ある学生の父から届いた手紙
京都、岡崎公園は晩秋を迎えて、疎水べりの桜の紅葉がライトアップされて美しい頃だった。明るい岡崎公園を通り過ぎて、少し歩いたやや薄暗い通りの角にS君が住むアパートがあった。友人と3人で一部屋借りてシェアして暮らしていると聞いていた。
「銀行でリクルーターを務めている者ですがS君はご在宅でしょうか。」
「Sは永平寺に座禅を組みに行くと言って出掛けておりません。」
部屋の奥で物音がして人の気配がする。そのまま相手の言う事を信じていいのだろうか。部屋に踏み込むことも頭を過ったが、私はしばし逡巡した後、持参した手紙をその方に託して足早に立ち去った。これで良かったのだ、と独り言ちた。手紙はS君に内定を伝える内容だった。
昭和52年秋、銀行に就職し京都支店に配属されて半年経った頃のことである。当時、就職した銀行では国立一期校中心の採用をしていて、翌年の学生の採用のため、それぞれの国立大学出身の新人を数名、地元の支店にリクルーターとして配属する習わしとなっていた。私は翌年の京大生のリクルーターを任されていた。
今では信じられないことだが、当時はまだ学生運動の余韻が残っていたためか、どこの企業も内定者には興信所を使って、いわゆる身体検査をしていたようだ。私の場合も前年、北白川の下宿に興信所の人が訪ねて来て、一頻り私のことを聞いて帰った。ろくでもない質問にすべて答えて別れ際に、実は私が本人です!と白状して顔を見合わせ大笑いしたものだったが。
人事部ではS君を早々に内定することに決めたが、興信所の調査で学生運動のことが引っ掛かったらしく、内定を一旦ペンディングにする方針が私にも伝えられた。学生運動と一言で言っても幅があるし、一年前に下宿で遭遇した興信所調査のいい加減さを知っていた私には、こんなことで将来ある学生を左右する遣り方は許せない、と憤然と強い怒りを感じた。
当時、就職活動の解禁日は10月1日で、優秀な学生には数日の内に内定が出されていた。私はS君に明確に内定を伝えられないまま、取り敢えず繋いでいくという苦しい対応を強いられた。そして日を措いて再びゴーサインが出た。学生運動の疑いが晴れたのか、詳細は知る由もなかったが、ぜひ採って欲しいとの指示が下りて来た。もういい加減にして欲しかった。岡崎公園の外れにあるS君のアパートを訪ねたのは、人事部の方針転換を受けて再び内定方針を伝えるためだった。
就職活動が一段落した11月初めに私宛て美しい文字で清書された手紙が一通届いた。S君の父親からの手紙だった。
「息子の就職に際しまして、あなた様には誠心誠意、熱心にお誘い頂いたと息子から聞いております。本当に有難うございます。ただ、本人は熟慮の末、某信託銀行に決めたいと申しておりますので、何卒ご寛容賜り、このまま温かく見守って頂ければ有難く存じます」と丁寧な文章で綴られていた。
まだ社会人になって半年、新入行員に過ぎない私に対して父親からこのような丁重なお手紙をお届け頂いて恐縮するばかりだった。私の熱意が却ってS君には負担になっていたのかもしれない。就職という人の人生をも左右する重要な事柄に私のような若造が携わる資格があるのか、大いに考えさせられもした。
S君は結局、某信託銀行の本店為替係で銀行員としてスタートを切った。翌年の年賀状で知らせてくれた。知らせてくれたこと自体、本当にうれしかった。いつか私も東京で勤務するようになったら再会しよう、と年賀状での交歓が続いた。そして10年ぐらい過ぎた後、何が切っ掛けだったが思い出せないが、都内の居酒屋で再会した。S君は全く変わっていなかった。私も全く変わっていないと言われた。
「最後に岡崎のアパートを訪ねた時に応対に出た方にご在宅ですかと聞い
たら、数日前から永平寺に座禅を組みに行っていると聞いたけど、あれは本当?あの時は部屋の中にいたんじゃないの?」「人の気配がして、ひょっとしたら居留守を使われているように勘繰ってもみたんだけどな。」
「いや、まぁ・・あの時は永平寺に本当に行っていましたよ。」
過ぎたことはもうどうでも良かった。
私はその時、ずっと大切に保管していたあるものを持参していた。
「この手紙は就職活動が一段落した後、お父様から私宛て届いた手紙です。新入行員に対してすごく丁重なお手紙を頂戴して甚だ恐縮しました。お父様の息子さんへの温かい思い遣りを知り、こんな私にまでお気遣いのお言葉をかけて頂きました。捨てるに捨てられず、大切な預かりものとして再会する日まで大切に保管して来ました。」
S君は一瞬、驚いた表情を見せた。父親が私宛て手紙を出していたことなど思いもよらなかったようだ。手渡した手紙に目を通した後、S君の表情が少しくぐもったように思えた。お父様は九州の小倉で教員をなさっていたが、数年前に亡くなられたという。
S君はその後、某信託銀行でニューヨーク支店長を務めるなど一貫して国際畑を歩み、常務取締役まで務め上げた後、二年前までグループのアセットマネジメント会社のCEOなどを務めた。S君とは互いの転職など節目、節目で今も交流が続く。今でも会えば当時のまま、大学同窓の一年先輩として接してくれるのが面映いばかりだ。
(写真:「残雪を残す春を迎えた浅間山」 2021年5月に撮影)