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【daichi】花束みたいな恋をした

「花束みたいな恋をした」を読んだ。

私は恋愛小説も読めるタイプ


4~5年前くらいに映画がヒットしたが、それのノベライズ本。
映画は妻と観た。あの時はまだ妻と付き合っていた頃で、ストーリーが「恋人のリアルなすれ違い」的なものであったことから「一緒に観たカップルは別れてしまう」的な噂というかジンクスのようなものがあったと記憶している。確かにそう言われるのも頷けるような内容だったが、現にその人と結婚している訳なので、当たり前だがそういう根拠のない話に左右されるのは賢いとは言えないと思う。
という当たり前が過ぎる話を考えた。

で、まずは殆どストーリーなんて覚えていない問題。結構面白かったなと思ったことは覚えていたけど、逆に言うとそれしか覚えていなかった。自分の記憶力が低いことを差し引いても、人間の記憶なんてこんなものなのだろう。事象のディティールとかはすぐに脳内から消え去るけど、感情が動いたという熱感だけは残り続ける。だからと言って、ディティールを蔑ろにしては、熱感もろとも失うことになりかねないから、創作側の拘りは必須なのだろうけど。とにかく大事なのは熱なんだな。

いい映画だったのは覚えていた


次。これが一番の感想だけど、気持ちって正確に伝えることは不可能なんだなということ。当たり前のことに改めて。最近、自分が考えていることが「それって当たり前じゃね」で最終的に回収される事態が多過ぎて、その凡庸さに萎えている。でも、だからこそ、本当に真理なのだろうとも考えられるわけで。

作中、主人公カップルは付き合い始めた当初、いわゆるサブカル系コンテンツの好みがドンピシャに合うこと(それがきっかけで付き合う)が嬉しくて、楽しくて、幸せの絶頂に上り詰める。特に前半は固有名詞のオンパレードでそれを強調しまくる。それが後半、二人が就職したことを契機に徐々に歯車が狂い始めるわけだが、これまでの相思相愛が嘘のように、これでもかと言うほど対照的な二人として描かれる。一方は夢や好きなことよりも生活のために激務に耐える日々を送り、もう一方は仕事にジャックされる日々を嫌い、いつまでも好きなものに触れる生活を欲した。

ただ、これが切ないのだが、二人とも相手と一緒にいたいという気持ちは同じなのだ。ずっと二人で暮らしていくためにはある程度の経済力が必要だと、かつて夢中になったことにすら興味を示せなくなるほど仕事に向かってしまう男性と、二人で共通の好きなものに触れて過ごすのが何よりの幸せで、いつまでもその関係でいたかったのに、変わってしまったパートナーに何かが切れてしまった女性。どちらも目指すところは同じはずなのに、正反対の立ち回りとなってしまう。

これは何もフィクションの中だけの話ではないだろう。私達も普段あらゆる場面でそういうことに遭遇している。家族とだって、友人とだって、職場でだって、同じ絵を描こうとしているのに、その手段が違うみたいなこと。そういう時、付き合いたてのカップルは「価値観の違い」で破局、バンドなら「方向性の違い」で解散するのだろうが、もう少し深い人間関係においてはそうはいかない。ならどうするか。

まず、大前提として、その相手との関係性を継続したいのかというのははっきりさせる必要がある。不快にしかならない相手とずっと一緒にいるほど人生は長くない。
その上で、関係をもっておきたいのなら、「目標は共有している」という事実に価値を感じるという考え方はどうだろうか。そう、感情論。最近の自分の中のトレンドというかあらゆる考えにおいて一貫しているのが「熱」。人間、結局ここに帰ってくるものなのだろう。ゆとりだの、働き方改革だの、温度を感じないような時代が長く続いたが、昭和(よく知らないがイメージとして)のあの感じ。「気合、根性、忍耐」で全てを作り上げました的な。もちろん、そういうのに抵抗を感じる世代として育ったし、全肯定なんてできないけど、全否定もできないよなーみたいなことを考えている。その気概があったからできたこと・できることも確かにあるはずで。杓子定規な判断はかえって事態を悪化させる。

相手も自分と同じものを描こうとしているが、方法が違うのだという認識。それさえあれば、たとえ瞬間的に対立したとしても関係性が壊れるほどのことにはならないのではないか。
良心的解釈。
これだな。これだけ情報量が多くていちいち処理していたら時間が圧倒的に不足する時代、自分が都合の良いように解釈したほうがいい。
まあ、それと同じくらい密なコミュニケーションが大事なのは間違いない。ここは自分が苦手なところで、直さないとなと数年来思っている。

制作サイドとしてはそんなことを感じてほしいというメッセージは込めておらず、雑にまとめると、おそらくタイトルどおり「恋愛の儚さをできるだけ受け手が共感できるような登場人物及び設定で見せることで共感を呼びたい。でも儚いのって悪いこととも言い切れないよね。それ故の良さもあるし。」的なことなのではないだろうか。
私が酷く愛聴しているPodcastでは、作中最終盤のGoogleMapの場面を「何でもないありきたりで凡庸な恋愛すらも世界は肯定してくれている」と解釈できると話していた。なるほどと膝を打った。

書籍版に触れて、映画を思い出し、感じたことはこんなものかな。他にもあったけど考えているとどんどん脱線して、全てを保存することができないのがもどかしい。逆に言うと、残っているものこそが特に自分の考えとも考えられるのだが。

そういえば、最近読み終わった今年のベストセラー「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」でも本作について触れられていたから、そっちについても書けそうならまた今度書く。

タイトルからして既にベストセラーの気配を感じる


最後に。
有村架純、素晴らしすぎるな。もう彼女だけで2時間もつ。
ただ、彼女史上No.1はシーチキン食堂。あのCMは国宝に指定したい。異論は認めない。

動画だとなお良い

今更この題材の感想をまとめているのは全人類で私だけだな、きっと。



P.S
投稿直前でやっぱり映像が見たくなり、妻を誘って鑑賞。こういう時にノッてくれるのってありがたいなーと、観ながら思う。自分はこの姿勢がとれているだろうかと反省。
切ない。自分と一致するわけではないけど、でも理解はできるからこそのこの感情。なんと形容したら適切なんだろう。見終わったあとも何かが残る感じ。私はこの映画が好きなんだろうな。
最後のファミレスのシーン(クライマックス)。妻はテーブルの上のティッシュを全てなくした。私は腹が鳴っていて五月蝿く、妻から睨まれた。ここは一つ、妻には良心的解釈を希望する。


daichi

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