試練は成長を与えるということー 不足してるからこそ考える力が養われる

 今はこうして頑張って記事を書き続けていますが、私は元々は書くことが苦手だったのです。

 「自由に書いてよいと言われても何を書いたらよいかわからない」

 それが、私の小さい頃の悩み事でした。毎日の振り返りとしてか、いつもその日の持ち物等をメモする連絡ノートに、一日の出来事を書くという課題があったのですが、何を書いてよいかわからず、先生には「ちゃんと自分で考えるようにしなさい」と怒られました。

 でも、板書写しのあとにいきなり自分で思ったことを書けと言われても・・・と戸惑いました。

 その頃の私は物を覚えるのが遅く、不器用でもありまして、勉強は苦手でした。特に算数。全然覚えられない。足し算とか引き算とか、何度も何度も練習しても、なかなか身に付きませんでした。また、物もよく失くしては先生や親によく怒られていました。

 みんなから助けられてばかりいる私。子供ながらに落ち込んでいました。

 

 でも、こんなに不器用でも努力で変えられると思ったから。ちゃんと成果を出してみんなをびっくりさせたいと思ったから。それもあって、小学校で学年が上がってからは必死に勉強もしてきました。

 また、その頃になると自分自身の思っていること、考えていることを言葉にして書いていくのがだんだんと得意にもなっていきました。国語の時間には物語を作ることとか本当に大好きでした。読解で小説は特に苦手であり、また子供の頃は文字を追うことで精一杯で、話の内容については、イマイチ理解できてはいませんでした。

 でも、経験を積んでいくことでやがては、自分なりに物語を解釈できるようにもなりました。たとえ、模範解答通りにはいかなくても、大きな進歩だと思いました。そう、経験によって思考の幅が広がっていくんだと思います。


 私には、小さい頃はあまり考える癖はありませんでした。もう本能のまま生きていました。でも、成長していくにつれ、楽しいことも面白いことも、悲しいことも辛いことも理不尽に思うことも経験していき、また後者のようなマイナスな感情になったとき、何故そのような状況になってしまったのか、とかどうしたらそのようなことを改善できるようになるか、と考えるようになっていったのです。

 考える必要性があるから、ひたすら考える。現状を抜け出したいから、どうしたら今の状況を良くできるか、策を巡らせるようになる。

 どこかの本に書いてあったのですが、お金持ちの子息あるいは息女でかつ守られていると、ぼんやりしてくるそうです。自分の身を守る必要性がない為、右脳が使われなくなってしまうのだ、と。確かに、私が今本当に恵まれている状態で、何も変わらなくてよいと思ってたとしたら、今こんなに必死になって色々考えてはいなかったのかもしれません。

 その本の著者はこうも言っています。収入が少なくピンチな状態だからこそ、頭を必死に回転させてアイデアが生まれるのだ、と。


 今までは、何故私達はこんな状況下なのに、その一方でそんな苦労をしなくても済む人がいるのか、という不平等にひたすら文句を言いたくもなってました。けれど、それを言ったところで何も変わらないとわかったのです。

 今はむしろ、その恵まれた人達と違い、私達には試練を天から与えられ、そしてその試練によって自分自身を鍛錬し、成長するという貴重な機会を与えられたんだとも思います。だからこそ、日々自分や周りの人の生活や環境をどうしたら良くできるのか、と考え、そして行動にさえできるようになるのです。


 だったら、その天から与えられた宿題を思う存分楽しんでやろうと思うのです。それは多分ずっと続いていくでしょう。私達が気づき、そこから学び続ける姿勢を持ち続ける限りは。

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