そうだ、古墳行こう。秋のさきたま半日旅
古墳シンガーまりこふんも埼玉出身らしいです。こんにちは、じゅんぷうです。
もともと歴史好きで墓参りと神社めぐりが趣味だったので、これまでに夫と旅行していても行った先で近辺に古墳があったりすると「古墳があるって。寄る?」ともれなく聞かれていたのですが、そんなときわたしの答えは「別に…」でした。寄ったこともありますよ。通り道にあったら寄りますよ。けど、あえて行きたい場所というわけではありませんでした。
それが、同じく興味のなかった戦国時代含めてお城に惹かれていったように(城郭検定2浪濃厚)、いよいよ古墳に呼ばれるときがやってきたようです。古墳時代きました。歴史の生々しさが薄らいでいるからでしょうか。古代に思いを馳せつつも、ただ牧歌的な風景の中に溶け込みたい。
そんな気持ちが同じように高まっていた友と、それに呼応してくれた友、3人で秋も深まったある日、埼玉県行田市のさきたま古墳群に出かけることになりました。
古墳、前玉(さきたま)神社、忍城を見て行田名物ゼリーフライを食べるか買うかしたい、大人の遠足プラン
月曜の朝8:25、上野駅に集合した女3人。別名病猫介護で癒され隊。JR某線で人身事故があった影響で若干バタつきながらも、高崎線で北へ向かいます。
わたしと、もう一人の友は同じ埼玉出身です。上野発着の高崎線と宇都宮線は1時間に1本か2本、上野ではなく池袋発着の便があって、わたしは大宮からそれを利用して通学していました。埼京線に比べたら100倍空いていたんです。だけど大宮から北は…上尾はプールおよびダイアモンドユカイ、桶川はモッくん、鴻巣は免許センターぐらいしか知らない人間。あ、的場浩司の家を探しに上尾に行ったことを思い出しました。友は沿線住民だったので、北の国出身のもう1名に沿線解説をしてくれています。
「何もないけどいいところ」埼玉の車窓を1時間近く眺めていた、お年頃の私たち3人の耳にどこかで聴いたメロディが…「あ~なんだっけこれ!」「ふふんふん~…」「とおい~♪」「む~かしのこと~さ~♪」「歌えるわ…!」
行田駅の駅メロがスターダストレビューの「夢伝説」でした。ボーカルの根本さんが行田出身、ほかのメンバーも羽生や熊谷の方でした。知らなかったよ…。
埼玉って、市の数が40と日本最多なんです。そのせいもあるのか、自分の市と隣り合う市以外は文化圏が違っちゃう感覚なんですよ。じゅんぷう的には東北新幹線から西側は違う国ですね。
現在の行田市埼玉(さきたま)が県名発祥の地と言われています。「さきたま」の由来は諸説あるようですが、「さきたま古墳群」は埼玉人なら学校で必修。わたしも小学生のとき、社会の授業で初めて知った日に家で「埼玉に古墳があるんだって!」と興奮して報告しました。
地元には貝塚がありましたが、古墳というとすでに仁徳天皇陵を習っていたからか、漠然と古代の埼玉にも大権力者がいたことに関心を持ったような記憶。
ちなみにさきたま古墳群・吉見百穴・利根大堰のセットで遠足に行ったのを覚えていますが、不思議と古墳の現地記憶だけまったくないのです。
とにかくスタレビ聴いて行田に降り立ちました、わたしたち。観光コースを回ってくれる循環バスに乗り込み前玉神社を目指します。今回通過した古代蓮の里は蓮の季節に訪れたいと思います。
バスを降り、前玉神社です。一緒のバスで来た女子含めて、参拝客の姿はちらほらありました。
その昔は「幸魂(さきたま)神社」と書いたという前玉神社も、浅間塚という古墳の上に建っています。5世紀ごろの建立というからものすごい歴史。この神社こそが県名の由来ということになります。われわれ埼玉の南東部の民にとって神社といえば大いなる宮・大宮の氷川神社なのですが、ここも教科書に載るべきですね。
御祭神は前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)。出雲系の神様だそうなので、氷川神社と同様、やはり古代の武蔵と出雲はかかわりが深かったようです。また出雲族の話をしたくて(正確には昼ドラ『三日月情話』の話)ムラムラしてますが長くなるのでまたの機会に。
この墳丘の中腹にある浅間神社は忍城内から勧請されたそう。祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)で、木花開耶姫命にちなんださきたま火祭りも毎年5月に古墳公園で催されるようです。
階段下の両脇に据えられた石灯篭には万葉集から1首ずつ歌が記載されています。どちらも「さきたまの津に居る船の」とか「さきたまの小埼の沼に」とか、やはりこの地が水辺であったことがしのばれます。
ここ前玉神社には4匹の名物ねこがいて、御朱印もねこたちをモデルにしたデザインのものをいただくことができます。この日、わたしたちが会えたのはキジトラのきなこDXと三毛猫のさくら。ガガとミントには会えませんでした。
ねこ型の絵馬もあり、友ふたりは愛猫の平穏を絵馬に託しました。さあ、古墳の群れに向かいますよ!
大型前方後円墳8基と、日本最大の円墳・丸墓山古墳を中心とした古墳群。たどり着いても、遠足の記憶まったく蘇らず…ねえ本当に来たよね?
湿地のため攻撃されにくいというのはじゅんぷう地元の岩槻城も同じです。岩槻城は落ちましたが…。
岩槻城の築城は江戸城と同じ太田道灌とわたしたちは習いましたが、近年の史料から忍城と同じ成田氏説もあるそうなんです。江戸も含めてですが、中世の関東平野は見渡す限り葦の生えた湿地だったんでしょうね。
利根川と荒川の荒ぶる流れを変え、広大な湿地を豊かな農地と住地にするというとんでもない土地開発ビジョンを持ち、インフラ整備を実現させた家康はやっぱりすごい…古墳の上から関東平野を眺めてそう実感します。埼玉に生まれ育ち、大きな災害被害に見舞われることなくいまも東京で暮らせているのは先人たちのおかげ。
丸墓山古墳に上って石田三成よろしく忍城の位置を確かめ、降りてわたしたちもお昼にします。
食後にもうひと登り、稲荷山古墳。115の文字が刻まれた鉄剣が出土したそうで、ほか一緒に出土した馬具など含めて国宝に指定されています。
後半は徒歩遠足。忍城~ゼリーフライ~十万石まんじゅう~秩父鉄道行田市駅
水攻めに耐えたものの本城の小田原が落ちて忍城は開城し、江戸時代には徳川の譜代大名が入ります。阿部氏の時代に御三階櫓が建造されますが明治に廃城となり、一部の土塁を除いて取り壊されました。今の御三階櫓は昭和63年に外観だけ復興されたものです。岩槻城と忍城、歴史が重なる部分もあれば違う歩みもあり、それぞれ中世~江戸の武蔵のスケール感をなんとなく想像で感じられました。
本丸跡地にある行田郷土資料館は月曜お休みだったので続日本100名城のスタンプいただけず。古墳公園にあるさきたま史跡の博物館も、はにわの館(はにわ作りたかった)も、みんな月曜お休みということを肝に銘じるわたしたち。次は月曜以外で…!
そろそろおやつタイムなので、ゼリーフライのお店、駒形屋へ。行田名物ゼリーフライ、そしてフライ。ゼリーフライは、おからとじゃがいもでできた衣のないコロッケ的なもので小判=銭の形⇒ゼニフライ⇒ゼリーフライ。フライは、揚げていないのになぜかフライ。お好み焼きのような感じ。
わたしたちは、それぞれゼリーフライをお持ち帰りで、フライをイートインしていくことにしました。とっくに1万歩以上歩いているわたしたち、やっと座れた。
粉ものの力で疲労回復したら、埼玉の民のソウルフード「十万石まんじゅう」本店へ、また歩いて向かいます。風が語りかけます。うまい、うますぎる。テレ玉でしか見られないこのCM。おのおのお土産を買います。
帰りはJRではなく秩父鉄道の行田市駅から電車に乗って熊谷で高崎線に乗り換える予定。この秩父鉄道、久しぶりに遭遇したIC化していない路線で、きっぷを買ってベンチに座って電車を待ちます。
郷愁を誘うローカルな駅の雰囲気がそうさせたのか、ここでみんな愛するねこの話をして涙をこらえるのに必死になるという、そんな旅の終わりでした。行ってよかった。次は蓮の季節に…。
さきたまの風景が広がらなくもない。動画作ろうかな。