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【daichi】ボーク〜誇張し過ぎた出汁巻き玉子〜

以前、Twitter(X)に載せた駄文。ここで成仏させます。



朝から分厚い雲に覆われた暗い日だった。

妻氏は出汁巻き玉子が好きだ。玉子料理なら例外なく好んで食べる妻氏だが、その中でも一番という出汁巻き玉子を私にリクエストした。私は料理の経験がほぼゼロの素人だが、これまでにも何度か同様の要求を受け、幸運にも食卓に並べても耐えられるものを生成することに成功していたため、今回も引き受けた。

しかし、この判断は安易だったのかもしれない。求められているクオリティーは初回の比ではない。妻氏ははっきりそう言わないが、期待値が上がっていることは肌で感じていた。入籍後、それ以前と比較してキッチンに立つことは確かに増えた。

だが、回数を重ねることが上達に直結するほど世の中は甘くないことは分かっているつもりだ。
小学生の頃、私は野球のスポーツ少年団に所属していた。私はキャッチャーを務めていたが、ある日、チーム事情で急遽ピッチャーをやらされたことがあった。

正直、球速には自信があったため、通用することを疑わず、意気揚々とマウンドに上がった。だが、そう上手くはいかなかった。私はバッターがいるとコントロールが悪くなった。バッターにボールを当ててはいけないと思うと、腕が上手く振れなかったのだ。

今であれば「所詮は軟式球だから当ててもいい」と思えるかもしれないが、当時の私はそう考えることができなかった。キャッチャーをしている時には当然のように考えられるようなことが、このマウンドの上ではさっぱりだった。

「慣れれば大丈夫」と、色々な人から言われた。しかし、それから何度もマウンドに上がる機会があったが、結果は出なかった。そして、ある試合で完全に心が折れた。
同点の場面でマウンドに上がった私は、全ての塁にランナーを背負いながらも、相手のミスもあり、無失点でツーアウトまで漕ぎ着けた。

あと1つ。気が緩んだのかもしれない。審判の声が響いた。
「ボーク!」
野球に詳しくない人向けに簡単に説明すると、ピッチャーがしてはいけない反則のことだ。一瞬、何が起きたのか分からなかったが、三塁ランナーがホームベースを踏んだタイミングで状況を理解した。

私はセットポジションに入った後、禁止されている動きをしてしまったようだ。
「何度やっても上手くいくとは限らない」
上手くいくための必要な努力をしたのか、などという自問をするほど私は大人ではなかったため、そう思った。試合が終わってからも審判の声が頭から離れず、何だか戦力外通告をされたような気分だった。

今日は在宅勤務で終日家にいたが、キッチンに立ち入るたびに出汁巻き玉子が頭をチラつき、仕事に集中できなかった。こんな状況で集中できる人などいない、そう思えた。前回、偶然上手くいっただけかもしれない。事実、極稀に私が食事を作ることがあるが、間違いなく妻氏が作った食事の方が美味しい。

しかし、引き受けた以上は期待に応えたい。重圧は徐々に高まってきていた。
そして、迎えたその時。いよいよ調理開始だ。さて、何からすればいいのか。確かに作ったのは数回ではあるが、そこまで複雑ではない工程を全く記憶できていないとは。つくづく自分にはがっかりするが、呆れていても始まらない。

スマホを取り出し、DELISH KITCHENを開く。マイレシピに登録しているので、確認に時間はかからなかった。必要な調味料を混ぜた液体に卵を割る。殻が入らなくてよかった。その後、何回かに分けて卵液を流し込み、ひっくり返しながら成型していく。

雨が降り出した。

前に作った時の感覚を僅かに取り戻し、私は油断したのだろう。少し形が崩れた。その瞬間、極度の重圧が押し寄せてくる。「失敗」の二文字が頭を駆け巡る。期待に応えることは喜びである。だがそれだけではない。未来の自分を苦しめる。そのことに気付いた。

しかし、今は目の前の任務を遂行することに集中すべきだ。少しでも他に意識を向けてしまうと、それをきっかけに崩壊してしまう。期待に対する今後の私のスタンスについて考えるのは後回しにした。緊張からか、自分の鼓動を感じる。手も少し震えてきた。「逃げたい」と思った。

だが私はこの料理を、この愛の形を完成させなければならない。いや、そうではない。完成させたいのだ。苦しいが、期待に応えたい気持ちを無視することは、人間には案外難しいようだ。幸福と苦悩。相反するようにも思える2つの気持ちを抱え、この戦いにピリオドを打つ。

難局を乗り越え、遂に出汁巻き玉子が完成した。これが一般的な感覚で判断した時に上出来と言えるのか、私には分からない。だが、ベストは尽くした。「人事を尽くして天命を待つ」とはまさにこのこと。祈るような気持ちで妻氏が食べる姿を見守った。脈が早くなる。

「美味しい!」
そう妻氏が言った。これまで張り詰めていた緊張の糸が一気に緩む。良かった。私も食べたが、確かに自分でも美味しいと思う。それに、前よりも美味しい気がする。数をこなすことで身に付くこともあるものだ。

「今までの人生で食べた出汁巻き玉子の中で、どれくらいの順位か」などというくだらない疑問をぶつけようとモーションに入ったが、リリース直前に投球をやめた。聞いてどうする。意味のないことだ。美味しいと言ってくれている事実があり、それを聞いたことによる充実感がある。それ以上に求めるものなど、今はない。

投球を放棄した私に、妻氏は心の中でこう言っていたのかもしれない。
「ボーク!」
もしそれを聞いても、今の私なら前のような気持ちにはならずに済みそうだ。

雨はいつの間にか止んでいた。



daichi

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