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【daichi】「感」という保険
1年前くらいに家の近くに焼きそば屋ができた。
その物件には元々食堂があって、チキン南蛮定食が美味しいと妻から聞いていて、チキン南蛮が好き(というかタルタルが好き説はある)な私としては是非とも行きたかったのだが、それを知って程なくして閉店してしまった。
焼きそば屋はそれから数か月経った頃に出来た。外食で焼きそばを食べるという経験がなかったため、逆に気になっていたのだが、ようやくこの前テイクアウトして食べた。
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店の雰囲気は、やや古いけどそれが汚さとはなっていないので不快感はなく、むしろ格式張っていないからこそ入りやすい感じ。
太麺で、かつ茹でた後に鉄板で焼かれているため固めに仕上がっており、かなり好みのテイストだった。これはリピート確定。ボリュームも並盛で300gとかなり多い。太麺・固焼き・盛りの良さの三拍子で、非常に食べた甲斐があった。
食べ終わって膨らんだ腹をさすりながら「食った感あるなー」と言ったのだが、自分の口の残り香ならぬ残り音(残り言葉?まあ何でもいいのだけど)に引っかかった。
食った感の「感」とは?
自分が感じたのだから確かに「食った感じ」はしたのだが、「食った」でよくないか。でも思い返すと、自分は今回に限らず「○○感」という風に、後ろに「感」を付けることが増えている気がする。「動いた感(じ)」「寝た感」などなど。
これは時代というか世代的なものに密接に結びついた事象な気がしている。
現代の若者(ざっくり30くらいまで)はネットの発達と共に成長してきていて、それは「いつでも『事実』が検証可能な環境で生きてきた」ということとも言い換えられる(ここでは「事実」というものが本質的にあり得るのかという視点はややこしいから一旦置いておきたい。まあ自分の立場次第だろうとは思っている。)。自分の発言や行動の「真偽」について、検索され、検証され、指摘されてしまう。適当なことを迂闊に口に出そうもんなら即座に燃やされる恐怖を、自覚的・無自覚的を問わず感じている。「それは科学的にあり得ない」「ここが矛盾している」「ここに謝罪しろ」という実態を持たない監視の目の中で生活してきた。
そのために、意思を表明をする時に、事態がどう転んでもいいように保険をかける必要が生じたのではないか。だからこそ、客観的な検証から逃れるために、自分が感じたという「事実」を前面に出す。「世間ではどう言われているのか知らないけど、自分はこう感じた。実際に感じたんだから仕方ないでしょう。それも事実でしょう。」という姿勢。それが無意識的に表れている表現に感じる。
時代的に、これまで以上に「個人」が重視されるようになってきている中で、個人が感じた感覚を否定することは、なかなか難しい。ハラスメント、人権侵害とも訴えられかねない。
保険、自己保身としての「感」。そういう背景があるように思った。
「感」で思い出したことで言うと、ここまでの話と若干関係するけど、森三中の大島氏の夫で放送作家の鈴木おさむ氏が「肌感覚」について話していた内容が興味深かった。
最近、使う人が増えている「肌感覚」という言葉は、偉人レベルの人(イチロー、大谷翔平とか)が使う分には「あれだけの功績がある人の感覚はこんな感じなんだ」と感心するけど、その辺のどこぞの兄ちゃんから「肌感覚で言うと~」と言われても、「お前の感覚なんて誰も気にならねーよ」で終わってしまう、と。そう言われてみるとそうだなと思った。実績のないやつ、少なくとも自分が認めていないやつの肌感覚なんて、信用できるはずがないし、聞いたところで仕方がない。視点が鋭い。
daichi
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