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岩窟の聖母 12

無原罪の御宿り

私は、やや難しい話を書かなければならないようだ。ウィキペディアによれば、この祭壇画の主題として当初望まれていたのは、聖母マリアの処女懐胎の秘蹟である無原罪の御宿りに、より近いものだったということだ。無原罪の御宿りには独特な概念が存在し、カトリック教会はキリストが処女たるマリアを母として誕生した神の子であるという教理を常に掲げてきた。 
15世紀にはフランシスコ修道会を中心として処女マリア崇敬が盛んとなり、マリアの処女懐胎は「純潔」と同義になっていった。このマリア崇敬はマリアが処女のまま神の子を生んだとする秘蹟に対するものではなく、マリアが神の子を宿したことによってアダムとエバの末裔たる人類が逃れることのできない原罪から、マリアが解き放たれたことに対する信仰である。キリスト教に詳しくない私にはよくわからないが、マリアの処女懐胎は「純潔」と同義であり純潔のシンボルが百合ということなのだろう。それをマリアが拒絶している。
カトリック教会における教義では「マリアはイエスを宿した時に原罪が潔められた。」という意味ではなく、「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」とするものである。前提として、カトリック教会において原罪の本質は、人がその誕生において超自然の神の恵みがないことにあるとされる。私の個人的な意見ではマリアは初めから普通の女性ではないということにしておきたいらしいということだろう。逆に言えば普通の女性を差別している考えにも見て取れる。私の考えすぎだろうか?話をレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた絵に戻そう。
私の解析によりマリアが拒絶しているものは白百合である。ということはレオナルド・ダ・ヴィンチがカトリックの教義とは反対の考えを持っていたことになる。つまり「マリアは普通の女なのです。」ということを言いたかったのではないだろうか。ということはレオナルド・ダ・ヴィンチが依頼主とは全く違った考えの持ち主であったということにならないだろうか。文献にもレオナルド・ダ・ヴィンチのその様な考えを推察しているものもあるらしいが、より具体的により明確に彼自身は彼自身の絵でそれを表現しているのである。これは私の大いなる発見ではないだろうか。




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