スタイルがある人とは?自分のスタイルが、あるとは何か。vol,1
スタイルがある人とは 単におしゃれっぽいひととはまるで違う存在だ。
自律
自分の意思で動き、律し、自立している。
周りの雑音には 敏感ではあるが (気づきは常に大事)
雑音に紛れてしまうことはない。
まず、イメージとして、つるまないマインドがある。
孤独な時間に自身を育んでいる。
なぜなら人間は時間の使い方で、ほぼ何やってるひとか、どんな思考か
経験していることがそれできまるからだ。
自分のリズム、自分の世界観で、ライフスタイル全体を
デザインしている人は、つるんでばかりはいられない。
仕事の質もそうだ。クリエイティブな仕事をする人は、いつも孤独と共存している。
別の言い方をすれば 自分の頭で考え、自分で決めている人たちなのだ。
そして スタイルはアティテュード(態度)。
態度であり、生きる姿勢。
それはビジュアルに、全部が滲み出るもの。
前回書いたアイデンティティーにも大いに関係するのが スタイルというものなのだが
挫折
・・・・なんて偉そうなこといってる私も
これこそが自分のスタイル、という分身のような服を捨ててしまったことがある。
20代前半に愛してやまなかったTOKIO KUMAGAI の服たちだ。
私が思う美と価値観が詰まった服だった。
それは 子育て中にしてしまった血迷った行為だった。
非常に育てにくい息子、医師からNGを出されながらも出産に踏み切った
長女の誕生。二人の子育てに追われ
心と体のバランスをくずし それでも「働きたい」と無理をした結果
難病を発祥。ファッションどころでは、なくなった。
服を愛でる時間があるなら、子供たちを見なきゃ。
病気で激減するエネルギーを少しでも子育てに向けたいと、服を捨てた。
そのことが、本質的な解決になどなるはずもないのに。
捨てることで 許される気にでもなったのか。
いい母親でいなければ、という焦り、社会復帰しなければ、キャリアが、とか。
自分より大事なこと
それだけ苦しいのは、自分自分だった人生に、自分以上に大事なものができてしまったからなんでしょう。
正直、自分はどうでもよくなるほど 価値観が変わってもいった。
服を仕事にしながら、服を着ることさえ嫌悪感があった。
この話は、あとになって NHK きわめびとで少しだけカミングアウトしたけど
▼ きわめびと出演時のことも記載。
パーソナルスタイリングの本髄
そのころから、私のパーソナルスタイリスト人生は、人間の内面について ごまかさず、考えざるを得なくなった。
マインドとファッションの関係性について
もぅ目を背けることはできないと、腹を決めた。
心、技、体 そのすべてが整って、服を着たいという前向きな姿勢になれるのであって、その人の「本当に似合う、ふさわしい」というものが
見えてくる。
※ ファッションの心技体については、いずれ詳しく書きますね。
政近メソッドのひとつです。
ファッションを、外装を着飾るものではなく
内面が滲み出るものということを病を通じて体感し
同時に服がマインドを創る、という経験もした。
結果、私は結局 嫌悪感さえ抱いた服に、再び救われることになった。
後悔が残る、捨ててしまった服から学んだ多くのこと。
捨てずに残していたものは、自分のスタイルの軸になり
今も私の人生支えてくれている。
オリジナルな思考
人は誰しも、自分を見失う時期があると思う。
いつだって調子よく気分よく思い通りになんかいかない。
でも、自分をもう一度立て直そう、と自律するときに、支えになるものは何か。
今では 病気になったことも
子供を育てたことも
起業して走りぬいてきたことも
すべてがあって自分になった。
なぜならそこから オリジナルな思考が出来上がったからだ。
自分の芯となるものができて、揺らがなくなった分、柔軟性も身についた。
余白
人がどう思うから、を無視するわけでもないが
雑音に流されることはない。そういう余白ができたのだ。
人と違った思考と行動が、自身の世界観をつくりだす。
信じて繰り返し、新たに改革することによって、自分にしかできない仕事や
特別な出会いにも恵まれるようになった。
そうした強力な出逢いから つるなくとも互いを感じ合える存在の人々がいて(数ではない)
互いに影響を受けあい、スタイルは今も進化中だ。
マインドと服の一致
捨ててしまった後悔が残る服たちを 今は自分で作ろうと思っている。
再現ではなく、その思いとともに、もっと自分らしい服を。
スタイルはそうして 完成していくのだろう。
スタイルについては一回で書ききれるはずはないので
これからも永遠のテーマ、になるでしょう。