【雪の下僕(しもべ)】〜美鈴〜
MonoeJun小説集。短編。
(約13000文字。読了見込時間は個人差考慮で15〜20分)
〜◆〜
疾走する美鈴の視界はまるで、突起状に尖ったゴーグルを内側から見るのに似ていた。その先端に在るネクストポールが迫り来る。
斜面を滑降する音。
ターンの度にエッジが雪面を削る音。
そして風を切り裂く音。
その三重奏が両耳から飛び込んでは脳内をグルリと渦巻き、後頭部から轟音となって噴射する。
おそらくそのサウンドは、自分が通り過ぎて二拍三拍置いてギャラリーの耳に届かせているだろう。そんな妄想をしていた。つまり自分は今、ジェット機と同じなのだと。粉々に砕かれた空気の粒子が空に舞い散る場面も想像した。
自分の滑走跡。透明の、稜線も立体もないダイヤモンドダスト。地に落ちた紙吹雪が再び舞い上がる様な雪煙。
自分は今、ジェット機なのだと。
肩、腕、腰、脚…ヘルメットの硬さがそのまま伝播したかに見える、美鈴のクラウチングは強固に安定していた。
それでいてターンはしなやかな柳枝の鞭だ。ポールのインを最短距離でくぐり抜けては方向を変え、最後のゴールフラッグを最速のスピードで駆け抜ける。
歓声の嵐。
那智美鈴。青森、長野、新潟など各地に散る優勝候補のライバルを抑えて、冬季インターハイ、アルペン競技G・スラローム女子の部、堂々の優勝を飾った。
〜◆〜
東京の大学在学中に目標としたサラエボの冬季五輪出場は叶わなかった。しかし自分では納得しての競技生活を送ってきた。五輪を目指した経験は必ず今後の社会人生活でも糧になる筈だ。長いアスリート生活にピリオドを打つ。
就職はスポーツ用品の総合卸業の会社を選んだ。当然、担当部門はスキー用品を希望しそれは通った。
父親は地元岩手に帰って来いと言い続けたが、もっと色んな場所へ行き色んな経験を積んで視野を広げて帰るから、という美鈴の主張を信じて折れた。(折れて信じるしかなかったかもしれない)
子供の頃から両親には経済的にも精神的にも支えてもらった。父親はシーズン中は仕事から真っ直ぐ帰ると毎日、ナイターのゲレンデへ美鈴を送迎し続けてくれたり、大事なワクシングやウェイトトレーニング、マッサージと何でもサポートしてくれた。感謝は勿論言い尽くせない。
父親は引退と都内の就職を大変残念がり、美鈴は感謝が半分、そしてその束縛から解放された喜びも半分持っていたのは本音だった。
もう一つの解放も待っていた。
現役時代に専属のレーシングチームに引き入れてくれたスキー板メーカー(正確には国内輸入元の代理店)という選択もあったが、美鈴は一つのスキーブランドに固執したくないと思っていた。
大きい大会で優勝すると三位以内に入賞した選手は表彰台に三人並んで、スキー板のブランドロゴを見せる様に抱えて、スキー雑誌や新聞の記者の撮影を受ける。
そればかりではない。スキーウェア、ゴーグル、すべての道具のメーカーがそれにより宣伝の謝礼を届けてくれたり、スポンサーとなり後方支援してくれるのだった。
美鈴はそのライバル達の道具に昔から関心を示した。様々なブランドがその大会表彰スナップに並ぶ場面を好んだ。
同校他校問わず選手仲間とはそのブランドについて語り込んだ物だ。素材、重量、性能について。しかし本当はそんな付け焼き刃の知識はどうでも良い。これはフランスのメーカー。これはカナダのメーカー。板でもブーツでも何でもいい。美鈴にとって様々なブランドのそのアイテムが一同に会する事は、広げた巨大な世界地図の上に立っている事と等しかった。万国旗で簀巻きにされ、繭と化した気分だ。
現役時代には強化合宿で海外への遠征も何度かある。多感な時期に世界の広さを知った。英会話の堪能なコーチ陣にも憧れた。自分もいつも世界に囲まれてワールドワイドな仕事をしたい。世界中を駆け回る姿を想像していた。
スキー道具の数々のブランド達が並ぶ場面こそが、美鈴にとっての「世界」だった。
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いざ入社すると美鈴の仕事は予想に反して地味だった。
購買部に配属となり、営業が受注してくる商品の発注手配が主な仕事だ。確かに商品の買い付けやマーチャンダイジング、そして企画を練る部署は他にある。そこのベテランスタッフは盛んに国際電話で世界各国に電話をかけて働いていた。更に役員クラスの上司は海外出張を年に何度も出かけているのを知っている。
彼らの働きぶりは美鈴の目に輝いて見えた。いつかあの部署へ異動したいという希望を秘めて過ごした。
世間では今をときめく原田知世主演「私をスキーに連れてって」映画のヒットで、スキーブームはいよいよ加速する。
松任谷由実の「ブリザード」はゲレンデでも街でもBGMが流れている。美鈴は日本中がブリザードだらけなのではないかと感じていた。
上司達は「俺たちが若い頃でもさ、前年比180%だとか200%超えなんていう脅威的な数字、味わった事がない」興奮気味に話しているのを聞くと、いよいよ明るい未来を信じて疑わない。
地味ではあるが忙しい日々だった。
美鈴は世界各国へこそ電話は掛けないが、それなりに国内のゲレンデ地域すべてにテレフォン網羅は張り巡らせている。
北海道、次は長野、そして鳥取、新潟、秋田に山形。たまに岩手方面へ掛ける事があると「お父さん、お母さん、元気かな…」と心に小さな針でチクリと突かれた気になる。
社会人三年目ともなると収入も目に見えて上がっていた。「石の上にも三年」とは言う物だな、などとふけてみる。
東京駅の新幹線ホームも金曜日の夜となると、苗場だ湯沢だと浮かれる週末スキーヤーで溢れていた。夏のシンガーと決めつけていた山下達郎が、JR東海のCMで「クリスマスイヴ」をヒットさせた。その効果もある「花金」ではあったが、いよいよ世間は冬が熱い季節、スキーがスポーツの王様だと社内でも湧いていた。
以降も毎年シーズンが来る度に、美鈴も若者のトレンドを測る基準に、スキーを連想させる音楽で判断した。某スキーショップのCMでは広瀬香美が真冬を熱く歌う。
「ブリザード」以降、毎年一曲名曲が生まれれば、十年で十曲の「スキーのお供」のオムニバスアルバムを作れるな、などと考えながら。
自分の選んだスポーツが世界の中心で、自分の選んだ道は正しかったなどと、高揚と満悦を抑えられないのは美鈴も同僚達と変わらなかった。
都内でも見かける機会が多くなった三菱パジェロのリアウィンドウに「APPI」のステッカーが貼ってあると、無性に嬉しさと懐かしさに溢れた。Aのロゴの二等辺三角形が、とても愛おしく誇らしかった。苗場や白馬のネームバリューにも負けまい。安比高原は地元愛も昂り、国内で最高のゲレンデだと勝手に自負している。
しばらく帰っていない故郷を、そして両親を想った。
「お父さん、そちらも大丈夫の様ね。みんなが岩手に憧れているわよ。都内の若い子達がらそちらへ向かう時にもね、那須磐梯エリアとか蔵王とかね、注目のエリアも増えてるみたいだけど、安比ブランドの人気は東京でも凄いんだから」
〜◆〜
そろそろ本気で夢を叶えようと思い始めた。駅前の英会話教室にでも通おうかと考え出す。しかし毎晩の様に上司、先輩、同僚、時には取引先の飲みの誘いを躱す術を知らなかった。
それはそれで楽しいが、時々現役時代の辛く苦しいトレーニングを乗り越えた時の勝利の達成感や栄光はやはり懐かしくなる。
今でも同僚や上司は「元インターハイ王者」と持ち上げてはするが、そう呼ばれる度に美鈴の目の前には、スキーウェアとゴーグルを纏った自分が亡霊の様に現れた。所詮幻覚だ。だがその亡霊じみた自分は言う。体はその向こう側を透かして見せ、現実に会話してる人間と体を重ねながら。
相手が「ほんと、インターハイ優勝なんて大したもんだよ、美鈴ちゃんは」と唇を動かして音声を発すれば、亡霊は唇の動きを合わせて「過去の栄光よ。あなたは本当にそれでいいの?」と語りかける。
自問の生霊だ。結局、夢は思い始めただけだった。
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「大卒なのに、バブル崩壊の意味もわからないのか」
唐突に叱られてもわからない物はわからない。無理はない。体育学部の学生に経済などというジャンルは異次元の言語だ。
上司や役員達の顔は不機嫌と焦りの色を浮かべる事が多くなっていた。ある日、購買部縮小と人員の有無を言わさぬ異動に美鈴が楯突いた時だった。
「わがまま言ってるんじゃない!君は会社の危機がわかっているのか!」
「教えてくれなきゃわからないじゃないですか!?それよりも何で急に私が営業部なんですか!」
購買部の仕事は営業部が受注した商品を手配する部署である。美鈴の希望する商品部はそうではなく、自社が取り扱う商品を決める部署だ。いわば「買い付け」だ。それが女性でありながら「売り付け」に回されそうになっている。
「君は体育学系だし、ましてインハイ王者と聞いている。だから根性はあると思っているんだよ。それに上下関係にも礼節あると思ってもいたのだが、違うのかね?」
「部長だって私が商品部希望である事はご存知だったでしょう!?何故…私が営業部に…?」
声が詰まった。
「購買部が縮小だと言うのに、その親玉の商品部は拡大なんて事、あるわけないだろう」
事実、そうだった。商品部も縮小の一途を辿る様だった。もっともそれは後に知る事だったが、美鈴はまだ寝耳に水の状態だった。
上司は分かりやすくバブルという状態を説明を始めた。実力はないのに評価が先行する事だという言葉が深く刻み込まれた。まるで、インターハイ優勝を引き下げて大学に推薦入学したのに、大学では結果を残せなかった自分の様ではないか。
更に上司は状況を細かく説明してくれた。日本は地価や株価が以上な高騰をしていたらしい。会社の目先の問題は、販売先のスキー場、ゴルフ場へ納品した分の売掛が大量に焦げ付きそうな危機との事だ。ようやく理解した。
国内のゲレンデでは今後も遠方の都市部からの学校単位のスキー旅行を見込んで、大量のレンタルスキー用の板やブーツの注文が相次いでいた。請求書を作成し郵送したのも美鈴の仕事だった。あの分がすべて集金出来ないと言うのか…馬鹿な。世の中からこの冬のゲレンデに魅了された人間達が、不景気如きでスキーを離れられる訳がない。この時もまだ揺るぎなく思っていた。
むしろ美鈴が脅威に思っている事は「スノーボード」の出現だ。これまでも何度かポストスキーらしきアイデア、アイテムが、生まれては消えてゆくのを見てきた。
しかしスノーボードは違う。市民権を確立しそうだ。ゲレンデで所構わず腰を下ろしたボーダー達を「邪魔だなぁ」と思いながらも、俄かにその数が増えている事を気にはしていた。
そうだ。その事を言おう。
「部長!やはり私を商品部へ異動させてください!私には先見の明があるんです!これからはスノーボードの時代が必ずやって来ます!それで会社を救ってみせます!」
財務の理屈がわからぬ娘に、決定事項を覆せる訳はない。今は新しい開拓と挑戦よりも、切実な危機なのだ。
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購買部のメンバーは七割の人間が流通管理部と営業部に振り分けられた。美鈴は後から真実(らしき事)を知る。
流通管理部と言う部署は、要は倉庫での在庫管理人だ。デスクワークで勤務してた者達が、ある日突然スーツを脱ぎ作業着を着る。
営業部は受注を取り付け数字の中に身を置く部署。どちらとも自分から辞めると言い出す者が現れるのを待つ、会社上層部の人件費圧縮の施策らしい。噂の域は出ない内容にも感じたが、大学生達の就職氷河期というニュースや、そういう方法はこれから常套となるだろうという先輩の話には妙に納得した物である。
ある時、古巣購買部のミスで事件は起きた。
神田小川町の得意先への納品日の入力が12月10日であるのに、「2」が抜けて1月10日となっていたのである。最近出始めている「カービングスキー」の新作だった。
幸いにして在庫はある。たかが二本のスキー板の納品ではあるが、日本橋の倉庫から急いで納品せねばならない。営業車はすべて出払っていたし、特急の運送屋を呼ぼうにも出先からの渋滞で到着時間が読めないと言う。タクシー出費は後で経理にうるさく言われる。地下鉄で行くにもかえって遠回りだ。
美鈴が名乗り出て、自分で持って届ける事にした。上司は「まぁ、会社にいてもやる事は少ないだろうし、気分転換になっていいんじゃないか」と言う。心底腹が立った。
確かに営業部は納品して売上計上され業績が評価される。以前は購買部で何十、何百という注文数を見てきた事に比べると悲しくなる数字ではあった。
しかしそのたった二本という注文でもありがたかったし、顧客の信頼を失う訳にはいかなかった。
美鈴は取り置きしていた倉庫内作業用のランニングシューズに履き替え、二本の板をケースに入れて肩から担ぎ神田へ向かった。
上司の言葉が何度もリフレインし、苛立ち、そして悲しかった。だが負けない。絶対に負けない。あんな奴に。不景気なんかに。時代の流れなんかに。この世から、スキーの熱い炎を消す訳にはいかない。例え一本でも板が欲しいという人がいる限り、その人の元へ届ける…それが二本もあるのだから。
歯を食いしばり、泣きたいのを堪えて神田へ向かった。
到着した神田小川町。17時を過ぎ、チラホラと街灯も灯り出すスポーツ店街で、寒いビル風が頬を流れる。何本も店頭にスキーが並び溢れる街の華美な景色に「バブル崩壊なんて嘘でしょ?」と思った。
目指すショップに辿り着き、板を届けて十分に詫びた。
「いえいえ、那智さんが直接持ってくるとは思っていませんでしたから。御社では女性にでもこんな肉体労働させてるんですか?貴方にそんな思いさせて申し訳ございません。こちらこそ恐縮です」
店員の高場敏幸との初めての出会いである。爽やかな笑顔を向けながら缶ジュースを手渡してくれた。あれ?あれ程辛い思いをして運んできたのに、なんか清々しくないか?と美鈴は考えていた。
「まぁ、体力はある方ですから」
「さすが元インターハイ優勝者の肩書きは伊達じゃないですね」
敏幸の笑顔に甘酸っぱさを覚える。しかし自分の経歴が取引先にも知れ渡っていた事に驚きを隠せない。
「昔の話です。それに大学では全然パッとしませんでした」
「いや、それでもその頂に立ったという経験は素晴らしい。ところでこの通り、店もそれ程忙しくない事ですし、帰り道はぜひ車で送らせて下さい。ささ、どうぞ、かけてお休みになられて」
敏幸の好意に甘える事にした。素直に嬉しかった。
送ってくれる車は店の営業車で、アベニールのライトバンだった。助手席に座らせられたが、車内はいささか距離も縮まるもので美鈴の動悸は早まっている様だ。
「やはりスキーを買うお客様は減ってらっしゃるんですか?」
話題の材料を探さねばと思案した挙句、咄嗟に出たのはついいつも社内で追われてる売上の話だった。もう少し若者らしい話を切り出せば良かったと口にした後で後悔した。それに答えを聞くのもどこか怖い。
「いやぁ、私達は消費者と直接触れ合う訳でしょ?厳しくなってきているのは事実ですね」
「やはり…スノーボードに移ってきているんでしょうか」
「今後もその流れは目立つでしょうね。10のスキーヤーが、やがてスキーヤー5、ボーダー5に減るのは問題ないんです、私達の場合はね。ウィンタースポーツ部門として10が10のままであれば。
問題は…今の10が9に、そしてやがては5に、4にと減ってゆく事なんですよ」
敏幸は美鈴が漠然と考えていた不安を的確に捉えて驚きを隠せない。
「でもそんな事はないでしょう」
そんな筈はない。日本の景気は不死鳥の様に回復し、彩り鮮やかなデザインのスキー板がゲレンデを舞い覆い尽くす。そして私は世界を駆け巡る…
そんな思いが敏幸の予測を打ち消し、再び現実のときめきの中に戻る。後は敏幸とどんな会話を交わしたか覚えていない。
〜◆〜
サラエボ。
久しぶりにその地名を聞いた。ユーゴスラビアの内戦を振り返る報道番組の特集だった。
憧れた東欧の美しい街並みは見るも無残に破壊され、27万人もの多くの命が犠牲になったと言う。
出場を夢見た冬季五輪から10年も経っていない。日本国内の企業を襲ったバブル崩壊、そして身の上に起きた変化にも戸惑っていたが、オリンピックは平和の祭典と謳われていたのにと虚しさを感じてならない。
しかし今の美鈴は違う。希望と情熱に燃えている。
白熱した長野冬季五輪会場の、興奮と感動に包まれた雰囲気は忘れられない。男子ジャンプ団体の金メダル獲得の時などは号泣し過ぎて瞼を腫らし、翌日の仕事に障った程である。世界の滑りも目の当たりとし、役得とは言え刺激溢れる日々だった。
取り敢えず、美鈴の三年の期限付き出向の長野営業所での山場は乗り越えた。
会社は国内ほぼ各県にあった営業所を札幌、青森、仙台、新潟、長野、金沢だけを残して一気に閉鎖し、特に長野は冬季五輪を見据えて力を注ぎ込んだ。
そして春には東京の本社へ戻り、既に恋仲にある敏幸との結婚を控えている。
神田小川町にある敏幸の店まで歩いてスキーを納品したあの日、倉庫まで車で送ってくれた敏幸は美鈴の上司を叱りつけた。あなた方の会社は女性に…それもスキー界の宝とも言えるこの人に責任を転嫁し、こんな仕打ちをして恥ずかしくないのですか、と。この事は弊社の社長からあなた方の上層部へ報告させてもらう、と言った事も敏幸は実行した。
営業部内における美鈴の待遇は改善された。敏幸に御礼したいと食事に誘った時に、敏幸の事を一つ、また一つ知ってゆく。
年齢は美鈴より10歳年上である事や、聞けば敏幸は新潟の妙高の麓出身で、自身も中学まではスキーのアルペン競技の選手だった事。そしてどこまでも紳士的で、ウィンタースポーツを愛し、心優しい青年である事を。
デートを何度か重ねる内に、二人は至極自然、かつ真剣に交際をする様になっていた。
プロポーズの言葉も敏幸らしく笑えた。
「僕と君、雪の下僕(しもべ)同士、公私共に力を合わせてスキー業界を守ってゆこう」
一年前に久しぶりに故郷の岩手に赴いた。両親に敏幸の紹介と結婚の報告をしに。両親は喜びと寂しさを複雑な表情で滲ませていたが、心から祝福してくれていた。家を継ぐ弟にも励まされた。
休暇の合間を縫って敏幸とゲレンデにスキーにも出かけた。スノーボーダーの比率が増えていた事、そして以前より心なしかリフトの待ち時間が少なくなっていた事には寂しさも感じたが、でも大丈夫と信じた。白馬のゲレンデで『ウィンタースポーツはまだまだ陰りはしない』そう確信を抱いていたからだ。
春には敏幸の待つ東京へ帰る。
美鈴は幸福の絶頂にいる。
美鈴、35時。敏幸、45歳。高場の姓に変わる。
〜◆〜
東京は相変わらず町自体が生き物の様だった。
久しぶりに出かけた渋谷は空がまた一段と狭くなった様に感じたし、会社の第二倉庫があった豊洲は巨大な街として生まれ変わっていた。
下町・向島に買ったマンションのベランダからは東京スカイツリーがそびえ立っているのが毎日見える。ここに引っ越してきた当時、敏幸が言ってた「近所に第二東京タワーが建つらしいよ」という言葉が懐かしく思えた。
夫・敏幸は宇都宮に単身赴任中である。まったく、日本という国は戸建であろうがマンションであろうが、自分の家を持った瞬間から家は手離せない、会社の社命には従わねばならない、税制も働き方もうまく出来ているらしい。
敏幸はスキーショップのエリアマネージャーにまで昇進し、横浜、群馬、福島、栃木と、単身赴任を繰り返している。結婚して家族で一緒に過ごす時間の方が短いのではなかろうか。
小学生の一人息子の健司は残業や休日出勤になる時、金町にある義理の妹(敏幸の妹)宅に預け、時には義妹夫婦に呆れられながらも美鈴は懸命に働き続けた。
使命感。
そう呼ぶに相応しい生き方だったかもしれない。
働く理由は生活の為という事も勿論ある。それは世間の誰とも変わらない。どんな職業でも昨年末よりは今年、今年よりは来年と生活水準を上げたければ収入の源泉となる数字を上げる事は必定だ。
しかしそれだけでは無い。私と敏幸は同志だ。二人とも『雪の下僕』なのだ。
日本の経済 (東京の景色を見て) がここまで回復した様に、私達はウィンタースポーツの人気をもう一度、蘇らせる。かつて地元のゲレンデで、リフトに乗るのを30分も待ったあの時代の様に。
ウィンタースポーツの…特にスキーの繁栄と栄華を取り戻す為。
それが使命感だった。その為に自分はスキー道具を世間に広め、夫は直接消費者へ販売する。美鈴は数字を追い、そして拘った。数字は使命感の達成度の物差しでもあったのだ。
周囲は影で『もうあの頃の様にとまでは、とても無理だよ』と口を揃える。言われなくてもわかっている。
家族三人で毎年正月、敏幸の新潟の実家、美鈴の岩手の実家と交互に帰省している。その度に健司を連れてゲレンデへ滑りに行く事も家庭の年間行事だった。
「僕、毎年お正月にパパ、ママとスキーしに行くのが楽しみなんだ」
健司の楽しみにしてくれてる言葉がとても喜ばしかった。
しかしそこで、年々減少しているスキー客、そしてスノーボードの若者でさえ減っている事も肌で感じている。いざ出かけると複雑な気持ちに苛まれた。
その体感は仕事での具体的な数字とも直結している。前年比10%落ち、15%落ち、ある時は20%落ち。如実だ。
美鈴は既に異例の女性初・営業部長にまで昇進していたが、けして役職に満足している訳ではない。
彼女の原動力はあくまで数字と向き合い、目標数値を達成させる事、それがゲレンデがかつての活気を取り戻す事。そして唯一自己実現の夢を語るとするなら、世界のスキーを買い付けに行く事を秘めている。世界へ…
枯渇のバイタリティを持って、身を粉にして数字に邁進し続けた。
そんな彼女を部下達は陰でこう呼んでいた。侮辱と嘲笑を交えて。
「社畜」
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ある日、美鈴も所用で新宿へ出かけていた。得意先の会社へ向かう途中だった。
とあるカフェの前を通りがけた時、よく知っている顔が二つ、窓際の席に座っているのを目にした。事務所から午前中には営業で外出したはずの遠藤と渡辺だ。二人ともコーヒーを飲みながら談笑していた。
さぼってる。直勘で感じたというより、客観的事実だ。美鈴の中の正義感が怒りを誘(いざな)った。
「ちょっと。あなた達」
二人のテーブルに近づき、なるべく沈着を心がけて声をかけた。二人の顔には気まずそうな表情が浮かぶも一瞬、次にはもう開き直りの顔に変わってた。
「あ〜あ、見つかっちゃったか。部長、こんな偶然もあるもんですね〜」
「何、油売ってるのよ。今日のアポやルートはどうなってるの?」
「すみません。さぼっちゃってて。部長も珈琲でも飲んでいかれたらどうです?ちょうど良かった。僕たちも部長と話したかったんですよ」
「そんなヒマじゃないでしょ!」
「そうなんですよ。僕らもそんなにヒマじゃない。今日は渡辺と二人、大久保の職安へ次の仕事を探しに行ってたんです」
美鈴は言葉を失い体が固まった。
「僕たちはどんなに頑張っても、あなたの様な社畜にはなれない。あ、今日のこのサボり分、得意の減給で構いませんから」
「さぁて、行こうぜ、遠藤。お仕事しに。では部長。サボっててすみませんでしたね。後で正式に辞表は出します。安心して下さい。いる間はやる事やりますから。あ、有給もちゃんと消化しますけども」
二人は席を立ち会計へ向かった。美鈴はただ立ち尽くしていた。責任と部下の人生に対する良心の呵責。そして何より信念が行き場を失くし彷徨している。
〜◆〜
「さすが体力あるね〜」
ハイ!体力だけが取り柄です!
「さすがスキーで鍛えた足腰は丈夫だね〜」
ええ、スキーで鍛えられた足腰には自信あります!
「根性あるね〜」
根性は負けませんよ〜
「インターハイ優勝とは、いい経験したね〜」
ええ!道のりは大変でした!競技生活は社会に出てもいい糧となってます!
「責任感強いね〜」
なんか…どうしても責任は果たさなきゃってなるんですよね〜
「スキー業界の星だね、美鈴ちゃんは」
またまた〜上手い事言って〜常務は〜。本当に星なら今頃ドンドン上がってますよ。
まだまだです。ゲレンデが昔の様な活気を取り戻すまでは。
「美鈴ちゃん、今月、数字厳しいね〜」
はい、厳しいですが…頑張ります!
「今月も前年より落ちそうかな…?」
すみません。私の努力と指導がまだ足りてないんです。休日も返上してショップ回りしてきます。
「こんな売上では採算合わんし、残業代も出せないよ?」
ええ、おっしゃる通りです。申し訳ございません。結果がすべてですから、残業代なんて無くて結構です。まだまだ努力します。
「何やってるんだ!高場くん!ただでさえこんなに売上落ちてるのに、部下が二人辞めただと!仕方ないな、穴を埋める人間が見つかるまで君の責任で君にカバーしてもらわないといかんぞ!」
はい…私の指導不足と管理不行き届きです。誠に申し訳ございません…
〜◆〜
「え?今、何て言ったの?」
恒例の正月の帰省スキーツアー。夫は思いがけない場所で考えを美鈴に伝えた。
息子の健司は思春期となり、部活や受験勉強も忙しく、昨年からは祖父母の家に同行もしなくなっていた。何より両親といるより、友達と過ごしたがる時期にもなっている。
今年は敏幸の故郷、新潟妙高の順番だった。二人は久しぶりに夫婦水入らず、ナイターを楽しみに来ていた。
その時、コース頂上へ向かうゴンドラの中での事である。辺りは薄暗くなり出し、ゴンドラの運行時間はそろそろ終わろうかという時間だった。
唐突に敏幸は今の会社を辞める決意を打ち明けた。65歳の定年まではあと8年残している。
「なかなか君には言い出せなかった。実は…うちの会社はエリアマネージャー職も55歳で解任なんだ。若返りなんだろな。
だから…この2年間は、エリアを駆け回る仕事はしていなかったんだ、実は。オブザーバー的な役割だった。要はウチはね、55歳を過ぎたらもっと偉くなってるか、あとはただ居るかなんだよ。君には言い出せなかった。
君と若い頃に語り合った、スキーをまた盛り上げようという理想を失くした訳ではないのさ。けしてね。それを叶える為に、どうしてもそんな肩書きが必要という事でもないからね。
ただ…この春には下りるだろうと言う異動辞令…正式には内示はあるんだけど、正直色々考えさせられる事があってさ。君にはそれを聞いて欲しいんだ。この機会に思い切って会社は辞め、ずっとやってみたかった事がある」
「ちょっと、冗談じゃないわ。そりゃそんな理想の為にも頑張ってきたよ。でもね、現実にも生活もあるでしょう?健司が社会に出るまでもまだまだ時間とお金が必要よ。
それに…敏幸さんが何をしたいのかは知らないけど、スキーをまた盛り上がらせる夢なんて、もうどうでもいいと思ってるんでしょ!そうとしか思えない!」
美鈴は声を荒げた。
敏幸とは離れて暮らす方が多かったが、それでも二人は同じ思いでここまで来たと信じていた。影では…いや、もう今では面と向かってまで「社畜」とまで呼ばれて、それでも自分は理想の為、家族の為に頑張ってきた。
敏幸まで裏切るのか…
美鈴を支え続けてきた何かがその時、崩れ落ち壊れゆく衝動が全身を襲った。
「おい、そんなにヒステリー起こさなくてもいいだろ?まずは落ち着いて、僕の言う話も聞いてくれよ」
「ヒステリー?何よソレ!あなたは何歳なのよ!その歳でやりたい事があるって?ふざけないでよ」
それ以来、敏幸も沈黙した。妻が何に傷ついていたのかはよくは知らない。そして今度は自分も傷つく番だった。雪の下僕となって二人、ここまでスキー文化隆盛とブーム復興の為に頑張ってきた…思いは同じだった。
ゴンドラがコース頂上に到着した。
敏幸はブーツをビンディングにセットし、滑り出すスタンバイをしている。モタモタ歩む妻が来るのを待っていた。
「先に行って…」
美鈴はか細く言った。
そんな事を言われても普段なら黙って待つ優しい夫の敏幸だが、この時ばかりは違った。黙って待つ代わりに、黙って滑り降りて行った。美鈴を一目、哀しげに睨んで。
美鈴は先に滑りゆく敏幸の背中を見送った後、妙高の黄昏の景色を眺めようとしばらく留まった。灯が灯り出した下界の夜景と色鮮やかなナイター照明が薄い靄の粒子に妖艶なまでに反射している。夢幻の霧に包まれた、まるで迷路だ。
過去の華やかな時代。
自分の思い描いた夢や理想。
夫の優しさと、スキーを楽しむ幼き息子の姿。
取引先を歩き回り数字を追いかけ続けて社畜生活。
全てが掴もうとすればすり抜ける、霧の中でホログラムの映像を観る様に、信念は今、迷路の奥深くで立ち止まっているのだ。
霧は一段と深く立ち込めてきた。目の前の霧のスクリーンに投影された様に、人影が浮かんで現れた。見覚えのあるゴーグルにレーシングウェア…30年前の自分、そしていつかも現れた自問の生霊だった。
「いいの?」
生霊は問う。
「何が?」
「あなたは本当にこのままでいいの?と聞いてるのよ」
「どういう意味よ」
「敏幸さん、この先で待ってるよ。敏幸さんの話も聞かないで…あなたは本当にこのままでいいの?」
「放っといてよ!」
美鈴は生霊に体当たりする様に滑り出した。案の定、美鈴の実体は生霊の幽体をすり抜けた。もう振り返らない。過去の自分も敏幸も。前を向く。ゲレンデが再び活気を取り戻す未来と、自分が憧れた世界へ向かって。
私はジェット機。私が滑り抜けた後には雪煙を噴射する様に立ち込めて、その音は遅れて観客の耳に届く。そう、社畜と呼ばれた自分なんて、夫の敏幸なんて、過去なんて…すべて私の滑った跡の雪煙…
そう、あのレースの感覚が蘇る。自分は今、ジェット機なのだと。
美鈴が痛みと寒さで意識を取り戻した時、辺りは漆黒の暗闇に包まれた森の中だった。
転倒の際、外れたスキー板も無音に降り続く雪に埋もれて行方が知れない。
立ち上がろうとしたがすぐ前のめりに崩れ堕ちた。脚と、どこにぶつけたか肋骨に激痛を感じる。骨折したな…そう認識出来た。
コースを外れてる事は確かだ。人の気配もまるでない。新雪に顔を半分埋ずめたまま、美鈴は一人静かに泣いていた。
敏幸さん、健司、私を助けて…
暗闇に、更なる暗さの闇と無音が幾つも重なってゆく。
〜◆〜
「お受け致します!ありがとうございました〜!」
受話器を置いて追加のオーダーが入った事を敏幸に伝える。美鈴の声は今日も弾んでいた。
「敏幸さん、北海道の平田さんからよ。スペックは一昨年と同じで、デザインは今年のパンフレットからFの柄で選んでくれたよ」
「そうか。ありがたいな」
敏幸が会社を退社し、ずっとやりたいと考えていた事は「完全オーダーメイド」のカスタムスキーショップだった。
退職金や向島のマンションも売り払った資金を手に、敏幸の故郷の新潟に転居して夫婦二人で開業した。もちろん、夏にはスキーなど売れる筈もないから、ゴルフ用品やキャンプ用品も新品中古問わず販売している。スキーのシーズンオフのメンテナンスもだ。そういうアイテムも扱う中、敏幸が一番力を注ぎ拘りと最大の「売り」としたのが、一貫して先述のカスタム・オーダーメイドスキーである。
これまでの夫婦二人が扱ってきた金額と比べたら小さな商いだが、家族3人にスタッフ2名、路頭に迷わず食べてゆくには順調と言える。
オープンして2年。宣伝はすべてインターネットと口コミだけだった。今でこそ職人を一人、正社員にした事と近所に住む主婦に経理事務を手伝ってもらっている。今では息子の健司も職人のスキー板作りの手伝いを行い、親子でカスタムスキーを販売する日も遠くはなさそうだ。
ゲレンデにかつてのバブル時代の様な活気は帰って来てはいない。もちろん、美鈴にとって憧れの「世界」だった、各国のブランド名が並ぶ事もない。
楽しみたい人だけが楽しめればいいではないか、そう考えられる様になった事が美鈴の最大の革命かもしれない。
スキーショップTakabaのカスタムスキーは評判が評判を呼び、この2年で世界中の玄人から俄かに注目される店になっている。
今もカナダやヨーロッパから時折オーダーの電話がかかってくるまでとなり、美鈴の「世界」も明らかに変わった。
2年前、雪山で遭難した時、地元の捜索隊と敏幸に発見され美鈴は一命をとりとめた。あの時ほど敏幸に許しを乞うた時もない。
敏幸はなかなか下りてこない美鈴を探しに、運転時間の終了したゴンドラを再運転させ、視界の悪い中探し回っていた。ゲレンデの管理会社や警察、消防団にも捜索応援を依頼し、悪天候に一時中断するも天候回復した翌朝、弱り切った美鈴の発見に至った。
美鈴は当時薄れゆく意識の中で、「雪の下僕である以上は雪の中に死ぬのも悪くはないか」とボンヤリ考えてもいた。だがまだ使命は果たしていない。死にたくはなかった。生還した時、心から敏幸の愛に感謝した。
ただあの時 「社畜の美鈴」は死んだ。雪は下僕を救い、社畜を殺した。
雪の下僕の二人は再び手を取り合い、新しい道を歩き出していた。
美鈴、50歳。敏幸、60歳。
息子の健司が言う。
「お父さん、お母さん。あと10年は頑張りなよ。二人の銀婚式は白銀のゲレンデでやろうじゃないか」
〜完〜