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オロンコ岩から

 青春は旅そのもののように思う。そして青春がいつか終わりを迎えるように、青春の旅も終わりを迎える日がやって来る。私は流氷の街ウトロで聞いた哀しい物語と共に青春の旅を終えようとしていた。

 もう半世紀近くも昔のことになる。三月初めに京都に春の訪れを告げる名残雪が降り、吉田山周辺の北白川や銀閣寺道などでは、卒業を控えた学生達が軽トラックを借りてそわそわと引っ越し準備を始めていた。
 私は「これで青春ともおさらばか」と思うと、自分が宝物のように大切にして来た青春の喪失感にどうにも居た堪れない気分でいた。就職を決めてはいたものの、役員面接で自ら懸命に生きた青春をわずか5分で説明して評価を受けることに強い反発と虚しさを感じた。世俗にまみれる嫌悪感のようなものがあり、思い悩んだ末、青春の禊にしようと知床半島ウトロへ流氷の旅に出た。そこで思いがけずウトロの街で数年前に起きた哀しい物語に遭遇することとなった。

 ウトロの街は三月も半ばを過ぎたというのに春の気配すらない。夏場は観光客で賑わう知床半島北岸に位置するウトロの街は、流氷に海をずっと閉ざされたまま静かな冬の眠りから覚めようとしない。ウトロ港の突堤まで凍てつく道を歩いて行くと、オホーツク海から押し寄せる流氷の圧力であちらこちらで流氷が氷山のように積み上がっている。日が射すと光の反射で流氷がペパーミント色に美しく輝く。
 ウトロでは民宿「灯の宿」でお世話になった。この時期は宿泊客もわずかで一人旅の気楽さもあって宿の番頭さんと飲みながら夜中まで話し込んだ。話の途中から数年前に起きた哀しい物語を息をひそめて聞いた。

 東京の大学を出てから3年間会社勤めをしていた仁志は、家業を継ぐつもりで秋に両親の下に戻ったばかりだった。新年に幼馴染の明子との結婚を控えて充実した毎日を過ごしていた。
 ウトロの海岸には海に突き出たオロンコ岩という小高い岩山が鎮座している。オロンコ岩の陸側に岩を刻んで作った石段があり、20mはある頂上まで登れるようになっている。仁志と明子は幼い頃からよく二人で頂上に登ったものだった。晴れた日には遠く知床連山まで見渡すことができる。夏の日の入り時はオホーツクの空全体がオレンジ色に輝き、夕映えがオロンコ岩を光の砦と化してしまう。二人が初めて唇を交わしたのも、そんな幻想的な夕映えに包まれた日だった。

 その年は冬の知床には珍しい穏やかな日が続いた。観光と漁業の街ウトロも冬場は客足が途絶える。学生時代に山岳部で北アルプスや大雪山系の山々を何度も登ったことがある仁志は、地元の山仲間と結婚を控えて最後の冬山登山に行くことにした。目標とした羅臼岳には夏と冬、それぞれ二度ずつ登っている。結婚を控えた新年にご来光を仰ぐのもいいだろう。両親や明子の心配をよそに仁志は冬山登山の準備に余念がなかった。
 暮れも押し迫った大晦日に仁志は山仲間2人と一路、羅臼岳の頂上を目指した。空は晴れ渡ってどこまでも青く、オロンコ岩からは遠く知床の山々が白銀に光り輝いて見えた。
 元旦は穏やかな静かな朝だった。成人の日に祝言を交わす予定の灯の宿には午後から明子が新年の挨拶に出向いて和やかな正月を迎えた。今頃、仁志も羅臼岳の頂上で新年を迎えていることだろう。
 しかし午後から天候は急変した。山の天気は一旦荒れだすとわからない。極寒の知床連山を猛吹雪が襲った。下山予定の2日になっても仁志等3人は戻って来なかった。陸と空から救援隊が組成されたが、3日、4日と消息が絶えたまま過ぎて行く。両親と明子に心配が募った。
 5日を迎えてようやく猛吹雪が収まり、晴れ間の見える朝を迎えた。救援のヘリコプターを2機に増やして必死の捜索が続けられた。昼過ぎに羅臼岳山頂の肩付近から手を振る人影を発見した。雪に埋もれたテントも見える。仁志は手足をひどい凍傷にやられて、自力では歩けない状態に陥っていた。まだ自力で歩ける仲間2人はまず仁志を救うため、ヘリコプターから下ろされたロープを仁志の身体に巻き付け引き上げてもらおうとした。しかし仁志の衣類がコチコチに凍結していて何度やってもうまく行かない。何度も繰り返すうちに仁志は已む無く自分が残ることを申し出て、2人にまずヘリコプターに乗り込むように強く促した。2人は渋々了解して仁志をテントに残してヘリコプターに引き上げられた。仁志はテントの中で救出される2人の影を寂しく追った。
 ウトロの街に引き返し遭難した2人を降ろして再び飛び立ったヘリコプターは、今までの天候が嘘のような猛吹雪に見舞われた。それでも操縦士は生存が確認されている1人を残したままであり、自らの危険も省みず飛行を続けた。しかし頂上付近では吹雪が一層激しくなり、視界を遮られてその日は已む無く引き返さらざるを得なかった。灯の宿では救出された2人から仁志の安否を確かめた。凍傷に侵され歩行は困難だが意識ははっきりしていて食料も後一週間は十分残っていると。

 しかし冬場の知床の天候は厳しく、2人を救出した後、ヘリコプターが飛び立てる日は一日も来ない。猛吹雪のため陸からの救援活動も3日間ストップしたままだった。2人が救出されてから5日後、家族からの強い要請で自衛隊のヘリコプターが羅臼岳山頂付近まで救援活動に向かうことになった。しかし吹雪の合間を縫って頂上付近に迫ってみると雪崩の跡がはっきり見えて来た。冬の羅臼岳は仁志をテントごとそっくり飲み込んでしまった。 
 紅白のリボンの結ばれた新しい家具の並ぶ部屋に一際哀れさが漂った。この冬が明けるまで捜索は困難だ。気丈夫な明子はそれでも悲しみにじっと耐え仁志の無事を祈った。母親は最愛の息子を失った悲しみと花嫁に対する申し訳なさから半ば気の触れた状態になってしまった。知床の冬は暗く長い。

 3月も下旬になると海明けの日が近付き、ウトロの街に流れ着いた流氷も一つ、また一つと岸を離れて、オホーツクの海へ帰って行く。
 仁志は10日ほど前に山頂からずっと下がった谷で発見された。息子の死を受け入れることができない母親は、仁志の遺体を受け取るとすぐに釧路の大学病院に運んだ。一瞬にして凍結した身体はショック療法で蘇ることがあるという学説を伝え聞いていたからである。発見当時の仁志の遺体は衣服が皮膚に食い込むくらいにコチコチに凍り付いていたという。残酷な解凍作業とも言えるショック療法を受けさせるため、母親は著名な大学病院を凍結した仁志の遺体を運んで訪ね歩き、狂ったように息子の再生を祈った。それがより一層、周囲の哀れさを誘った。
 幼馴染の明子は静かに仁志の死を迎えた。幼い頃から兄のように慕い続けて来た仁志。仁志の大学の夏休みに、二人で羅臼岳に登ったこともあった。仁志は好きな山で死んだのだ。流氷が一斉に岸を離れる海明けの朝、明子はオロンコ岩から身を投げた。

 ウトロを発つ日が来た。このまま青春の旅は終わりにしたくはない。今は流氷に青春の思いを封印して、オホーツクの海に託すこととしよう。
 オロンコ岩に登ってオホーツクの海を眺めると、流氷の群れが遠い彼方に流れていく。光が綾なす流氷の群れがひと際美しく輝いている。流氷がぶつかり合いキィキィときしむ音が風に乗り、流氷の泣く声のように聞こえた。

※ ウトロで聞いた哀しい物語は固有名詞をすべて仮名にしてあります。

                

 

 


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