ゴッホの青い手紙 43
テオよ、フランドルのヤン・ファン・エイクという画家は偉大だ。といってしまえばそれまでだが、偉大過ぎたのではないか?フランドルのメムリンクもフーゴー・ファン・デル・グースもみんな同じ顔に見えてしまう。聖母とかね。
グースのポルティナーリ祭壇画とヤン・ファン・エイクの聖母子を頭の中で合わせると顔も体つきもぴったり一致だ。衣服の皴まで同じに見えてしまう。
あまりにも影響が強すぎたのではないだろうか?後の画家が型にはまってしまいそこから抜け出せなくなってしまった気がする。フーゴー・ファン・デル・グースのポルティナーリ祭壇画はレオナルド・ダ・ヴィンチにも影響を与えた絵らしい。あの絵だけは不思議だ。なんで登場人物の大きさがバラバラなんだろう。
他のフーゴー・ファン・デル・グースの絵画はそんなに人物の差はない。例の三角のガラスで見ると面白い画像が脳内にできるがその為にこの様な表現をしたのであろうか?
話は変わるがフーゴー・ファン・デル・グースの聖母被昇天は十二使徒がしっかり描かれている。ユダの問題はないのであろうか?それほど気にされなかったのだろう。
以前にも書いたがティツィアーノ・ヴェチェッリオの聖母被昇天は曖昧な表現で十二人は描いている様で描いていない曖昧さで表現される。最近見直されているエル・グレコの聖母被昇天は十一人で曖昧に一名が描かれている。
今僕たちがあまり気にしていないことだが当時の画家はユダという人物をどう見るかで自分の意思を表そうとしたのだろうか?まぁ今となっては聖母被昇天などというテーマ自体、誰も関心持たないだろうが・・
話は戻るがフーゴー・ファン・デル・グースはなぜあれだけの地位と名誉があったのに修道士になったのだろう。僕は何故か彼に惹かれる。僕と反対だが何か似ているような気がしてならない。焼却願う。
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