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【daichi】静かな退職
将来何になりたいか?
という質問を腐るほどされてきたし、されているし、してきたし、している。誰しもだろう。
だのに、未だに最適解が見つからないまま、先日、齢28となった。
28と言ったらもう30に片足を突っ込んでいる。30と言ったら、もう、、、って感じである。
幼少の頃、あんなに楽しみでひと月前くらいから高揚感で夜も眠れないし朝も起きれなかった誕生日も、今はただの1日に過ぎない。少し寂しい気もしなくもないが、現実である。
とは言いつつ、私の誕生日は妻の誕生日であり、結婚記念日でもあるため、「ただの1日」と称してしまうと角が立つ。前言撤回、特別な日である。
そうは言っても、やはりワクワク感は薄れている。これはどういった気持ちの変化なのだろう。
これはPODCASTで誰かが「年を重ねると、祝われる日から感謝する日に変わる」と言っていたのを聞いて、何となくそんなイメージが自分の気持ちとフィットするような気がした。
もはや自分のための日という感覚は消え、自分と関わってくれた人に感謝したいと思う感覚がある。それを言葉・形で示せていないから、もちろん相手はそんなこと気付きようもなく、私は恩知らずのならず者と認識されているのかもしれないが、少なくとも心の中では感謝しているし、結構普段から考えたりしている。これ、伝わっていないだろうな、伝えていないから当たり前だけど。
話が逸れた。いつも逸れる。
自分の将来について問われるタイミングは案外多いが、明確に答えられた試しがない。
やったこともないことを想像してそれを一生の職にしたいと思えるのってすごいな、と同級生が雄弁に将来の夢を語り進路を選択している姿を見ていつも思っていた。
「将来の夢」は即ち職業を指すことになっている。このことに疑問を持ちつつ、そういうものかと、特にそこを取り立てて指摘したりもしてこなかった。でも今考えても、やはりおかしい気がする。
どこかで聞いたような台詞のようだが、重要なのは「何になりたいかではなく、何をやりたいか」ではないか。
自分はここまで、本気でなりたいと思った職がないかもしれない。
今の職も、やりたいことがないから、本当にやりたくないことをやらなくていい選択肢を、という感覚で選んでいる。この感覚は人生における判断基準の一つとして割といい線をいっているかもしれない。(やりたいことのために、やりたくないことを我慢してやるor本当にやりたくないことを避ける、のどちらがいいのだろう。そのうち考えたい。)
だから、現在の私は最近話題になった「静かな退職」状態になっているのだろう。この言葉がややネガティブに語られる風潮自体に疑問を覚える。やることやってんだからいいだろ、と思う。この言葉は、ただ単に覇気がない人間を指している訳ではない。
やりたいことはあって、それが日々の軸としてあり、そのためにはある程度の収入が必要で、それを労働の対価として得ている。というのが現在の私の構図。
このやりたいことが、仕事とイコールである人は、それはそれで幸せだろうが、それだけが正義ということでもないだろう。それに、私もこのままのモチベーションのまま変わらないということでもない。職自体や部署が変われば、いやそれ以外の家庭・趣味等のありとあらゆる要素によって、人間なんていかようにも変化する。それに、自分のことですら、全て思った通りにコントロールできるものではない。(このことについては角幡雄介氏の「そこにある山」で大変感銘を受けた。)
何に重きを置くかなど、自分以外のいかなる人間にも侵されたくない聖域だと思う。
こうして意見表明しておかないと仕事第一主義を他人に強いてくる勘違い野郎が図に乗るから書いた。
daichi
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