演出家を信頼すること
2010年から、年に1〜2本の舞台製作をして来ました。
全ての作品に、プロデューサーとして、また、脚本家として携わって来ましたが、そこで得たもの、学んだこと、エピソード等を、
「舞台を創造する」シリーズで書き綴っていきたいと思います。
12年以上演劇に関わってきて、たくさんの現場を経験してきましたが、実は「こうでなければならない」という決まりがないのが演劇の現場だなと思っています。(古典劇を除く)
その作品、その現場、その劇団、その制作会社によりやり方が様々です。
役者もマネージャーも、そして関わるスタッフも「思い込みを捨て、臨機応変に対応できる能力」が一番必要になってきます。
なぜか。
それぞれの「予算」や「劇場の規模」、「劇団公演」なのか「プロデュース公演」なのか、「原作がある」のか、など、パターンがバラバラです。
なので、「この記事はごまんとあるパターンのうちの1つである」と思ってください。
拙い文章かもしれませんが、お楽しみいただけたら幸いです。
オーバーワークな演出家
この見出しを書いてすぐ「ごめん」と思います。
弊社の演出家は「演出」をし「出演」をし、場合によっては「制作」もして「小道具」もしていました。(本当にごめん)
劇団の主宰さんだと、上記のようなオーバーワークな演出家さんはいっぱいいると思います。
プロデュース公演でひっぱりだこな演出家さんは、2個3個現場を掛け持ちしている方もいるでしょう。
出演と制作と小道具と衣裳をやらずとも、演出家というのは業務過多気味です。
稽古をつけながら
音響さんと音の打ち合わせ
照明さんと照明の打ち合わせ
殺陣師と殺陣の打ち合わせ
振付師とダンスの打ち合わせ
衣裳さんと衣裳の打ち合わせ
プロデューサーに予算の都合で云々と言われながら
美術さんと美術の打ち合わせ
舞台監督と打ち合わせ
稽古の進行具合によって演出助手と相談し、
稽古に来られない役者をどうするか制作と相談し、
役者の力量によっては脚本家にも相談し、
またプロデューサーに小言を言われたりするわけです。
演出助手が敏腕だと、とても助かりますね。
敏腕なスタッフさん、そしてその演出家のことをよくわかってくれているスタッフさんだと、それはそれはありがたいものです。
本番中、舞台上に存在している各セクションの全てを「決める」(予算以外)のが演出家の仕事だったりするわけです。
脚本と演出
私がマネージャーを始めたばかりの頃、超ベテランのマネージャーさんが苦虫を噛み潰したような顔で言っていた言葉があります。
「脚本と演出を一緒にやる人の舞台はつまらない」
なんてことを言うんだ(その現場がまさにそうだったわけですが)と思いながらも、実際その作品はつまらなかったわけです。(もちろん例外はあり、一人で作演をするからこそ面白いものが作れるという方もいらっしゃいます)
なぜか。聞いてみました。
「自分の中だけで完結してしまっていて、自己満足の作品になることが多いから」だそうです。
あくまでも「芸術なんだから、わかってくれる人がわかってくれればいい」という方向ではなく、「エンターテイメント」としてのお話しです。
もちろん賛否両論あると思いますが、私は妙に納得ができてしまいました。
表現すること、そこに第三者の目線があるかどうか。
その出来事をうけ、自社で公演を打つ際には「演出家」と「脚本家」を分けることを決めました。
脚本家として演出家に思うこと
私が脚本を書くようになったのは「必要に迫られたから」ですが、もともと漫画家志望でしたので「プロットまででいいなんて!なんて楽なの!」と思ったなんてことはここだけの話にしてください。
私は演劇の素人でした。
観客として、マネージャーとして様々な現場に携わっていたものの、作品を作る側の事は何一つわかっていない状態で、舞台用の台本を書き始めたわけです。
未だに言われ続ける当時の私の迷言があります。
「舞台監督って必要?」
…恐ろしいです。10年以上前なので許してください。
そんな演劇素人の私が脚本を書いていくにしたがい、当たり前であり絶対揺らいではいけないあることに気が付きます。
「これは、信頼している演出家じゃなかったら書けないな」
世の中には様々な台本があり、その様式も様々です。
私の脚本には必要以上のト書きがありません。
その最たる理由として「どう演出をつけるかを託している」からです。
作家さんによっては、ト書きに「これは演出では?」ということが書いてある場合があります。「これは演技指導では?」「これは美術では?」ということもあります。もちろん、それがダメなのではありません。
一つの物語を、
役者さんが演じ、演出がつき、音響と照明が入り、衣裳、ヘアメイク、美術とたくさんの人の力によって表現されていく中、「たった一行のト書き」が作品を台無しにすることがある。
それがとても嫌で、恐ろしかったのです。
思っている以上に、脚本に書かれたたった一行に影響力があります。
役者、スタッフ含めた座組の全員がその一行に引っ張られると、簡単には方向転換ができなくなります。
ただ、私の脚本にはあまりにもト書きがなかったが為に、演出家と照明プランナーさんが「これは昼?夜?それとも夕方?もしかして早朝?」と、推理状態になっていたところを見かけ、猛省しました。
自分の作品をもっと素敵なものにしてくれるはずだと信頼し、預ける。
ちょっと違うな?という状況になっていればそれも言える。
だから台本を書き続けることが出来たと思っています。
脚本を変更すること
脚本に書かれたたった一行の影響力を伝えたあとに恐縮なのですが、脚本は稽古期間中に大きく変わることがあります。
脚本家以外の人間が脚本を「変更する」「カットする」
それをどうジャッジするかは、脚本家により様々です。
絶対に変えないでください、というパターンと、
現場におまかせします、というパターンと、
変えてもいいけど相談してください、というパターンと色々です。
私の場合、
GEKIIKEは「現場(演出家)におまかせします」のパターン。
Asterismは「セリフは絶対に変えないでください(セリフカットはものによりOK)」のパターンです。
GEKIIKEの時でも「言いにくいからという理由だけでセリフを変更したい場合」はNOと言います。特に、役者さんの努力不足の場合は絶対にNOでした。(そういう時にマネージャー部分が出ます。)
演出家さんによっては、現場でシーンやセリフをカット・変更することを希望する方もいます。そうしてもいいという約束が交わされている事が前提です。
ここで、やはり信頼が関係してきます。
稀に「そこはカットしちゃダメでしょう」というシーンをカットしてしまうことがあります。
得に2.5次元の舞台で起こりやすいです。
舞台としての仕上がりや尺を優先するがゆえに、原作ファンが大切に思っているシーンがカットされている、などです。
2.5次元舞台の台本というのは、「このまま演ると上演時間が4時間だな」という量が初稿になることが多いです。
実際、私もそうでした。
原作を大事に思えば思う程、台本が長くなってしまう。あのシーンもこのシーンも入れたい。原作者さんからセリフは変えないでくださいと言われている、等も理由としてあります。
2.5次元舞台のお話しはまた別の記事に書かせていただきますね。
オリジナル作品で、上演尺に問題がない時も、この「変更」はあります。
例えば、Asterismの「Judgement Day」という作品です。
ある病におかされた人々が、一つの薬を奪い合うシーンがあります。
台本上では、薬を奪い合い、罵ったり叫んだりするセリフがありました。
しかし稽古が進んでいく中で、演出家から「セリフを全てカットしていいか」という打診がありました。
約1ページ程のセリフです。
「スピード感と臨場感、愚かさを出す為に、敢えてこのシーンをスローでやりたい。その為にここのセリフを全てカットしたい」
すごい、と思いました。
その発想は私にはありません。
結果、完成したそのシーンは、この作品を代表する「恐ろしく愚かなシーン」になったわけです。
プレッシャーをかけあうこと
「こんな面白い台本書いたぜ。どうやって演出つけるか楽しみにしてるわ」「こんな演出つけてやったぜ。次の台本、楽しみにしてるわ」
そんな信頼関係があったから、10年以上一緒に作品を作る事ができた。
そう思っています。
私は脚本家であり、プロデューサーでもあります。
興行の中で「権力」というものを一番持っている人間です。(スポンサーや版権元を除く)
ですが、お芝居にあまり口をはさみません。(自分ではそう思っています)
演出も演技も、音響も照明も、美術も舞台監督も、衣裳もヘアメイクも制作も、私には出来ないことです。
そこに信頼関係があるから任せられる。
そして全ては「観に来てくれる方に楽しんでもらうため」です。
最後に
今、コロナの関係で演劇業界も苦しい状況が続いていますが、コロナ以前には「舞台公演をやりたいだけ」の企業さんが多かったと感じています。
マネージャーとしては、役者の働き口が増えてありがたい演劇バブルでしたが、演劇の質の低下があったのでは、と思うところもありました。
1つの作品をたくさんの人の手で作り上げていく。
そんな演劇との向き合い方が、「贅沢なこと」になってしまった今だからこそ、一層大切にしていきたいと思っています。
次の「舞台を創造する」では、プロデューサー目線の記事を書きたいと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。