見出し画像

【daichi】親バカと親ガチャ

先日、娘が1歳になった。今日はそんなめでたい話。

ベタな話だが、あっという間の1年だった。
夫婦共々、タスクが鬼のように増加した故、娘をただ愛でているだけで良い日々ではないが、だからこその多幸感を知ることができた。

私が仕事から帰宅すると、娘はぷにぷにつやつやした頬を吊り上げ、まだ数本しか揃っていない歯を覗かせ、笑顔で迎えてくれる。それだけで1日の疲労が消える。不思議である。

娘が生まれるその直前まで、私は乳児の識別に不安を感じていた。全員同じ顔をしていると思っていたから、「乳児が並んだ中から我が子を選ぼう」のコーナーがあったとしたら、そつなくこなせる自信がなかった。3歳くらいまでに、徐々に可愛さが育ってくるのではないかと思っていた。
が、そんなものは杞憂だった。

娘は段違いに、群を抜いて、余裕で、圧倒的に、可愛い。だから、普通に分かる。世界を獲れる。目を瞑っていても識別できる気すらする。

生活していれば、娘と同じ月齢と思われる子を見掛けることがあるが(娘が生まれたから無意識的に見るようになったのかもしれないが)、失礼を承知で言わせてもらうと、格が違うわけである。

これは所謂「親バカ」と呼ばれるやつだろう。
しかし、当の本人である私にその自覚はない。いや、自覚はあるのだが、客観的に見て、親バカ補正を差し引いても別格なのである。(クイーンオブベビー。ハイパーアルティメットマスターオブドラゴンナイトベビースピードアタッカー、って感じ。)

「親バカ」は何故発生するのだろう。
「自分の子は可愛く見えるものだ」と言われる。

血が繋がっているかどうかで、その人に対する感情は異なるのだろうか。自分にはその感覚がよく分からない、と少なくとも自分では思っている。誰の血が流れているか、外から見ても違いがない。では血が繋がっていない家族や親戚とは深い繋がりになれないのか。それは違うだろう。逆に「血が繋がっているから関係が良好」なんて、世間を見渡せば不成立であることは容易に判断できる。

かと言って、「自分の時間をこれだけ使ったから・自分を犠牲にしてこの子に尽くしたから」という、ある種の押しつけがましい愛情が要因だという結論にこの話を終着させるつもりもなく、現時点で自分なりに腹落ちする理由は見つかっていない。

人間という理性的なものではなく、動物という本能的なものなのだろうか。いつだって「人間は所詮動物だ」という事実を忘れたくないと思っている私はこの線が有力だと思っている。「血」説と似ているように感じる人もいるだろうが、自分の感覚的には、頭で理解できことか否かという点で、大きな違いがある。

娘からは、こんなにあたたかい感情が自分の中にあるいうことを教えられた。心の底から「健康でいてさえくれればあとはOK」と思っている。


2021年の流行語として「親ガチャ」という言葉がある。
ググると「親や家庭環境が子どもの人生に大きな影響を与えるにも関わらず、子供は親を選べないこと」とある。

言葉がかなり鋭利で、一瞬本能的に嫌悪感を抱くが、冷静になってみると確かにその通りだと思う。

娘の人生は、ある程度の割合で、私と妻に左右されることになる。別に何か変なことを言っているつもりはなく、事実そうだと思う。だからこそ責任を感じるし、世の大半の親もそうだろうと想像する。

ただ、それだけで人生が決まるものでもない、と断言できる。

親が子に付きっきりで接するのなんて、人生のうちのたった数年で、例えば学校になんて通いだしたら、一緒にいない時間の比率の方が高まる。その時間に受ける刺激によって形成されるウエイトの方が、親から受ける影響より大きくなるに決まっている。
もちろん、人格形成の最初期である幼少期が大事だという意見は理解できるが、そこで全て決まるなら、その後の人生における努力は無駄だということになってしまう。

「親の目が届かないところで、子は成長する」と思う。正確には「親の目が届かないところで『も』、子は成長する」か。

親や生まれた環境による影響と、その後の子自身の人生の歩みによる影響。この双方は等しく扱われるべきだろう、というのが持論。

これは娘から「親ガチャハズレた」と言われた時のショックを和らげるための保身的発想なのだろうか。そう考えるとださいな。

ハズレと言われないように頑張りたい。でも娘よ、君も頑張れ。


daichi

いいなと思ったら応援しよう!

JUNKTALK
お願いします!