格すればそれを真実だと思い込んでしまうんだね。愚かなことだ。確かにつまらん絵を小難しい解説を付けて売り込むセリフ憶えには便利かもしれん。
 僕は数枚ル・ナン兄弟の絵を知っている。あの「室内の農民家族」君は見たことがあるかね?

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一般的にはこう思われているらしい。
高貴な肖像画。これほど、農民の生活を雅に描いた作品はない。それぞれの人物は、ほぼ正面を向いて、まるで何かの記念のようだ。服装も、貧しいながらも、華やかな彩りを添えている。16世紀のネーデルランドでは、宗教改革が進み、偶像崇拝が禁止された。そこで、風俗画が流行した。しかし、この作品は、単なる風俗画ではなく、ここには信仰や祈りが込められている。ざっとこんな感じだ。少し気の利いた見方では、ここに描かれているのは、農民ではない。この人々は、聖母マリアや聖人たちではないか。農民を神聖化していた。ここに描かれているのは、農民という名の聖人ではないだろうか。
 

 もっともらしい解説だ。ミレーの人気にあやかってこじつけた感じもするが、まぁ良いだろう。

私は全く違う見方をする。

あの絵は不思議だ。誰もこちらを見ていない。あの爺さんみたいな人物もこちらを見ているようで少し右を見ている。誰もこちらを見ていないのに、この絵を見ると、なにか見られている気がしてならない。なぜだろうかと穴のあくほど見たさ。僕のやることだ。1時間ぐらい見たかな。僕は発見したよ。あの爺さんの右手の肘のあたり、向かって左の腕の肘だ。ここに大きな瞳が有るのだよ。誰も気が付かないが、たぶん人間の心の中、心理には何かしらの影響を及ぼしているのではあるまいか。そして私はこの瞳を見出したことでこの絵の世界に入り込めた。

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 今度はその眼の上方に眼をやる。何が描かれていると思う?青い手紙にしか書けない内容だ。君には包み隠さず言う。老人の肩だ。肩のあたりの皴だ。これは女性の性器だ。まさしくそのものだよ。今度観る機会があったらよく見るんだ。

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 そして老人が抱える籠みたいな壺みたいなもの。あれはまさに出産を現わしている。そして右下の人形のような子供に眼が行く。茫然自失みたいな子供だ。まさにキリストだ。マリアから生まれ、幼少期は呆然とするしかなかったのだろう。神の子なのだから。

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 そして猫に眼が行く。よく見てごらん。あれは猫ではない。老人の顔だ。猫の顎が老人の口なのだ。そしてあの壺も気味が悪い。まるで鉄仮面だ。そして痩せた犬。よく見たまえ。あの明るい部分に幼児が描かれている。どこかダ・ヴィンチの絵画に出てきそうな幼児だ。

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 そして茫然自失の幼子は福音の笛を吹き、そして暖炉の前で皆に光を与える。左の女性だけ赤い葡萄酒を持っている。あれはキリストの血を現わしている。壺は血を受け止めるためのものだ。ここで終わらない。この人物たちは誰なのだろう。老人は神なのだろうか?その右はマリアなのかもしれない。もしかしたら左の女性は年老いたマリア。年老いたとは言っても四十五歳くらいだろうか?同じ人物なのだ。

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 そうなると奥で、横顔で火にあたっているのは誰か?マグダラのマリアなのか?さらに左端の一見壁に見える少女は誰なのであろう。
僕はこんな風に見るのだ。

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 そう考えるとル・ナン兄弟とはいったい何者?
何を描きたかったのだろうか?
 ダ・ヴィンチの絵で救世主サルバートムンディを見たことがあるかい?
 一度だけ見たことがある。あの絵画にも女性の性器が描かれている。もし見る機会があったら見てくれたまえ。確か中央左側の衣服の皴だ。

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 ルーベンスのアンギアーリの戦いは知っているかい?レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画を模写したそうだ。しかも模写した版画をみてさらに模写したそうだ。この話はまた会って話せれば楽しいが、僕はあのルーベンスの模写はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたのではないかと思うのだよ。
 この話は以前にも書いたね。私もミレーとか模写しているからわかるが、模写というものはうまく言えないが、普通絵描きが対象を見て思いめぐらせて描くのと違う。そこに絵があるのを見て描くわけなので、なんというか逆に癖が出るものなんだよ。それがあの絵にはない。ルーベンスの癖がない。まぁ、僕が見るのにルーベンスは流れ作業みたいなというか分業を徹底しているね。「お前は服の担当。はい、「おまえは顔」「君は背景」みたいなね。後半の風景画は良いものもあるがね。でも、あの「アンギアーリの戦い」は違う。
 話が逸れたね。そのアンギアーリも闘士の衣服が女性の性器だ。以前このことは描いたかな?この「アンギアーリの戦い」の女性の性器がヨハネといわれる人物の上に重なる。これ以上この人物が女性という説明はないだろう。話が逸れたが言っておかねばならなかった。

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 もし模写だったらルーベンスは気づくはずだ。そのくらい写実に描かれている。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体を解剖するくらいだからお手の物だね。ル・ナン兄弟は案外そんなところに興味を持ったんじゃないかな。
 うわべは農民の悲哀みたいな雰囲気は醸し出しているが、描きたかったのは全然違う意味だった気がする。そのような過去の絵の隠された表現を試したくて仕方なかった気がするよ。そうやってみれば、あの女性の膝の白い衣服だってまるで石膏像に白布かぶせたみたいじゃないか。意味ありげだね。

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 たぶんこんな話をすれば私は狂人扱いだろう。白い手紙には書けないわけだ。だがな、テオよ。もしあの宗教改革と言う名の暗黒時代、もし仮に私の様な見方をする人が現れたらどうなると思う。彼らもまた命がけの表現をある意味、遊んでいたのだ。芸術家のサガかもしれない。カトリック的な意味からすればこの絵はご法度だからね。
 マリアの性器を描いてしまうのだから。もう一枚忘れられない絵がある。ロバと言う絵だ。なんの変哲もない絵だが、トリックを楽しんでいる。ロバのお腹の下を見てごらん。あれは老婆の衣服ではないよ。向こうの山の崖なんだよ。

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 あの岩はレオナルド・ダ・ヴィンチの岩窟の聖母を思い出させるね。いずれにせよ、彼らはルネサンスの画家の絵の、ある種のエッセンスを取り入れている。かなりの絵描きだし曲者兄弟さ。そう考えれば後年、生き残った兄弟の内の一人は貴族にまでなったそうだ。そしてその貴族になった男は自分が絵描きだったことを隠そうとしていたらしい。
 辻褄があってきそうな気がするね。私はこんな話を議論したいのさ。こんな絵の真似をしようとは思わないし、真似したところで二番煎じだ。我々はこの様な先人の画家の絵を学びつつも革新的なものを描くのだ。それしかないだろう。私は今まさにそこに立ち向かっているのだよ。いざと言う時に、ここぞという時にひけ散らかす知識なんて何の意味もない。そんな悠長なことは言っていられない。わかるだろう。テオ。君ならわかる。また長い手紙になってしまった。処分はお願いする。


追伸 
 ミレーとル・ナン兄弟は全く異質な画家だと思う。あえて言えば農民を描いたという点だけ共通なだけだ。私はどちらも吸収した。以前にも書いたが私はミレーの絵は種まく人以外は駄作で、私が描きなおしをしてやった。ル・ナン兄弟から学んだことはジャガイモを食べる人々で使わせてもらった。


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