【そう 思えば そう】
MonoeJun小説集。短編。
(約4000文字。読了見込時間は個人差考慮で5〜10分)
〜◆〜
締め切りギリギリに編集を済ませ、仲間と軽い打上げで飲んだ帰り、深夜の家路。誰が待つでもない自分の「巣」へと僕は歩いていた。
それ程酔ったつもりはない。意識は冷静だったと記憶している。
気付くと辺りは全くの無音だった。眠らないこの街でずっと生きてきた僕にとって、こんな夜はまったくの初めてだったといえよう。
実際には少し違う。
下町から新大久保へ、そしてまた下町へ。流浪の少年時代だった。
子供の頃は確かに、ここから割と近所の木場に住んでいた。
僕は幼い頃に両親を交通事故で亡くした。それからというもの、新大久保の伯父に引き取られ社会へ出るまで世話になったが、この年になり妙に郷愁めいたセンティメンタルに駆られ門前仲町へ移ってきた。今までの僕には珍しく衝動的な決断だった。
首都高を走る車の連結を走り抜ける乾いた通過音。遠くで鳴る緊急車輌のサイレン。結局、東京で過ごす以上は毎晩、それらが心の隙間に、かすかに、そして確実に積み重なっている物だ。
今夜は何一つ音がない。外界との一切を遮断した様な場所にも思える。
こんな夜もあるものか…と感じたが、特に気にとめる事はなかった。
昼間にはビルの谷間に停滞する、熱と粘度の高い湿気が嘘の様な涼しい夜だった。そよぐ風はどこか、秋の気配を含んでいる。
そして静寂も運んできた。夜空からも降ってきた。
孤独だ。
おそらく僕は、世界でただ一人生き残った最後の人間の孤独を感じていたに違いなかった。
近所の橋の舗道へ差し掛かる。青い欄干にネオン照明。
無論、橋とは反対側の岸へ架けられた単純な建造物である事は言うまでもない。しかしこの時の僕は、橋へ歩を進めるごとに胸騒ぎを高めていた。
この橋は…一体どこへ架けられた橋なのか。
反対側の岸には何があるのか。
〜◆〜
いつしか自分の足音も聞こえなかった。無限の静寂に圧し潰されそうな感覚。そして僕は、橋を渡ったこの先に、まだ知らない何かが待っている事を知っている。僕はその正体を見届けたかっただけかもしれない。
眠りについた人々の魂魄が、僕の周囲にまとわりつく。僕は不思議とそれも自覚出来ていた。けして酒で酔っていた訳ではない。何に恐れるでもなく、僕は導かれる様に歩を進めていた。
暫くしてふと気付いた。
欄干の色が赤く錆びた色に変わっている。目に映る景色の色がセピアに褪せてゆく。暗闇に目をこらせばそこには見慣れたマンションの群れも無い。
間違いない。
僕が子供時代に見たこの橋の風景だ。
僕はいつの間にか時の歪みに迷い込んだ様だ。あまりの懐かしさにポケットからスマホを取り出し、赤錆のその橋をシャッターに収めた。
橋を渡り終えた時だった。
一人の少年が袂で座り込み、膝を抱えている。現実ではないにせよ、子供が一人で徘徊してて良い時間ではない。僕は少年に声をかけた。
「おい、どうした?坊や。こんな時間に一人で危ないぞ」
僕を見上げた少年の顔を見て、僕はただ息を飲んだ。
少年は両目に涙を浮かべ、哀しみを充たしている。
何という奇蹟なのか。そうか、この不思議な旅の終着駅はここだったのか。
遠く幼き日の僕だった。
僕は…いや、彼は、と言った方が正しい。
彼は一瞬、怪訝そうな眼差しを向けたが、すぐさま立ち上がり埃を払いながら言った。
「ごめんなさい。子供の時間じゃないよね。帰ります」
「どうしたんだい?パパとママにでも叱られたのかい?」
僕は答えを知っている質問を彼にぶつけた。
「ううん、パパとママは死んじゃったんだ。それでね、僕は新宿のおじさんちの子供になったの」
(新大久保の伯父の事を、当時は新宿のおじさんと呼んでいた)
知っている。僕はこの場面を知っている。
とにかく、こんな場所にいても危ないからと、交番まで送ろうと促し、二人並んで歩き出した。
「パパもママもいなくなって、大変だったね。でもね、知らない人には付いていってダメだと、パパやママ、伯父さんには教わらなかったかい?」
「うん、教わったよ。でもね、おじさんのことは信じて大丈夫だって、なんかね、そんな気がした」
そう答える事も知っていた。というよりは、忘れていた映像がまざまざと蘇ってきていたのだ。
僕は自分の腰より少し背丈のある彼を見下ろしている。しかし同時に、彼の目線となって見ず知らずの親切な男性を見上げていた映像が重なっていた。彼が…いや違う。何かが僕の封印した扉を開け放つ瞬間だった。
僕は一度、身の上を預かってくれた伯父に叱られ、伯父の家を飛び出した事がある。僅かな小銭を握りしめ、道行く大人に「木場はどうやって行くんですか?」と尋ねながら、地下鉄を東西線まで乗り継ぎ、ようやく木場まで辿り着いたものだった。
その後も記憶だけを頼りに、住んでいた都営団地を尋ねるも、探していた両親の姿を見つけられる筈はない。
住んでいた部屋は施錠され、誰も居住していない事は子供心にも判断出来た。その時になって持っていた小銭も使い果たしている事に気付き、夜まで彷徨い、途方に暮れていたのだ。
その時に見ず知らずの親切な大人の男性に、助けてもらった事を思い出す。
まさかその相手が未来から来た自分だなどと、当時の僕…つまり彼にわかる筈などない。
「そうだ。お腹が空いているだろう?何か食べたい物はないかい?」
「うん…僕…もうお腹がペコペコだよ…」
「この先にコンビニがあるだろう?おにぎりでも買ってあげよう」
「え?コンビニってまだやってる時間なの?」
「ははは。勿論さ。コンビニしかやっているトコないだろ?こんな遅い時間に」
しかし僕のその提案は、シャッターを下ろしているコンビニを見つけた事により無残に打ちひしがられる。
そうだった。完全に時代があの頃のままだ。
「ほら、おじさん。もうやってるわけないじゃん。知らなかった?セブンイレブンって、朝の7時から夜の11時までやってるからセブンイレブンって言うんだよ」
仕方なく自動販売機を探し、ジュースを買ってあげる事にした。表示価格を見て一瞬戸惑ったが、この時代なら当然かと納得し、100円硬貨を一枚入れてコーラを買った。
細長い250mlの缶が出てきて彼に手渡した。
「ありがとう、おじさん」
彼ははにかんで受け取った。彼の空腹感。枯渇。僕にはよく分かりすぎていた。
「おじさんはどこでどんな仕事をしているの?」
「僕はね、大人の人達のビジネスのね、本を出版しているお仕事をしてるんだよ」
子供にビジネスだとか出版、そんな単語がわかるものか。言ったすぐ後に小さな後悔が沸く。元々子供がいない僕にとって、子供とのコミュニケーションなど未知に等しい。
だが彼は、「本」という単語に興味を示した。
「本?本を書いてるの?おじさん」
「いや、書いてるんじゃない。誰かが書いた文章を、正式に本にして本屋さんに売ってもらうまでのお仕事なんだ」
「なーんだ。本を書いてるんじゃないんだ…」
この運命の悪戯なのか何なのか、導かれて彼と向き合わされた理由がわかった気がする。
「おじさん、僕ね…大きくなったら本を書きたいんだ。書けるかなぁ?」
「書けるよ。君なら書ける」
「何で初めてあった子供なのに、僕なら書けるってわかるの?」
「パパ、ママを亡くしてね、一人で寂しい思いをしてこんな遠くまでやってきたんだろ?そんな無茶な冒険が出来る子なんだ。書けない訳がないじゃないか」
「ありがとう、おじさん」
礼を言いたいのはこちらの方だ。
最近、会社の業績が落ちている事を、良いライターがいないからだとか、本を読む人間が減ったからだとか、自分の外に原因がある様な愚痴ばかりこぼしていた。
そんな事も、もうどうでもよくなった。いつしか忘れていた。僕自身が本を書きたかった事を…
思い出させてくれた彼に、礼を言いたいのはこちらこそなのだ。
「僕ね…転校した学校はまだ慣れてなくて…というか苛められてばかりでさ。いつも図書館にばかりいるんだ」
「本と友達になればいいよ。いつか本当に人々の為になる様な本を書けばいい。いいかい?君もこれから先、まだまだね、どちらを選べばいいかな?という分かれ道に立つだろう。
でもね、自分の可能性を信じてね。大変だなとわかっててもやりたい事の道を選ぶんだよ」
「うん、わかった」
紛れもなく彼は鏡に映る自分自身だ。彼へ贈った言葉は、今の僕の言葉を使って、僕自身へ向けられたメッセージだったからだ。
交番へ着く。
幸いにして若い警官がおり、僕は事情を伝えた。伯父は行方不明になった彼の捜索願いを届け出ており、その事も警官の照合によりわかった。
まずは伯父が心配しているだろうから、電話をかける様に彼に伝えたが、それもすべて警察に任せる事にした。
宿直当番が使う休憩室で、今夜の彼は寝させてもらう事となった。僕自身もそうなった事を思い出していた訳でもあるが。
僕自身も警官に身元を尋ねられたが、思い切り酔っている演技をして名乗る事は辞去し続けた。
ただ帰りの電車賃くらいは渡してあげようと思い、財布を取り出した。しかしそこで紙幣の束を見てハッと気付き止める事になる。野口英世や福沢諭吉が並んでいる。当時の紙幣は伊藤博文や聖徳太子だった筈だ。面倒に巻き込まれる訳にはいかなかった。
その時に初めて、僕は僕のいるべき現代へ帰れるのだろうかと不安がよぎった。よぎったがすぐ次には「帰れる、大丈夫」と思い直している。
僕にもここまで年を重ねきた人生の中で、一つ得た教訓があった。その教訓に従えば、帰れると思えば帰れる筈なのだ。
最後に警官に預けた彼との別れ際に、その教訓を伝えた。
「いいかい、坊や。もうこんな無茶をして伯父さんに心配かけちゃいけないぞ。それから君は、本を書けるさ。これからも大変だなぁと思ったらこう口にすればいい。『そう、思ったら、そう』SOSだよ」
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目が覚めるといつもの自分の部屋だ。
やけにリアルな夢を見たものだ。身支度を済ませ、部屋を出た。いつもの青い橋を渡り、会社へ向かう。
昨夜見た夢のせいで、心の奥底では自分が何か執筆したがっている思いを、顕在する意識の階層まで引きずり出された気がした。
余計なプライドがあった。
今まで編集部にいてライターに注文をつけていた立場だった自分だ。
今更、自らが書く事によって、拙い表現を嘲られたり、文章構成や内容を責められたりするのではないかという不安もあった。
だがやけに心の底から、昨夜見た夢の忘れていた教訓の言葉が引っかかる。
「そう、思えば、そう」
僕はふと思い出してスマホを取り出した。写真アルバムのアイコンをタップする。
画像を見ただけでまったくの無音が伝わる、赤く錆びた橋の写真が映し出された。
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