ゴッホの青い手紙 23-1
続き・・
少し時間がたつと、子供のころ見たならば、このおじさん、キリストに見えただろうなと思った。今でこそ、私も髭を生やしてはいるが、痩せて髭を生やしている人はみんなキリストに見えたものだ。そんなことをふと思い出した。
色合いが落ち着いた感じで不思議な世界観があることは誰も異論はあるまい。
波立っていないところを見ると凪なのか?凪の状態というものは朝夕が多いが、奥さんが花を摘んでいるということは十時ころなののだろうか?午後は風が出てくることが多い。
この絵で直線は水平線と網を上げる滑車のついた棒とそれを吊り上げるロープ、そしてオール。そんなことをこの絵を見ながら感じた。
ふと考えた。キリストに十二人の弟子がいた。私はレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は自分なりに解析しているので覚える気はないが登場人物の知識は身についてしまっている。キリストの弟子には漁師が多い。
ペトロ、弟のアンデレ。大ヤコブとヨハネ。この四人は漁師ではなかったか。この漁夫はペテロなのかもしれない。ペテロと言う人物は私の中では、頑固者、気持ちの優しいおじさん、落ち着いている割にはそそっかしい、気が強いようで臆病、優柔不断、十二人の弟子の中では年長者でリーダー的な存在、そして確か結婚していたはずだ。そう考えられるとこう考えられないだろうか。
大海に漕ぎ出すにはオールは必須だ。杭にシッカリ張られ固定されたロープがある。漕ぎ出すために必要なオールと引き留めるロープ。彼は悩んでいるのかもしれない。ある意味で妻子を捨てキリストの弟子になる。しかし簡単に家族は捨てられない。悩んでいるのかもしれない。優柔不断だと彼を責められるのだろうか?私には何か深い悲しみが伝わってくる。人生経験豊かなペテロならではの悩みなのだ。痛いように伝わってくる。結果的にはこのロープを切り受難の道を歩むわけだが、このロープは彼の運命をそれこそ象徴しているのかもしれない。
この3人は親子なのだろうか?奥の人物はよく見ると胸がない、奥さんを描くならばもう少しふくよかで、胸も大きく描いて良いのではないかと考えてしまう。貧乳だと言われればそれまでだが、乳飲み子がいるので大きくても良いと思う・・・まぁいい。
こう考えてみてはどうだろう。この人物は女性ではなく少年だ。この少年はヨハネ。ヨハネもペトロも一番弟子だ。重要な弟子なのだ。
ヨハネは若く雷の子の異名をとる。そして美しかった。そんな彼がペトロのところに来る。「ペトロさん早く行こうよ。あの方のところへ・・・」
ペトロはまだ悩んでいる。そしてこの直後、ロープを切ってあの方、キリストのところに向かうのかもしれない。乳飲み子を捨て、家族を捨て・・・ここまでが文学的思考で僕が考えた部分だ。
私がこの絵を見て気になる点がある。この薄ぼんやりとした不思議な雰囲気の色合いの中で漁師のズボンと奥の人物の黒色がこの絵の雰囲気の中では若干強く感じる。特に奥の人物の黒の色が気になる。この形どこかで見たような気がしてならない。私は最後の晩餐をどのくらい見たかわからない。模写も観た。頭に形がこびりついているのである。
この形状はもしや、最後の晩餐のヨハネの形状ではないか?衣服だ。
文学的思考の中でたどり着いた事項と一致する。そこで頭の中ではあるが、最後の晩餐にこの人物の黒い部分を切り取り脳内で貼り合わせてみた。
回転させた「貼り合わせたところ見事一致した。今度は漁師のズボンだ。違うかもしれないがシモンの体に一致する。
こうなるとどうにも止まらない。
赤ん坊の衣服も見覚えがあるキリストの衣服だ。右側のキリストの衣服だ。
私はこの三点で最後の晩餐のオマージュと結論付けてしまいそうになった。
あの岬の形も気になり始めた。そして岬も最後の晩餐に合致するのだ。
続く・・