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【CONNECTING FILMMAKER】深田晃司 (映画監督)「現代映画の動向」SHINPA 基調講演

この講演は、2020年2月28日(金)にシネマ尾道にて開催されたSHINPA vol.12で行われたものです。

はじめに

小林達夫)2014年からスタートし、今回で12回目の開催となるSHINPAですが、初の試みである基調講演シリーズ「現代映画の動向」を始めさせて頂きます。「現代映画の動向」というタイトルは、1963年から京都国立近代美術館で10年間ほどの間、毎年行われていた「現代美術の動向」という美術展のタイトルからインスパイアされました。

 SHINPAは、毎回10名の監督の短編映画を中心とした作品上映と、各作上映後のトークを軸としたイベントですが、このタイトルのように現代の映画の動向を捉えられる場のひとつになっていれば、という願いがあります。それぞれの映画とトークの中で、浮かび上がる断片的な「現代映画の動向」。それに対して、登壇監督以外に毎回1人の方をお呼びして、まとまった長さの講演をお願いすることで、相乗的に「現代映画の動向」を考えるような試みになればと思っております。今回第一回目は、過去のSHINPAでも3回作品を上映しています深田晃司監督をお呼びしています。では、深田監督よろしくお願いします。

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左から、小林達夫(SHINPA)、二宮健(SHINPA)、深田晃司監督

深田監督)はい、よろしくお願いします。「現代映画の動向」って結構大きいテーマなので、改めて何話そうかなと思っていたところ、直近であった子ども映画WSを振り返ってみて改めて思ったんです。やっぱり映画の楽しみ方って、特に今ビデオの時代になっていて、色々あっていいなって思うんですね。

 音楽や美術やっている人みんながみんなプロになるわけじゃなくて、趣味で絵を書いたり、趣味で音楽やっていても十分面白いし人生を豊かにするっていう、映画も今後そうなっていくといいなと思っているんです。ただ今日はSHINPAという形で、若い作家さん・若い監督さんもかなり多く来ています。本当にイベント自体が、とても若くて自分がおじさんになったんだな、ということをしみじみ実感しながら、今日のこの若さを楽しんでいます。なので、比較的若い作家さんに向けての言葉になるかなと思います。あとは、後半はお客さん側というか、映画を見る人に向けての言葉を言えればなと思っています。

日本映画の現状

 まず現代映画の動向ということで、超ざっくりと、日本映画が今どういう状況かっていうことを話したいと思います。まあ酷いですね、日本映画。個々の作品が酷いって言ってしまったら自己否定になりますが、そういうことではなくて、状況がひどいですね。まあお前の映画酷いよって思っている方がいたら、それはそれで皆さん自由なので全然構わないですけど(笑)。国の文化予算が他国と比べると圧倒的に少ないとか、そういった国全体の問題っていうのもあるんですけど、映画界自体も色んな問題を抱えています。他国と比較して考えていくと例えばフランスは公的な助成制度が非常に充実しています。日本の文化庁の映画に対する支援額は年間だいたい20億円弱ですが、フランスは800億円前後です。一方でアメリカは公的な助成金は多くありませんが、民間からの文化への寄付が多く、寄付税制も整備されていて、また何より世界規模の強い市場を持っています。

 じゃあ、日本はどっちかっていうと、どっちでもないんですね。かつて小津安二郎や黒澤明とかが映画作っていたころは、撮影スタジオが機能していましたね。監督も俳優もみんなそこの社員、専属契約でスタジオが主導で映画を作っていて、ただ1960年代以降に一気にその状況が、テレビの普及や娯楽の多様化とか色んな理由で崩れていって、大多数の映画スタッフも俳優も実質フリーランスになっていった。それまでのスタジオ型が崩れていく中で、フリーランスのプロデューサーも増えていった。それにも関わらず業態の変化に合わせた十分な制度設計を行うことができなかったんです。日本映画の撮影所システムは世界屈指の映画産業であっただけに、それが崩れていったあとも、帝国の亡霊のように業界にとりついて変化を遅らせてしまった。なので、ヨーロッパのように個々のフリーランスやフリーのプロデューサーを支援するような制度が作れた訳じゃないし、映画を産業としてだけではなく、文化としても捉えて多様性を守るために助成制度を整備していくこともできませんでした。

 今の日本映画界は仕組みだけを見れば、公的支援が少なく非常に市場原理主義的であり、つまりアメリカ型であるとも言えますが、その点においても、日本は特殊な事情を抱えています。つまり、市場原理主義的ではあるものの、決して公正な自由競争ではありません。
日本映画の興行収入の約1,000億円の内の80%を東宝さん・東映さん・松竹さんの3社が占めているという状況があります。これ、アメリカでもかつて80年前に同じ状況で、ハリウッドの収益の8割を当時の大手スタジオ5社が独占していた。結果、アメリカでは独占禁止法のメスが入りました。そこで何が起きたかというと、大手映画会社が映画館チェーンを所有し、経営することが禁止されたんです。日本の状況は皆さんご存知の通りですが、はたして健全な市場を守るための十分な努力がなされているのかということは私たちが真剣に考えないといけないことだと思います。

 そもそも、日本の実写映画は日本語であるという時点で、アメリカ映画のような規模での世界市場を獲得することは困難である、と考えた方いいでしょう。私たちはフランス映画や韓国映画がそうであるように、マイノリティなんです。だからこそ、グローバリズムの中でマイノリティがいかにして生き残るか、それに見合った制度設計を行わなければいかないわけですが、日本にはそれが不足している。なので、狭い市場の中で一部の独占的な大手映画会社が優位に立つことになる。日本だとコンスタントに、季節の風物詩のように、フリーランスのプロデューサーが詐欺で逮捕されるっていう状況がありまして(笑)。彼らに明確な悪意があったかどうかは分かりませんが、日本でフリーランスのプロデューサーとして映画を作ることは、それだけ経済的に厳しいっていう前提を、まず理解しないといけないかなと思っています。

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映画学校では教えてくれないお金の話

 なぜこんな話を最初にさせてもらったかというと、やっぱりこういった状況を映画に携わる人は。知っておくべきだと思うんですね。というのも、若い監督さんたちに対して多少説教臭いような言い方になったら申し訳ないのですが、いかにして自分の撮りたい映画を継続して作っていけるかってことを、美学だけではなく環境の面においても意識して欲しいんです。これはある意味映画に限らず、美術でも音楽でも小説でも大体全部同じことかもしれないんだけど、映画の場合はそれらのジャンルよりも、より強くそれを意識しなくちゃいけない。なぜならお金がかかるからなんですね。

 長編映画を1本作ろうとして、スタッフ・キャストにまともなギャラを払って、一応劇映画の体裁で映画を作ろうとしたら、数千万円から数億円っていうのは普通にかかります。じゃあそう言った中でどうやってお金を集めるのか、っていうことを真剣に考えて欲しいなと思っています。

 撮影現場でどうやったら俳優にいい演技をしてもらえるかっていうことを考えるのと同じぐらい、制作予算を1,000万円多く集めるっていうのは大事なことで、スタッフやキャストにきちっとしたギャラを払って映画を作ろうとすると、最低でも1日300万円ぐらいかかるという風にいわれています。つまり1,000万円増やせると撮影日数は単純計算で3日間増えることになるんですね。つまり、それだけ俳優に対して長くきちっと演出をつけられるようになる。やっぱりこの現実をきちっと理解する必要があると思っています。例えば20代のうちや、学生のうちは、手弁当で友人もみんな手伝ってくれて、楽しく映画作れて、それでいかもしれないんですけど、大体それは続かなくなります。みんな手弁当でずっとやっていくわけにはいかないし、結婚したり子どもが生まれたりしたら、ボランティアでの仕事は中々できないですから。なので、きちんとどうやったら持続して自分が作りたい映画を作っていくために、企画書を書いたり、映画祭に出品したり、プロデューサーを見つけたり、ときには自分でプロデューサーも兼任したりしながら、お金を集めて作っていくかっていうことは、本当に個々の作家が真剣に考えていかないといけないことだと思っています。

 何でこんな辛気臭いことをわざわざいうのかっていうと、結局これは日本の映画教育の大きな問題点で、映画学校でそういったことが教えられていないところがあるんですね。自分も映画美学校っていうところに19歳の時から3年間ぐらい通っていましたけど、そういったことは一切教わってはいません。多分ですが、これは日本映画大学でも、多摩美でも、きちんとは教えていないと思います。どうやって映画を作っていくか、助成金の取り方とか、海外だったら海外の助成金を取ってくればいいかとか、何で今あえて、まるで脅かすようなトーンで話すかっていうと、やっぱり海外の教育は違うからなんですね。

 映画祭という形で海外に作品を持って行って、自分と同世代や下の世代の監督と話していると、いい映画を作る、脚本を考えて作るのと同じぐらい、やっぱり資金集めに対して、時間と手間暇をかけてるんですね。2年かけて3年かけて、自分の撮りたい映画を作るためにお金を集めて、最低限の人件費を払って、それでやっと低予算で映画を作っているという状況がある。

 例えば、『よこがお』という作品で台北国際映画祭に呼んでもらって映画を上映してきたんですけど、その時のアテンドについてくれたのが、多分二十歳ぐらいの女性の方でした。彼女は、長編映画の1本目を今準備中で、短編映画を何篇か作ってはいるものの、プロの現場へは、勉強のためスタッフとして行っている、台北の国立映画大学の学生さんだったんですね。すごく日本映画が好きで、少し日本語でも話せるってことでアテンドについてくれて、色々と台湾のこととか案内とかしてもらいました。

 自分は各国の映画の置かれた状況を調べるっていうのが趣味なんですが、ここぞとばかりに、台湾の助成金の制度どうなってんの?とか、労働時間、撮影時間って何時間ぐらいやってんの?とか色々聞こうと思ったんだけど、考えてみたら彼女は、まだ学生なんだ、知ってることにも限界あるかなと思ったんです。もし日本の映画学校の学生さんに同じ質問しても多分ほとんど分からないと思う質問をしたんですよね。すると、彼女は全部すらすらと答えてくれました。

 例えば自分が今後長編映画を作るとなったら、助成金はこういうところから集める、台北府からも助成金を貰えるんだけど、制作予算全体の49%までしか認められてないから、残りは映画祭とか色んなところからお金を集める。こういうところから助成金をもらったり、出資をしてもらったりっていうことで、だいたいこのぐらいの予算に膨らまして、だいたい撮影は、8週間ぐらいで行う。まあわたしからしたら8週間って夢のような数字なんですけど、最低でも8週間ぐらいだっていう話で。ただ、現場では色々ハラスメントの問題もあるし事故もあるので、必ず撮影保険に入りますっていう、それは学生映画でもちゃんと入るように学校から指導されてますと。つまりそういったことを全部学校で彼女らは教わっているんですね。二十歳ぐらいの映画監督、まだこれからっていう学生の映画監督が自分が作りたい映画を作るために、どうやったら資金を集められるか、助成金は何があるのか、どうやって映画を継続して作っていけるかということを、やっぱりちゃんと考えてやっているわけです。

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映画を継続して作るには

 これがいわゆるアマチュアという言い方が正しいかは分かりませんが、趣味で好きな映画を作っていきたいっていうんだったら別にそんなこと考える必要はないと思います。それは趣味で絵を描いたり、趣味で音楽をやったりして人生を豊かにしていくっていう、それはそれでとても大事なアクションだと思うので。ただ作家として、仕事として継続して映画を作ってきたいとなったら、こういうことを考えないといけないと思っています。

 それはなぜなら、それをちゃんと考えないで続けていると、一緒に働く人たちに、非常に大きな労働問題を抱えさせてしまうことになる。手弁当でみんな頑張って映画作ればいいじゃん、っていうのはある種、非常に日本的ですよね。ただ結局手弁当でギャラも貰わないで映画に関われる人っていうのは、恵まれた人なんですね。それだけその期間働かなくて、無収入でも映画に関われる人は恵まれてる。やっぱり映画を作っていると、多くの人が30代になってくるとボロボロやめていきます。本当に。監督もスタッフも。みんな結婚を取るか、映画を取るか、または、子供を取るか、映画を取るか、っていう二者択一を迫られて辞めていくわけですね。そういった中で辞めないで済む人の背景にあるのは、必ずしも努力や才能だけじゃないと思っています。今自分もこうやって、コンスタントに映画を作らせてもらっていますけど、これも自分の努力と才能の成果だけではないと思っていて、やっぱりどこか恵まれていたと自覚しています。

 例えば、東京出身というだけで非常に有利ですね。地方から東京に来て家賃払いながら非常に不安定な収入の映画に関わるっていうのは。とても大変です。地方出身者でも実家が裕福だったりしても有利ですね。あるいは別で安定した収入があるとか、パートナーに支えてもらえるとか、あとこれ自分なんかそうなんですけど、貧乏耐性が異様に強いっていう。けっこうこの才能で生き残っている映画人って多いと思うんですけど、普通自分みたいに30代半ばの年齢になって、家に帰って電気やガスが止まっていたりしたら、もういい大人なんだしちゃんと働かなきゃ、って思うはずなんですけど、そうはならないお気楽な性格の人っていうのもね、世の中には結構いるんです。ちゃんとした社会人の方には、信じられないかもしれないですけど。

 そういった映画の才能とは関係ないところで実は勝負が決まってしまっている不平等、っていうものをこれからもずっと見過ごしてしまっていいのかっていうことですね。自分は今映画に関われているし、周りには仲間が居るし、楽しいからそれでいいじゃん、っていうことじゃないと思うんですよね。それはやっぱり生存者バイアスでたまたま生き残っているだけで、そうじゃなくてもちゃんと平等に生き残れるような環境を作る、それをしないと結局は多様性がなくなって、日本映画の全体の勢いみたいなのもしぼんでいくんだろうなって思います。韓国でもフランスでもちゃんとそういった点も考えて、完全な平等ではないにしろ、多くの人が持続的に映画に関われるような制度設計を努力して模索し実践している。やっぱりそこでの地力の差みたいなものは、日本・韓国・フランスの映画業界を比べると差は出ているのかなと思っています。

 だから本当に、日本だといかにして低予算で映画をつくるかっていうところばかりにエネルギーを削がれ過ぎてしまったなっていう反省は、これは20代のときに低予算で映画を作ってきてしまった自分も、反省をこめて非常に思う所なんですね。本当にどんどん底が抜けて制作予算が下がっていって、90年代には2,000万円で長編映画なんか作れるかみたいなことをスタッフは愚痴っていたのが、あっという間に底が抜けて数百万円で映画を作ることが当たり前になり、2010年代にはとうとう50万円で映画を作るっていう恐ろしいシリーズも現れたりして、更にはワークショップでスタッフ俳優からお金を集めて映画を作るってところまで進んでいった。あるいは、ある程度キャリアのある監督が、大学の先生として学生をスタッフに使ってフィルモグラフィーを重ねる、結果としてそこから面白い映画が生まれるかもしれないし、そこにある教育的価値をすべて否定するわけではありませんが、問題の本質はそこではなく、やっぱりそういった状況が続いていく限り、日本映画の人材の多様性は失われていきますし、これでいいのか一度立ち止まって考えてなくちゃいけないところかなと思っています。

 こういった貧乏でも頑張ろうみたいな形は、作り手だけではなく、ひいてはお客さんにとっても、それはマイナスだと思うんですよね。結局、良い映画か悪い映画か、好きな映画か嫌いな映画かっていうのは人それぞれですよね。自分がこれ面白いって思う映画も嫌いだっていう人もいるし、自分が嫌いだって思う映画も面白いじゃんっていう人も全然いるっていうのは当たり前で。つまり、大切なのは「良い」映画がたくさん映画館で上映されることよりも、「色んな」映画が見られること、多様な映画が作られ見られることの方が、結果として、映画ファンへの最大のサービスにつながると思うんですね。

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映画館の公共性

 じゃあ日本がそうなっているかっていうと、やっぱりなっていなくて。例えば、映画館。こんなにミニシアター文化があるのはやっぱり日本はすごい、って外国の人から驚かれたりするんですけど、複雑な気持ちになるんですね。自分も、自分の映画を色んな地方の、都市圏以外の映画館で上映させてもらって、トークに呼んでもらったりするんですけど、やっぱり本当にみんな映画が好きな人たちが人生を犠牲にする覚悟で映画館を経営しているって場合がすごく多くて、それでいいの?って思いはありますよね。

 自分の映画『淵に立つ』なんかフランスで上映させてもらったとき、フランスの方が人口少ないのに、パリだけではなく地方の映画館でもそれなりの館数で上映されて、日本よりもお客さん入っているんです。まぁそれはそれでどうなのだろうって思うんですけど、それはフランスで自分が大人気であるなんてことではなくて、きちんと助成金が劇場に落ちているからプログラムが多様だし、それによって長い時間をかけて「色んな」映画を見る観客が劇場という場に育っているということなんですね。つまり、公共の映画館ってのがあるんです。正確に言うと「公共性が高い」映画館ですね。そこでは、映画館の担う公共性に見合うだけの公的な支援が降りている。

 それがなんで大事かっていうと、公的支援によって映画館が支えられることによって、どこの地域で生まれてもきちんと最先端の映画に触れることができるようになる。つまり、文化芸術へのアクセスへの不平等が軽減されるんですね。いわゆる今日本のシネコンでかかるようなブロックバスターの映画とか、自分も例えばマーベルとかディズニーとか大好きなんですけど、そういった映画だけじゃなくて、もうちょっとマニアックな映画もどこに住んでいてもきちんとスクリーンで見られるような環境を準備しなくちゃいけない。ガスや電気や郵便とかは、どこの地域にいてもちゃんと整備しなくちゃいけない、ライフラインに関わるインフラだからっていう意識がありますよね。欧州では文化芸術もそういう意識で捉えられていますが、日本は残念ながらそうではありません。その意識は国や行政から与えらえるものではなく、文化に携わる人間が、きちんと社会に対して発信し醸成していかないといけないことだと思っています。

 日本だと憲法で“最低限の文化的な生活”っていうのが保障されていて、ここで“文化的”と入っているのがすごく重要で、つまり、文化とは、恵まれた人たちだけが優先して享受できる嗜好品じゃないんですよね。どの地域で生まれても多種多様な映画が見れる、絵画が見れる。それがきちんと公教育で保証されていたり、多くの地域の公立の劇場で、演劇でも映画でも見られるようなシアターがある、生活保護を受けていたらむしろ安く観劇ができるっていう状況が、ヨーロッパでは当たり前のように整備されている。でも、残念ながら、日本ではそれがないので、色々な格差が非常に広がってしまっている。東京に住んでいると、本当にいつでも色んな映画を見ることができる、そんな都市って世界中探しても、他にはないと思うんですね。

 でもやっぱりそれは錯覚で、一歩東京の外に出ると、どんどん映画館が減っているし、映画はみずらくなっている。これは例えば少ない予算なりに文化庁から税金で支援を受けている映画でも、上映される場所はごく限られていて、そもそも、その作品にアクセスする選択肢すら奪われている納税者が多くいる。みんなの税金で支えられて作られた映画であるのにも関わらず、東京以外の都市ではそれを享受できない、観ることができないっていうのは、大問題ですよね。

 本当は国民の誰もが、映画に気軽にアクセスできる権利を持つ環境、見るか見ないかは人それぞれの勝手ですが、そういう選択できる環境を作らなくちゃいけないけど、現状日本はそこから程遠い環境にあります。それは作り手の責任でもあり、私は作り手として喋っていますけど、作り手であると同時に自分も観客のひとりでもあり、作り手も観客も一緒に考えていかないといけない問題だと思っています。

 例えば、韓国の映画への助成制度は、日本よりはるかにきめ細かくきちんと作られていて、文化予算もとても多いし、しかも制度設計がちゃんとなされている。それは映画人側がきちんと訴えて作った制度であるっていうのがとても重要で。一方で面白いのが、例えば韓国では20年ぐらい前に「ワラナゴ運動」っていうのがあったんですね。「ワラナゴ」って韓国語じゃなくて、ある4本の韓国映画のタイトルの頭文字を並べた単語なんですね。評判は良かったんだけど、1週間か2週間で打ち切られてしまった4本の映画があって。その4作品の上映運動が観客側から巻き起こったんですね。それが「ワラナゴ運動」と呼ばれていて、アート映画専門の映画館が助成金で作られていくきっかけの一つとなる、アクティブな活動になっていったわけです。作り手も観客も制度や状況に対して不満があれば、それを声に出して社会に可視化していくことで、行政や政府を動かしていった。そういったことを、今は私たちが考えていかなきゃいけない、と思っています。

小林達夫)深田晃司監督、ありがとうございました。今後、映画監督に限らず映画製作に関わる方々や、映画祭関係の方、批評分野の方など、お呼びしてこの「現代映画の動向」シリーズを続けていければと思っております。どうぞよろしくお願いします。

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深田晃司(映画監督)
1980年生まれ。99年映画美学校に入学。長・短編3本を自主制作。06年テンペラ画アニメーション『ざくろ屋敷』でパリ第3回KINOTAYO映画祭新人賞受賞。08年映画『東京人間喜劇』でローマ国際映画祭正式招待、大阪シネドライブ大賞受賞。10年『歓待』が東京国際映画祭日本映画「ある視点」作品賞、プチョン国際映画祭最優秀アジア映画賞受賞。13年『ほとりの朔子』でナント三大陸映画祭グランプリ&若い審査員賞をダブル受賞。15年『さようなら』でマドリッド国際映画祭ディアス・デ・シネ最優秀作品賞受賞、16年『淵に立つ』で第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査委員賞受賞。最新作『よこがお』はロカルノ国際映画祭コンペティション部門正式招待。著書に小説『淵に立つ』『海を駆ける』『よこがお』がある。特定非営利活動法人独立映画鍋共同代表。2020年連続ドラマとして製作した『本気のしるし』の劇場版が第73回カンヌ国際映画祭オフィシャルセレクションに選出。​

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