歩く歓びを知る
足腰を鍛えるためスマホの歩数計で6千歩=5km歩くことを日課にしている。毎日歩けば塵も積もればである。一昨年は2073千歩=1661km、去年は2333千歩=1873km、2年累計で4407千歩=3534kmを既に踏破したことになるから驚きだ。
日本全土を測量して日本地図を作製した伊能忠敬は55歳から72歳まで17年かけ、地球の円周40075kmを超える距離を歩いたという。仮に地球一周歩いたとすると、この2年間で歩いた距離を差し引き2年間の平均1767kmで割ると、もう20年ほど今のペースで歩き続ければ追い付ける計算になる。こんな計算をしてみたのも、自分の足で二足歩行できる有難さを身に沁みて感じる事態に遭遇したからだ。
思い起こせば6年前の梅雨の頃、右足の坐骨神経に沿って妙に痺れを感じることがあった。いずれ治まるものと気にも留めていなかったが、次第に右足に体重をかけると頭まで鈍痛を感じるようになった。これまでも似たような症状が出ることはあったが、数回、気功に通うだけで不思議と痛みは治まった。今回も気功か鍼灸で何とかなると思って高をくくっていたがどうにもならない。名医と噂される先生を頼ってあちらこちら通ってみたが、痛みが増すばかりで一向に良くならない。脊柱管狭窄症の手術は脊椎や脊髄に近い部分なのでリスクも高く、車椅子生活になった人もいると忠告してくれる人もいて、何とか手術をせずに痛みを緩和する方法はないものか模索する日々が続いた。
7月、8月と無為に時間ばかりが過ぎて行く。毎朝の通勤には特に難渋した。何しろ一歩歩く度に右足の坐骨神経に激痛が走る。自宅から最寄り駅まで10分程の距離が歩けず、自転車で行くことにした。最寄駅からは東武東上線に乗り入れている有楽町線を利用して、有楽町駅で下車して汐留にある会社までタクシーで通う日が続いた。電車の中では極力右足に体重がかからないよう壁面に寄りかかって立つようにしたが、困ったのは駅の階段だ。左足一本で身体を支えながら一段ずつ階段を上り下りした。気功や鍼灸では空転するばかりで全く効果はなかった。
ちょうどその頃、私は共同通信社で50社近い加盟地方紙を束ねて共同事業を推進する責任者の立場にあった。その年は10月下旬に宮崎で開催する全国アマチュアゴルフ大会に合わせて、加盟地方紙の事業部門の幹部が一堂に会する会議が予定されており、私が欠席するわけには行かない。それまでに宮崎まで往復できる身体に戻すためにはどうすればいいか。散々悩んだ末にやむを得ず手術することを決断した。宮崎大会までわずか1カ月余りしか猶予はなかった。
病院の事情で以前何回か診察してくれていた先生が転勤になり、急遽引き継いでくれたのがF先生だ。まだお若いが、患者目線の穏やかな先生だった。まずは右足の痛みの原因である坐骨神経を圧迫している箇所を特定するため、神経根ブロック注射の洗礼を受けた。原因箇所を突き止めるために注射を打つのでまさに激痛が走る。一回、二回と繰り返したがはっきりせず、三回目でようやく的中した、と同時に呻き声が漏れた。
10月下旬に宮崎まで往復できること。F先生にはあくまでこれを前提に手術日を設定して頂けるように頼み込み、何とか手術日を9月下旬にねじ込んでもらった。手術の日の朝は浴衣だけ羽織って手術台に乗せられ手術室に運ばれた。鼻から麻酔薬を吸引して一瞬で意識を失う。眠りから覚めたのは2時間半後。全身麻酔なので何が起こったのかわからず、あっという間に時間が過ぎ去った。手術用顕微鏡で視認しつつ腰椎の後方部分の骨を一部削除して脊柱管内に入り、痛みの原因の硬膜管を圧迫する周囲の黄色靱帯を慎重に見極め丁寧に取り除いて、手術は無事に終了した。
自分の部屋まで手術台に乗ったまま戻り、ベッドに移ると恐る恐る右足の感触を確認した。なんとまだ痛みが残っているではないか。手術しても痛みが取れない?不安な気持ちが一気に襲って来た。F先生が回診に来た時にまだ痛みが残っていると不満を漏らすと、長期間痛みがあった神経には痛みの記憶が残っていてすぐには解消しない、と説明を受けた。先生の言葉を信じてリハビリに励むことにした。
リハビリは腰回りの屈伸運動など筋肉を解きほぐす体操が中心だった。一方で少しずつ歩行距離を伸ばして行くことが日課になった。まずは病院内の廊下をぐるぐる2周、3周と定められた目標のままに歩き始めた。
手術前は杖で支えながら身をよじらせて歩いていた自分が、今は腰を伸ばして速足で歩ける。術後10日ほど経過してようやく外出許可が出た。病院周辺の慶応大学、増上寺、イタリア大使館・・どんなに歩き続けても痛みを感じない。自分の足でどこまでも自由に歩いて行ける。秋空の下、思う存分解放感に充たされて歩く歓びが心に沁みた。
F先生はとにかく患者にわかりやすく丁寧に説明して頂けるので好感を持った。朝夕一回ずつ回診に来て、一言二言、症状を聞かれる。数分間受け答えするだけなのだが、患者を思い遣る人柄の良さを感じさせる方だった。お世話頂いている看護士の話では、F先生は朝は一番早く来て夜は一番遅くまで残って仕事に取組んでいるという。毎日何件かの手術を担当して、術後の患者の経過を見守り、一方で学会の活動などにも熱心に取り組んでおられるご様子だ。先生のお人柄に触れ、このままもうしばらく入院していたい気分になったがそうも行かず、宮崎大会に間に合うように退院して、無事にゴルフ大会にも会議にも出席できた。
術後の定期検診の折、固辞される先生にご無理をお願いして一度食事にお付合い頂いたことがある。その時に伺った話ではジョンズ・ホプキンス大学に留学経験があり、国の脊椎脊髄の難病治療チームのリーダーを務める俊秀の一人であることがわかった。どうしてこんなに優秀な先生がこれ程にも丁寧に謙虚に患者に向き合って接することができるのだろう。先生のお人柄にすっかり魅了されてしまった。
「それなりの大学を出て医者になれば、お金儲けが目的ならそれも可能でしょう。しかし私は一人でも多くの方のためにお役に立ちたいと思って医者になったので、余計なことには関心がない」ときっぱりと言い切られたのが心に残る。医療の現場をF先生のような志の高い若い医師が支えてくれていると思うとうれしくなった。
先生のご依頼で、難病である後縦靭帯骨化症のモニターを10年間を目途にお引受けすることとした。実はお人柄のいい先生に今後も定期的にお目にかかれると思うと私の方こそうれしかった。
痛みを伴う大病を経て歩く歓びを知り、こうしてF先生という素晴らしい医師と知己を得て幸運に思う日々である。
※写真は狭山湖を水源とする柳瀬川と新河岸川が合流するいろは橋付近。
春になると桜が美しい散歩道。