ファッションがどこか嫌いというひととじっくりはなすと聞こえてくる本音。単なるセンスの競争・自己満足な装いは教養も生き方のセンスも感じられないというその理由は、、
薔薇を愛でる。何気ない豊かな暮らし、その本質と服装について。
単なるセンスの競争のような装いは人に嫌悪感も与えたりする
ファッションがどこか嫌いというひととじっくりはなすと、ファッションに自信がありそうな人たちに対し、嫌悪感があるしほんとうに素敵だと(人として)思えないという意見が多いことを皆さんご存知だろうか?
教養も生き方のセンスも感じられないという。
「僕自身も少し前までは、嫌悪感とまではいかなくても、『ファッションの人はお金を掛けて表面を着飾ることにあくせくしている人』、という認識を持っていました。
それが、政近のラジオ番組を聴いたことから、MFJでオフィサーを拝命することにまで発展していきました。そのキッカケは、ファッションではなく、政近の声であり、その言葉の熱量でした。もし最初に視覚情報から入ったら、今と違う展開になっていた気がします。」
この言葉は NHKラジオから私の話を聞いた、ファッションレスキュー迎接スクールMFJのオフィサー櫻田の言葉だ。
櫻田のように、ファッション業界人に対してのイメージが決してよくないというひとは世の中に沢山存在している。
また、女性で多いのは SNS時代、目に余るファッションや食事のシーンに嫌気が刺して SNSをやめる人もいるくらいだ。
桜の季節、バラの季節・花を愛でるお花見ファッションのポストを見て、弊社ファッションスクールへ入学された生徒さんもいるくらい、政近のファッションの考え方は「すべてのひとに共通の基本」として身に着けてほしいことを大切にしている。
先日、薔薇の季節ももう終わるので、滑り込むようにバラ園へ。今日のこのnoteは昨年、同じバラ園に行った日のFBポストからの記録に少し書き加えての投稿になる。
それはすなわち・・
桜も薔薇も、そのときの服装に関して、まったく同じことを伝えているから、新しく考え直すことはないからだ。そういうことこそが【基本】ということになる。
変幻自在を身につける方向へと学ぶことが大事
あ、政近さんて、いつもこんな甘い服着る人ですか?こういうのが好きなんですよね?という【問い】が沸いてくるでしょうから いや、まぁ まるで
花の世界とは間逆なアバンギャルドな人ですねー
自己表現の前に「そもそも」がある。
私が提唱するメソッドは 似合うを個人のレヴェルから考えるのではなく、もっと、「そもそも」なところから学んでいく。
自分はこういうのが好き!自分の肌の色に似合う服とか、SNSで自分を撮りたいモデル感覚は、悪いことじゃないし本能ね。自己表現は癒しでもあるからいいと思う。でも、自分が常に主役、という意識はあまり美しいものではない。
もちろん、そうした場も存在するし、そういう時は私自身思い切り装いマインドをはじかせます。例えばお洒落マスターが大勢集まるパーティーなど、主催者も参加者全員が「迷わず自己を表現して欲しい」と願っている場合など、遠慮するほうがギフトから遠のきます。
今日は思い切り自由な場のマナーではなく、何気ない豊かな暮らし、その本質と服装について書いていきますね。そして、ファッションはその場に応じて 変幻自在であるべき。←ここについてはまた別投稿しまーす。
ファッションは知的な行為
花なら花を邪魔しない。見に来ている方々にとって、という配慮。目立つより馴染むことが美しい。ただ、だからといって自分を消しすぎることでもないだろう。その境界線を常に考えているのか?という知的装力。
互いへのギフト、装いはギフトである、というメソッド。
景観を邪魔しない、などの基本的な教育は本来家庭でなされることだろう。しかし日本は京都などの観光地以外は、こうしたそもそもの景観事情も遅れている。その上に家庭での服装教育は皆無だ。この話は桜のときも書いたけどもう一度。とても大事なことだから。
日々の丁寧な暮らしは、服装にも食にも反映され、そうしたひとの【質感】というものは誤魔化しがきかない。
ウイルスも安定してきて、正直休む間もなかったお花の季節だったけれど
桜も薔薇も ゆっくりと大切に愛でます。忙しいといってしまうのは簡単。
言い訳せずに自然の恩恵に感謝しにいく、こういうマインドに服を着せる
のです。そう主役は自分では、ない。
薔薇には非常に思い入れが強い私。出身である広島県福山市は
薔薇の街で有名なの。幼い頃家族でよくいったバラ園からはじまり実家の庭には何種類もバラが植えられてた。
特にピンクの大きな薔薇は私の身長を超えるほどに育ち、小さな赤い薔薇や黄色い上品な薔薇など、咲いては嬉しくて
よく学校に持っていっていたものだ。
審美眼を培う 自然はすべてを教えてくれる
教室にほのかに香る薔薇の香り。お庭の花たちを世話するのが大好きだった。審美眼はそんな風に培われていったのだとおもう。庭の咲き誇る花以上に、田畑にたくましく生きる草花はもっと好きで、蓮華や白つめ草、はこべやきりんそうなど、観察しては絵に描いたり、押し花にして眺めていたものだ。
そんな記憶は自分のルーツ。
色彩感覚、審美眼、特別な教えを受けなくとも、育まれていくものと思う。
だから誰に教わるわけでもなく、服装と景観についても、愛でるうちに当たり前の感覚になっていったのだ。
こういう画像を上げると、そんな暇がない時間もない服を着替えるだけで大変そうと思う人がいる。(学校で質問されたり)でもシンセカイにきいてみて。お支度は15分です。こういうときメイクアップは超時短。
お花に感謝、夫婦の何気ない時間を大切に思う。そういうことが大事なのであって、服のお支度に命がけになる必要はない。
まんま のリスク
気張ることはひとつもなくて、いつものこと。こういうとき、パートナーを1時間も待たせる人がいると聞くから、そら、ちがうでしょ。かといって「まんま」気も使わずみたいな考えでは、誰が嬉しいのでしょうか?待たせないからいいでしょ、じゃないんです、それも。
夫婦が波状するだろうし、バラにとっても、そこにくる人たちにも美しくない光景になる。もちろんお花見だけのはなしではなく
ちょっと映画に行く
ちょっとそこらへんまで
そんなときほど 本性が現れるものはない。
一人ならいいでしょ。という質問もあるが、そういう足掻きは
自分自分の現れです。まんま、まるで気を使わない自由は独りよがりなマインド。
その姿は常に人の目にも触れている、相手がいるなら愛情と同じこと、
ということを忘れないことでしょう。
画像には、シャッター押してくれるシンセカイを私が撮った姿も。笑 お花のかんかん帽かぶる61歳メンズ(昨年)笑。
薔薇たちとの交信。たのしかったな~
桜 薔薇 次はひまわりかなぁ
ファッションがどこか嫌いというひととじっくりはなすと聞こえてくる本音。単なるセンスの競争のような装いは教養も生き方のセンスも感じられないという多くの方々が
政近さんと出会って変わった
ファッションが奥深く楽しく、知的なものであると知り
人生が楽しくなりました。
嫌悪感があったのは、ファッションの本質を知らなかったからだと。マインドが変われば、お洒落な人に引け目を感じることなどなくなります。自分自身の問題ね。そしてできることからやっていきましょう。
こうしたお声を頂くとき、これからもこうした「あたりまえのこと」を
ちゃんと伝えていく人で在りたいなと思います。
▼実はこのオリーブグリーンのワンピース 16通りに変幻自在に着ています。
▼桜 お花見ファッションについて