大陸横断を夢見た日
写真は今も手元に残る、約半世紀前にロサンゼルス郊外の小さな旅行社が募集していたアメリカ大陸横断旅行のチラシだ。裏面には募集要項が記載されている。大学生協で学生向けの海外旅行を紹介していて、大学4回生の夏休みに迷った末にこのツアーに参加することにした。
3回生の夏休みに2ヵ月かけて英国や西ヨーロッパの国々を旅行したが、とにかく一度日本を脱出したい、という思いで一杯だった。4回生になり学生時代最後の掛け替えのない夏休みを如何に過ごすか。時間が自由になる青春の真っ只中でしか体験できない旅-「大陸を横断してみたい」。熱い思いがふつふつと湧き上がって来た。
多感な青春時代、若者が未知の海外への旅に憧れるのは世の常だが、私達の世代は、五木寛之の「青年は荒野をめざす」の影響が大きかったように思う。今の若者ならさしずめ沢木耕太郎の「深夜特急」に魅かれるのだろう。
横浜から船に乗ってナホトカまで行き、シベリア鉄道の支線でハバロフスクへ。ハバロフスクからシベリアの原野を疾走するシベリア鉄道に乗り、沈む夕陽を追ってさすらうー当時の若者の憧れのルートだった。映画「ドクトルジバゴ」の影響もあったかもしれない。冒頭に「迷った末」と書いたのはこのことで、最終的にアメリカ大陸の横断を選択したのだが、超大国アメリカの大きさと自然の驚異を自ら大陸を横断することで体感したいと思った。
日本を発ったのは1976年7月27日。アメリカではこの年バイセンテニアルー独立200周年を祝う年だった。ロサンゼルス空港に降り立つと空港ロビーのテレビで真っ先に目に飛び込んできたのはロッキード事件による田中角栄元首相逮捕のニュースだ。先行きの暗い世相を思って気が滅入った。
ロサンゼルス郊外の旅行社に着くと参加者が既に集まっていた。受付手続きを始めて驚いたことに私の希望とは異なり南回りコースに回されていた。
「ヨセミテ公園に行きたくて北回りコースを申し込んだはずですが」
旅行社の人は怪訝そうに私を見詰めた。
「いや、あなたはこの書類の通り南回りコースに申し込んでいる」
「それに北回りコースは二日前に出発済で、この夏はもう予定はない」
受付書類を見せて申し渡された。のっけからトラブルに巻き込まれてしまった。しかしここで言い争ったところで埒は明かず、飲み込む他なかった。
実はグランドキャニオンにもぜひ行きたかったので、グループ旅行に参加する前に早めにロサンゼルスに到着して、一人で一泊二日の旅程で飛行機でラスベガス経由でグランドキャニオンに入り、昨夜にロサンゼルスにとんぼ返りしたばかりだった。サウスリムのモーテルで一泊したが、朝早く起きて朝焼けを見学するツアーに参加した。初めて見るオレンジ色に輝くグランドキャニオンの壮観に息を呑んだ。一週間に二度グランドキャニオンを訪ねた経験は今や私の自慢話の一つになっている。
添乗員兼運転手のボブは小学校教師で年齢は40歳前後、見事な口髭を生やしていた。おそらく夏休み期間を利用したアルバイトなのだろう。車は運転席の後ろに座席が4列あるバンだった。参加者はイギリス、カナダ、オーストラリア、南アフリカ、イスラエル、日本の6か国からわずかに14名。各自の荷物やキャンプ用テントなどは車の上に載せた。
レッツゴーフォークス!ボブの出発を告げる声が響いた。ロサンゼルスからニューヨークまでメキシコとの国境沿いに走行距離にして5300kmを3週間で走破する。いよいよアメリカ大陸横断の旅が始まった。運転手のボブは陽気なリーダーだった。運転中はいつもラジオの音量を最大にして音楽を聴いた。その頃、Elton John & Kiki Dee の”Don't go breaking my heart” が全米のヒットチャートを独走していて、フーッ、フーッ、この最後のフレーズに来るといつもみんなで一緒にハモった。
旅の前半の山場はグランドキャニオンだった。数日前に行った時は飛行機で一気に行ったので、砂漠の難路を車で行くのとは全く印象が違った。ロサンゼルスからラスベガスを経てグランドキャニオンまで、スタインベッグが「怒りの葡萄」でマザーロードと呼んだ西部への道、ルート66(国道66号線))を逆に東に向かって真っ直ぐに疾走する。ロサンゼルスの郊外に出るとデスバレーを含む広大なモハーヴェ砂漠が待ち構えていた。途中フーバーダムや化石の森に立ち寄って進む。西部劇に出て来るような巨大な岩塊が屹立する景観など、大陸を実感するには十分過ぎるスケールだった。ロサンゼルスから人工都市ラスベガスを経てグランドキャニオン国立公園までは走行距離にしておよそ800kmほどの行程だった。
グランドキャニオンの起源は7000万年前に遡る。コロラド高原がコロラド川の浸食で削り出された大地溝帯で、現在のような峡谷になったのは200万年前とされる。断崖の平均の深さは1500m、最も深い地点で1800m、長さは446km、幅は6~29kmに及ぶ。とにかくそのスケールには圧倒されるが、断層のある岩場に厳かに沈む夕陽は美しく、悠久の歴史を感じさせた。
翌朝、有志でコロラド川が流れる谷底まで降りることになった。登山なら先に山に登るが、グランドキャニオンは逆にコロラド川が流れる谷底を目指してどんどん下って行くことになる。1500mを超す標高差を谷底まで足早に駆け下りた。観光客の中には優雅にロバに跨って下りて行く人達もいた。
行きはよいよい帰りは恐い、とはこのことだった。行きはもちろん下り坂でスピーディーに下って行くことができたが、帰りは逆に険しい急な坂を喘ぎながら登って行く羽目になった。行きの坂を下ることで知らず知らず体力を擦り減らしていたのだろう。私は途中から少し登っては休む、息絶え絶えの状態に陥ってしまった。おまけに辺り一帯は砂漠の乾燥地帯とあって、厳しい夏の日差しにのどはカラカラ、水筒の水は早々に飲み干してしまった。日没前にようやく一人でキャンプ場に辿り着いたが、あのまま落伍していたら今頃どうなっていただろう、と今思い出しても冷や汗が出る。
旅の参加者は毎日、キャンプ場でテントを張り、食事は全員が協力して炊事場で自炊した。ヨーロッパ旅行で各地のキャンプ場に宿泊しては車で転々と移動する旅を経験済だったが、アメリカも主要都市の郊外にはキャンプ場が整備されており、シャワールームの存在や食材の販売など安心して旅を続けることができた。イスラエルから参加した3名は食べてはいけない食材でもあったのか食事に一緒に加わらなかったが、他の参加者は学校の教師やビジネスマンで全員が協力的だった。日本からは先発してメキシコ国内を旅行していた私の剣道部後輩が一人ロサンゼルスから合流した。
constipated!この英単語の意味が分かる人は少ないだろう。旅の途中、恥ずかしいことに私はとんでもない便秘になってしまった。トイレに籠って出て行かないと、外で頻りに便秘を意味するこの単語が聞こえて来るので覚えてしまった。みんなからプラムを食べろとうるさく言われて閉口した。
再びルート66に戻ってオールドツーソンで昔の西部劇の街を見学した後、ニューメキシコにあるカールズバッド洞窟群国立公園を訪ねた。鍾乳洞というと秋吉台を思い出すが規模が全く違う。石灰岩の洞窟レチュギア・ケイブは全米で最も深く(489m)、長さは世界第5位(203km)ということだった。洞窟の中心部には直接エレベーターで昇り降りできるほど巨大な空間があり、随所に息を呑む光景が見られた。
サンアントニオには日が暮れてから到着した。運河沿いのプロムナードが美しい街だった。翌朝、テキサスの住民が独立を目指してメキシコ軍と戦ったアラモの砦を訪ねた。土産物屋でデビークロケットが被ったビーバーの皮で作った帽子を売っていたので、旅の記念に買った。ヒューストンに入ると高速道路を走っていても牛(糞)の匂いがした。近代的な街の郊外にはテキサスの広大な牧場が拡がっていた。
ミシシッピー川河口に広がる湿地帯を小型の蒸気船に乗り換えて遊覧した後、ようやくメキシコ湾に臨む南部の大都市ニューオリンズに到着した。出発してから16日目だった。早速フレンチクォーターを歩き、バーボンストリートでジャズを楽しんだ。連日夜遅くまで旅仲間と街中を徘徊したが、南部特有の湿気を多く含んだ生温かな空気が流れ、見上げると月が夜空に煌々と輝いていたのが印象的だった。
ニューオリンズを後にして車は最終目的地のニューヨークを目指して一気に北上を開始した。南北戦争の古戦場を訪ねたり、映画「風と共に去りぬ」で紹介された南部のプランテーション跡を見学したりしながら、アラバマ、バージニアを経て首都ワシントンまで到達した。ワシントンではリンカーン記念堂やワシントン記念塔を見学した。ニクソンショック後のG5の通貨合意ースミソニアン合意で知られるスミソニアン博物館も訪ねてみた。東京などと違って首都機能が計画的に作られた都市なので、随所に広大な美しい広場が配されていて、その広さには少なからぬ感動を覚えた。
そしてようやく最終目的地のニューヨークに辿り着いた。予定通り丸3週間目の朝だった。マンハッタン島の対岸からフェリーボートに乗って渡る。左手には自由の女神が次第に見えて来る。世界の中心地ニューヨークだ!
これまでキャンプ場で自炊の毎日だったので、ボブの計らいでフェアウェルパーティーはステーキハウスで開いた。私は思い切ってTボーンステーキをオーダーした。学生は我々二人だった事情もあり、全員と特別親しくなったわけではないが、長い間旅を共にした仲間だ。ボブのリーダーシップもあり最後まで一緒に行動できたこと自体素晴らしかった。こうして私が夢見た大陸横断の旅は終わりを告げた。
アメリカ大陸横断の旅からちょうど30年後の2006年5月、Ciett(人材派遣会社のグローバルな団体)がベルリンで開催する年次総会に日本人材派遣協会のミッションの一員として参加する機会を得た。社会人になってからヨーロッパを訪ねる機会は何度かあったが、真昼間にシベリア上空を横切って飛ぶのは初めての体験だった。フランクフルト行きの国際線に搭乗したその日は、幸運にもシベリア上空に雲一つない素晴らしい好天に恵まれた。高度1万メートルを超す機内の窓越しにじっとシベリア大陸を眺めていると、美しく光り輝く大きな水溜まりがあちらこちらに見える。おそらく春を迎えてツンドラが解け水溜まりになっているのだろう。水溜まりといってもシベリア大陸の広さがそう見せるだけで、現地に降り立てば湖と呼んでいい大きさなのかもしれない。大学4回生の時に果たせなかったシベリア大陸横断の夢がはるか空の上から実現できた。そして今、シベリアの空はウクライナとの戦争で冷戦期以来、再び閉ざされてしまった。再び自由な空に戻ることを願わずにはおれない。