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天草のアトリエの窓辺から

 古希を迎える年齢ともなると、若い頃から交流のある大勢の友人知人がまるで小説や物語の登場人物のように一人一人思い浮かんで来る。情熱的な切れのいい短編小説に颯爽と登場する人もいれば、胸躍る山場があるわけではないが、淡々と綴られた長編小説に登場する名脇役のように、読み終えて爽やかな涼風を感じさせる人もいる。
 木版画家、大西靖子さんとの交流はまさに後者で、ケンブリッジのサマースクールでの出会いから半世紀近く、泉から清冽な水がこんこんと湧き出ずるようにいつも私の心を癒してくれる。

 3年前の暮れに開かれた個展の大西さんを囲む会で約束していた天草のアトリエ訪問が、今年5月の連休明けにようやく実現することになった。ただ、田舎でコロナ感染者が出ると大騒ぎになるので、できれば福岡や熊本の街中には立ち寄らずに直接天草まで来て欲しいと。
 天草は遠かった。朝早く羽田を発ち熊本空港に到着したが、空港から路線バスを乗り継いでほぼ4時間近く、目的地の苓北町富岡に着いたのは既に午後2時を少し回っていた。世界産業遺産に指定された三角西港を過ぎた辺りから右手に海が見え島に入ったのを実感したが、熊本と天草を繋ぐ高速道路がないためか、これほど時間がかかるのにはまいってしまった。当日宿泊する富岡半島にあるホテルにチェックインした後、すぐにホテルの近くにある大西さんのアトリエに向かった。

 アトリエは天草灘から遠く東シナ海を望む高台にあった。大西さんは笑顔で我々夫婦を出迎えてくれた。アトリエの周りには手植えの美しい花々が咲き乱れていた。大西さんは花が好きで、毎朝起きるとひとつひとつの花に「おはよう」と話かけるという。花だけではない。周囲にある樹々、蝶やカエルなどにも同化できるのか、会話をするのが楽しいという。
 平屋建てのアトリエには4部屋ほどあり、最も多くの時間を過ごす部屋には西側に向けて斜めに切られた大きな窓が天井まであり、遠く東シナ海を居ながらに望むことができる設えになっていた。
 普段は個展でお目にかかるだけだったので、芸術家としての姿しか知る由もなかったが、近くの海岸から拾い集めた「トサカ(干すと鶏冠に似た形状になる海藻)」と野菜を胡麻油で和えたサラダや、天草名物の干した薩摩芋を餅に練り込んだ「こっぱ餅」など手料理を美味しくご馳走になった。食後には部屋で開脚して頭を床に付けるお茶目なところも見せてくれた。 
 ホテルでの夕食まで少し時間があり、富岡半島の突端にある灯台まで3人で出掛けた。あいにくの曇り空で念願の天草灘に沈む夕陽を拝むことは叶わなかったが、大西さんは曇り空の日の銀鼠色の海も素敵だという。途中で小雨が降り出し、灯台への上り下りも大変だったが、大西さんの健脚振りには驚かされた。

 大西さんとの出会いは私が大学2回生の時、ケンブリッジのサマースクールで同じクラスになったのが切っ掛けだ。私が21歳、大西さんが32歳の最初の出会いから、今や68歳と79歳の再会である。
 サマースクールの先生はアーマという南アフリカ出身のケンブリッジ大学の留学生だった。当時はまだアパルトヘイト政策が公然と維持されていて、活動家の彼女は時折政府に対する批判を口にした。大西さんは帰国後もしばらく彼女と文通を続けていたようだが、検閲にかかったのか、しばらくすると彼女に手紙が届かなくなったようで、音信が途絶えたことを残念に思う彼女からの手紙が何度か届いたという。
 ある日、授業を終えた黄昏時、教室のあるジーザス・カレッジからほど近い公園、パーカーズ・ピースで同じクラスの人達数人で集まったことがある。緯度が高いケンブリッジでは夏は夜9時を過ぎても明るい。大西さんは、笛吹童子は蓮の花の上で笛を吹きながら恋する人との出会いを千年待ったのよ、などと夫ユキとの出会いを語ってくれた。大西さんは「魂が触れ合うような恋」というが、いったいどういうものなのか、まだ恋に恋するような奥手の自分にはどういうことかまるで理解できなかったが、憧れを抱いたことは間違いなかった。

 二年後、東京本社の銀行に就職して、研修期間中に同僚と二人で東村山のご自宅を訪ねてご馳走になった。親の了解などお構いなしに結ばれ、毎朝、牛乳瓶がぶつかる音を辺りに響かせて、自転車で牛乳配達をしながら生計を立てていた新婚の頃のことを愉快そうに聞かせてもらった。
 その後は年に一度か二度、都心の画廊で個展が開かれるたびに夫婦揃って伺っては近況を交歓する関係が続いた。金融危機の折など、しばらく個展に伺うことさえままならぬ時期もあったが、最近は個展初日に開かれる作家を囲む会で懇談を楽しんでいる。
 今振り返ってみて、どうしてこんなにも長い間、元銀行員からすれば全く異なる世界の女性版画家と交流が続いたのか、自分でも不思議に思う時がある。今思うことは、大西さんとの交流を通じて自分が「大人」になっても失いたくない大切なものは何か、会う度に反芻しながら守ってもらって来たのだと思う。それは「少年の心」と呼ぶようなものかもしれない。

 大西さんは美しい自然が残る、山形、阿蘇、天草にこれまでアトリエを設けて創作活動に勤しんで来た。最近はパステル画に熱中しているというが、版画の制作の傍ら童話やたくさんのエッセイも残している。大西さんの生き方の一端を知って頂く上で、少々長くなるが最後に「永遠への旅」と題する大西さんのエッセイの一部を紹介したい。
 「自然の中に身を置いていると、人間の意識世界という狭い枠内で起きていた絡み合った感情がほぐれ、枠は徐々に取り払われて、やわらかな裸の魂が戻ってくる。すると、自然界のもののひとつである自分の魂は空や海、風や光、草や石などと同格になり、それらと共に自由で広々とした空間で息をつく。そして心の底には哀しさが湧き、それは美しさに通じているので目に映るものや心中にあるものへの愛おしい思いも生まれてくる。若い頃のそういう心の在り方は版画との出会いにより年々深められていった。」「若い頃から、人生において最も関心のあることのひとつに、自分がこの世を去る時までに精神と心がどこまで自由になれるかということがあった。それは心と精神が日常意識の枠内のみで生きるのではなく、日常にあるものや出来事を通してより広々とした永遠的な世界と交流し合う状態をどこまで深めていけるかということであったように思う。版画を創り続けることにより、自然を通していつの間にか求めていた道を歩んできたようだ。人はこの世での時を生き、いつの日か天へと帰っていくのだろう。昔、湖のほとりで眺めていた、空に溶けていったあの雲のように。」

こちらは番外のおまけです!  
サマースクールでアーマ先生に添削してもらった今も手元に残る私が21歳の時に書いた拙い英語の詩です。

                                                        Twilight
Do you know the word "Twilight" ? It means half light before sunrise or after sunset. Twilight ー that is the best word in English, I think. At the time of twilight, old men go for a walk with their friendly dogs, and many lovers talk to each other about "love".
In Japanese we use a word "Tasogare" for that time of day. That word was coined in about 900 A.D. It consists of "Who is he ?" in English. Because it's dark after sunset and we can't see who he is. So we Japanese use the word for the time of twilight. We Japanese like that period from long ago, and so Japanese has many kinds of expressions for that time, for example "Kawatare" "Yugure" "Yoimachi" and so on.
I think that time is the most beautiful of a day. That time tells us what life is like. We Japanese work and work very hard for the most part of our lives. When  we grow old men, we usually have many questions about our way of life. The English enjoy life, but the Japanese don't enjoy it, I'm afraid. What happiness is I'm being taught by the English. Before the twilight of my life,   I want to get something filled with happiness…
  

   
 

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