願ったことは、神様がやるんじゃない。自分でただ、やればいいだけ。
「今日も書こう」と、開いたタブレット。
鳥のアイコンに目がいって、つい、寄り道をした。
さーーっと目を通すと、吉本ばななさんのツイートが目に入った。
「ほぼ日で、少し変わった文章講座をやりました。」
二日前からこのnoteを書き始めた私には、見ない訳にはいかない絶好のタイミングだ。リンク先を見ると『ほぼ日の学校』というコンテンツだった。
まあよくわかってないけど、1ヶ月は無料、月額680円ということなので、ひとまず登録してみようと、早速手続きをした。(といっても簡単なものだ)
noteも書きたい。でもその前に文章講座も見たい。あ、でもここ二日、畑に行く時間と天秤にかけて、「書く時間」の方に傾いた結果、そちらには行けていない。となると畑にも行きたい。きゅうりになす、いんげん、空芯菜、何より畑の全体におはようと挨拶をしたい、そんな変な間柄になってしまっているのだ。
こうして書いている間にも、こっちにも餌をください、私も、私も、とピーチクパーチク口を開けているツバメの雛に、餌を与える親ツバメにになったような気分で、「わかった、わかった、この後畑にも行くから」「文章講座は少しずつ見ていくからね」と、いろんな私に声をかけながら優先順位を決めている。
1日は24時間。
家族がいたり子供がいたり、自分1人のためだけに、時間を使えるわけじゃない。いや、そう選択したければ、本来はできるのだ。離れるという選択肢だってあるのだ。
でも、そうしたいわけじゃない。
元来1人好きな私は、本音を言えば、週に半分くらいは家族や子供と離れていたい。
でも、今目の前にある現状の中では、優先順位をつけることは、欠かせない。
そして、その行為を鍛えられてきたのは、家族という、私以外の存在あって得てきたものだ。
例えば今、一人暮らしをしたとして、得たいものは何なんだろうと考えてみた。
すると答えはすぐに出た。
『たった今、こうしてこれを書いている、この1人静かに集中している空間と時間』
ということはだ。たった今、それは叶っているわけだ。
そう気づいた途端、この望んでいる時間を、無意識に過ごしていたことに気づいた。
今、味わっているこれは、私が望んでいることに他ならない。
無意識を意識に変えた途端、私の得たいものは、今ここにあったと気づく。
そう、あれがないこれがないと、無意識に思っていることは多い。
でも、じゃあそれを手に入れた時に、得たいものはなんだろうと考えてみる。
そしてそれをやってみる。その時に、“今、叶っている”ということに、ちゃんと気づくことが重要だ。
最近の私の願いと、それが叶うというのは、こういうことだ。
願ったことは、神様がやるんじゃない。
自分でただ、そう、やればいいだけ。
神様は、そんな私に、絶好のタイミングでギフトをくれる。
思いもよらないギフトを。
JunkoShanti(mogrow)