漱石山房に思う
新宿区早稲田南町にある、漱石終焉の地に建つ漱石山房記念館。平成29年に漱石生誕150年を記念して建てられた。記念館の紹介ビデオに漱石没後、高弟の小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平の3人が漱石を偲んで語らうシーンがある。
「漱石先生と同時代に生きた我々は幸せだったな」
「そればかりか、先生に親しく教えを乞い、叱られたり、甘えたり」
「先生から師恩を受けた我々は果報者だったな」
漱石ファンの多くは漱石の遺した数々の名作に惹かれるのはもちろん、若い頃の子規との交流や漱石を慕って漱石山房に集う弟子達との心温まる師弟愛にも、漱石の人間的魅力を感じるのではないだろうか。
実は私も小学校の高学年の頃から、漱石の人間的魅力に強く憧れを抱くようになった一人である。小学生にしてはおませなことに、自分の勉強机の前に明治天皇大喪の礼に際して撮影したとされる漱石の肖像写真を写真立てに入れて毎日眺めていた。ペンネームを「夏目零仙」(落ちぶれた山人)と決めて、漱石の弟子を気取っていたのもその頃のことだ。毎年12月9日の漱石の命日には「どうして漱石と同時代に生まれなかったのだろう」などと、冒頭に紹介した漱石の高弟達を羨むようなことを日記に書き付けたりしていた。
昭和41年に朝日新聞社が主催して東京と大阪の松坂屋で開催した「生誕百年記念 夏目漱石展」のカタログを今も大切に持っている。大阪の会期は4月9日~17日で、おそらく中学入学を控えた春休みか、入学後、最初の休日に私一人で行ったのだろう。中学校に入るか入らない年頃で漱石の展示会に背伸びして一人で行ったのは今も信じられない。余程、漱石にかぶれていたのだろう。
小学生の分際でどうしてあれほど強く漱石に憧れを抱くようになったのだろう。今、振り返って思い至ることは、その時期がちょうど漱石生誕100年に当たり、生誕100年を記念するテレビドラマや展示会などが数多く企画されたことが背景にあったように思う。
漱石作品との最初の出会いは「坊ちゃん」だった。痛快な青春活劇が私を小説の面白さの虜にさせた。「坊ちゃん」を好きになったのにはもう一つ大きな理由がある。私が「坊ちゃん」を初めて読み終えた頃、昭和40年2月から始まった市川染五郎(現在の松本白鴎)主演のテレビドラマ「坊ちゃん」が大いに人気を博した。私はまるで自分が坊ちゃんになったつもりで、毎週楽しみにして観た。脇を固める配役は赤シャツ/北村和夫、山嵐/加藤武、野太鼓/三木のり平、お清/浦辺粂子など。昭和のテレビドラマ全盛時代にこの上ない豪華キャストだった。
漱石生誕100年を記念してか、「坊ちゃん」に続いて漱石作品の「虞美人草」や弟子達との交流を伝える「漱石山房」などが相次いでテレビドラマ化された。「虞美人草」が放映された時には小説を読み進めながら、毎週テレビにかじりついて観たことを覚えている。
漱石の人物像や師事した人達との交流を改めて振り返るつもりで、この夏休みにこれまで手付かずだった江藤淳の評論「漱石とその時代」(新潮選書)を一部から五部まで一気に読んだ。江藤淳の名を世に知らしめた漱石論とあって流石に読み応えがあった。何よりも漱石が遺した膨大な書簡類を丹念に読み解き、時々の漱石の心理を丁寧に写し取っていることには感心した。
江藤淳は一部と二部を昭和45年に発行後、文芸評論の先達、中村光夫の助言を得て、三部以降は20年余の時を経て平成5年~平成11年にかけて発行している。あとがきで紹介されているが、中村から「あとを急いで書かないほうがいい。30代の人には50になった人間に見えている景色が、まだ何も見えないのだからね。」と懇ろに忠告されたようだ。残念ながら平成11年、本人の自殺により漱石晩年の作品「道草」について触れたところで五部は未完に終わっている。
同書で最も印象付けられたことは、漱石が朝日新聞社入社後、「小説記者」として、言い換えれば「社員小説家」として、胃潰瘍を抱えて文字通り命を削りながら休むことなく小説を書き続けたことである。同書では漱石山房に集う大勢の弟子達に囲まれて悠然と過ごす文豪漱石のイメージとは異なり、世事に苦悩する人間漱石の赤裸々な姿が思い浮かぶ。養父との養育費問題から、常にお金の呪縛から逃れられず、大金を得ても常にお金に不安を感じる人生だったようにも見える。それが更に仕事ー小説を書くことに向かわせたのだろう。
朝日新聞社の「社員小説家」として時には文芸欄の編集実務の一部まで担った。文芸欄に穴を空けないように次から次へ新聞連載の小説を手配し、間に合わなければ自ら埋め草を書くことまでした。しかし、命を削りながら執筆活動を続ける多忙な毎日を過ごしながらも、自らの職責で前途有望な弟子達に原稿執筆の機会を与えるなど、弟子達への思いに陰りはなかった。
電話が嫌いな漱石は最晩年まで自宅に電話を引かなかったそうだ。その分筆まめで、弟子達との遣り取りなど膨大な書簡類が残っており、後世の漱石研究の貴重な資料となっている。自殺未遂事件を起こした森田草平に再起の機会を与えたり、中勘助の作家デビューを後押ししたり、ある時は弟子達の金策に応じたり。単なる師弟の関係を超えた慈愛に満ちた触れ合いが書簡に遺された文面からも読み取れる。漱石没後、漱石に師事した数多くの人達が、漱石の遺徳を偲んで追想録を発行している。漱石の温情と人望に惹かれてのことだろう。
今から30年ほど前、銀行に勤務していた頃、ロンドン出張中の休日午後にたまたま一人になる機会があり、思い切ってクラハムコモンにある漱石記念館を訪ねた。地下鉄のクラハムコモン駅を降りて公園を抜けてしばらく歩いて行くと閑静な低層階のマンションが並ぶ住宅街に行き着いた。その一角にある漱石の下宿跡に向かい合うマンション一室に記念館はあった。芳名録には記念館を訪ねた数多くの日本人の署名が記されていた。
絶頂期にあったビクトリア女王の時代に辺境の日本から留学した漱石が、この地で一人「西洋」と向き合っていたと思うと実に感慨深かった。
漱石と同時代に生きる歓びを味わうことは叶わぬ夢だったが、今なお漱石を慕う気持ちに尽きることはない。
※ 写真は漱石山房記念館に再現された夏目漱石の書斎の一部です。