服も価値観も自由に脱ぎ着すればいい。

昨日は自分の内なる声をじっくり聞きながら、自分を過度に飾ったり抑えたりせず、素材の味を生かした文章が書けたと思う。何度目かの推敲が終わって、心の中で静かに噛みしめるようなガッツポーズが出た。

等身大の自分でいられる居場所があるというのはつくづく大事なことだなと思う。人生が音楽だとすると、ベースラインが鳴っているような感覚。上に乗っかる主旋律をはじめとする他のパートが泣いていようが笑っていようが怒っていようが、それらとは独立してて、かといって全くの無関係というわけでもなく、さり気なくも確かに下から支えてくれる安心感。耳を澄ますと聞こえてくる。

僕の場合、その居場所というのが、たとえば文章であったり、自分の部屋であったり、心を許せる人たちであったりするのかもしれない。わかりやすいのが自分の部屋にいるときで、文字通り自分を飾らず抑えずなありのままの姿でいることが多い。“等身大”を物理的に突き詰めるとその状態に行き着くと思うのだけれど、やっぱりそれが一番心地良くて楽なんだよな。裸万歳。

そういう意味で、昨日は文章の中でいかに服を脱ぐかみたいなことを意識していた。自分が着ている価値観を剥ぎ取って、その上で文章を書きたかった。“自分の価値観だと思っているもの”には2種類ある気がする。一つは、自分の中に取り込まれて自分の血肉となっている価値観。もはや自分の一部みたいな。もう一つは、着たり脱いだりが自由な、自分の一部にはなっていない価値観。周りや世間の目を気にして着てるだけで、脱いでも自分が揺らぐようなものではないし、むしろ脱いだほうが身軽でいられる。でも着ていたほうが心地良い場合もあるみたいな。

僕はいつからか、人は面白くないといけないと思っていた。そして、僕は自分のことを面白くない人間だと思っている。ここで言う面白さっていうのは、興味深いとか趣深いみたいなことではなく、テレビ的だったり大衆的だったり、そういうもっとわかりやすい面白さのことを指している。ひょうきんさに近いかもしれない。人は面白い必要があると思っていたから、話し言葉でも書き言葉でも、言葉以外でも、とにかく自分のアウトプットは面白くないといけないと思っていた。でも僕は面白いことを言ったり書いたり、面白く振る舞ったりするのは得意ではないから、そのことに苦しんでいた。苦しんでいたっていうと語弊があるかもしれないのでもう少し丁寧に表現すると、そのことによって知らず知らずのうちに疲弊していた。特に、バラエティ番組的な面白さとノリの良さみたいなものが同時に求められる場面が苦痛だった。過去形で書いたけど、リアルタイムなコミュニケーションだと今もまだそういう節があると思う。

でもそれは僕の価値観じゃない。それに気づいたのは今朝のこと。別に僕は自分が(ひょうきんさみたいな意味で)面白い人間でありたいとは思ってないし、相手にも特にそれは求めていないなって。気づかないうちに誰かの価値観を着ていただけなんだなって。別に面白くなくてもいいじゃんって。そう思ったら、「真面目すぎる」とか「ちょっと硬いよね」とか今まで言われてきた言葉たちからネガティブな響きが消えて、フラットに受け取れた。昔、僕がよく知っているある人が「男は面白くないと駄目だ」みたいなことを言っていた。そのときは、僕もそうだと思った。そうだと思うけど僕はそうじゃないから駄目だ、みたいな後ろめたさがあった。でも今考えてみれば、別に僕は全然そんな事思わないし、その人がそう思ってるだけで、僕が気にすることじゃないなって思う。(というか、もしかしたら「駄目だ」とは言ってないかもしれない。「面白くないとモテない」って言ってたかもしれない。記憶に自信がなくなってきた)

周りの人が笑ってたら自分もそれに合わせて笑わなきゃいけないとか、冗談を言われたら笑わなきゃいけないとか、冗談を真に受けて不快に感じたらいけないとか、たまには自分も冗談を言って周りを楽しませなきゃいけないとか、自分を守るために自分で生み出した自分ルールたちを手放す頃合いが来ているのかなって思う。脱いでも必要であればまた着れるし。でもこの服ずっと着てきて愛着はあるけど、今の自分にはちょっと窮屈なんだよな。成長したってことかな。次はどんなファッションにしようかな。全裸?さすがにそれは恥ずかしい。せめてふんどしくらいは必要かな?いやそれでもまだ恥ずかしい……