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【daichi】人生のイニシアティブとナルシスト

自分が好きである。

冒頭から少々イっちゃっている発言なのは承知している。が、事実だから仕方がない。私は自分が好きだ。I Like Youである。まあLOVEでも何でもいい。好きなのである。
何故か聞きたいと思っている読者諸君。誤解を恐れず言ってしまうが、君達は現代病を患っている。すぐに理由を探すのはネット以降世代の悪い癖だ。自分で考えもせず、楽して答えに辿り着こうとするのは道楽だ。そして、世の事象全てに納得できる理由があると思わないほうがいい。そもそも答えなんてものがあるのかという疑問がある。
強いて理由を挙げるとすれば、「自分で責任がとれるから」。だから、自分(私)がスペシャルと言いたいのではなく、皆それぞれ自分を好きになれるはずだし、なるべきだとも思う。

社会人になって給料をもらうようになっても実家に寄生し、かと言って大した金を入れるわけでもなく(途中までは入れてすらいなかった)、只管に親の脛を齧りまくってきた。浮いているはずの金も山に海に消え、そこまでまとまった金もないまま(と言っても、脛があったことによる若干の余裕はあった。それは素直に両親に対して感謝している。)、3年前、入籍を機に実家を出た。

で、驚愕した。めっちゃ金かかる。
それまで、生きていく上で大切なのはノリと趣味だと思っていたが、間違いだった。
金。金だ。「生きていく上で必要最低限あれば」とか「金以上の大切なものがある」」とか、誰だ言ったの、信じちゃってたじゃねーか。いや、それも間違いじゃないけど、どちらも一定以上の金がある故の余裕が前提としてある。光熱水費、アパート代、通信、食費(これは私達が食べ過ぎ説はある)、日用品、ガソリンとかの車関係、その他諸々、、、
いきなり家計簿アプリ内の口座残高表示の変動が激しくなった。

そもそも私は実家以外で暮らすことが初めてなので、家事全般は素人で時間がかかるし、互いの美学的なものの衝突(セロリ)は当然ある。ひとつひとつと向き合っていくしかないわけで、妻とだから何とかこれまで楽しくやってきている。

育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない

二人で暮らし始めて数か月経ったある日。風呂でぼーっと天井を眺めながら「結構負荷があるなー」と思った。別にネガティブな意味合いとかではなく、単純に自分にかかるウェイトが想像よりあるってこと。ギャップ的な話。それまで実家で全くノーウェイトでのほほんと暮らしてきて「責任」的なものとは無縁だったのだから当然だろう。
そして、その後で「これは自分にとっては最高かもしれない」と思った。

元来、私は指図されることに対する嫌悪感が人一倍強い。何の権利があって口出ししてきているんだ、と思うことが多々ある。それは誰に対してもそう。百歩譲って、言ってきてもいいが、それで私に変化を求めているというその傲慢さが我慢ならない(「無自覚の加害」「他者をコントロールしようとすること」的なことはそのうち考えたい)。(私は担任の先生のこれが要因の1つとなって、大学進学をやめている。)

私は、自分で選ぶ・決めるということが生きていく上で最も重要だと思っていて、その結果自らに生じる事態の責任は自らが負う。それは逆説的に、責任を負うから自らの好きなように生きられるとも考えられる。
何をするも、何をしないも、自分次第。毎日アイスを食べようが、夜中にラーメンを食べようが、自分さえ良ければ何をしてもいいのだ(食い過ぎである)。

私は欲求不満らしい

自分を自分で操縦している感覚。もっと早くからこの感覚をもつ人も当然にいるだろうが、私の場合はこの時だった。
風呂でこれに気づいた。まじ最高、まじフリーダム、まじスタチューオブリバティーである。

こいつも自分で立ってる

自分で立っている感覚。これは何物にも代えがたいもので、個人差はあれど、全人類・全世界に通ずる普遍的な欲求ではないだろうか。誰も、他人から制限されることを望んではいない。
ただ、そうは言っても人間は社会的な動物だから他者と関係しなければ生きていけない。即ち、他者の影響を受けざるを得ない。相手の故意か否かは問題ではなく、どうしたって偶然性・偶発性に身を晒さなければならない。その結果、自らが選んだ事態とは言えない状況に陥ることが往々にしてある。
これは問題である。自分で選んだことだけで自分を埋め尽くしたいし、それは素直な、おそらく正しい欲なのに、それは絶対的に叶わない。ああ、なんというパラドックス。悲劇である。

でもこれは動かしようのない事実だろうから、割り切って考え方を変えるしかない。そもそも冷静に考えると、環境によって無自覚のうちに自分の判断が影響を受けていることはある。というか、「自分」なんて何かの影響の積み重ねの結果でしかないのだ。快感を覚えていた「おれが選んだんだぜ~」は、誰かが何の気なしに言った「ぴえん」の影響を知らず知らずのうちに受けた結果なのかもしれない(例に「ぴえん」が出てくるあたりに自分の時代に乗りたいのに取り残されている悲しさが滲み出ていて切ない。)。「ぴえん」が出自の判断は流石にかっこ悪すぎる。

とすると、もう極論、全ての事象は自分の責任でも他者の責任でもある。自分の判断は他者の影響を受けていて、他者は自分の影響を受けている。だから、誰のせいとかそういう次元の低い話はもう終わりにすべきなのかもしれない。

まず、「自分だけ」の判断というのは成立せず、どんな判断にも他者の要素は必ず存在する。
その前提に立った上で、自分がすることに自覚的でありたい。自分が責任を負うことによって、他者の制限から(少なくとも見かけ上は)解放されたい。それでもやはり意識の有無を問わず発生する環境要因があることも認め、その上で「自分はこうする」と選びたい。あくまでも人生のイニシアティブを保持しておきたい。そうしないと、全て他者のせいにすることになり、それでは人生が一気につまらないものになってしまうと思う。全てのことに自覚的でありたい。いつでもその状況に必死になりながら、一方でそれを俯瞰的に見て楽しむ態度をとっておきたい。この姿勢は心の健康に通じる気がする。

話に筋が通ってるのか微妙になってきたから一回読み返してみたが、何だか私が「おれは自分の力だけで生きているんだ!筋肉ムキムキ!わっしょいわっしょい!」みたいな人間として伝わりそうな気がしたからもう少し言葉を尽くしてみる。

勿論自分の人生は自分の力で歩いていくべきだと思うけど、周囲の人への感謝を忘れているわけではない。むしろ感謝している。さっきも書いたが、周囲の人からの影響があって、今の自分がいるわけで、今自分のことが好きな私は、これまで私に関わった、いや関わっていない人もどっかで繋がっているから、スケールのでかいはなしになったけど大袈裟じゃなく全人類の影響を受けて作られていると思っている。だから今の自分の幸せな理由が自分の力によるものだけでないことは本当によく理解している。ありがとう。
が、それを自らの手柄のように振る舞う連中への警戒心はある、正直な話。見返りありきの姿勢ほど醜い・貧しいものはない。

何でこんなことを考えたかというと、この前なんかのタイミングで娘に「自分のことを一番大切にしたほうがいい。」と話した時に(まじで、おれは言葉もまだ通じない1歳児に何を真面目に話しているんだろう)、二の句として「自分のことを大切にすることの重要性が分かっていれば、他者が他者自身のことを大切にする重要性も理解できるはずで、そうすれば仲良くできる。」みたいなことを言っていた、おれが。何で自然にこの言葉が続い
たかは分からないが、自分のこの言葉に自分で食らった。「まじそうだよなー、いいこと言うわおれって」と、更に自分を好きになった。

あと、ここまでと文脈が繋がらないけど書いていて思ったからメモ代わりに残しておく。
自分の好きなものがあると、何か嫌なことがあった時の強度が出ると思う。自分の拠り所というか帰る場所というかがあると、嫌なことに対して「これを乗り越えたら」って踏ん張ることができるし、失敗しても「おれにはあれがある」って割り切れる。その対象が1つだとそれが立ちいかなくなった時に終わるから、複数。複数の趣味があるといい。現代、オタクが強いのはそういう理由かも。でも趣味でなくても、「自分」さえブレなければ強度は出せるか。どんな外圧があっても最終的に「自分」があればいい。ということはオタク・ナルシストが強いのかもしれない。オタク・ナルシスト最強説を提唱します。

取っ散らかりすぎて収拾がつかないから終わる。

※これはあくまでも自分の話であって、筆舌しがたい苦境に立たされている人にまで、それを「自分の責任」として考えるべきだとは毛頭思っていないことをここに付記しておきたい。

daichi


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