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ダメって言われても大丈夫。

今日は心療内科に行く日。帰りに大家さんに家賃を持っていく。病院の先生や大家さんと話をしていると、「我を出し過ぎると嫌われるよ。気を付けて。」と自分のことを見張っている。見張っているなーと思いつつ、「相手に聞きたいことある?伝えたいことある?」と問い合わせる。「これが気になってるから確認して欲しい。この件共有しといて欲しい。」小さな自分のリクエストを承って、相手に伝える。わたしの仕事。

その後、ひとりでごろごろ休んでいると、見張り役がうるさくなる。「あんなこといちいち言わなくて良かったんじゃない?」「嫌われてるよ、拒絶されるよ。」うるさいなー、感じ悪いなー、嫌な気分になってくる。言っていることはもっともなように聞こえる。あなたは正しい、そう思う。

なんなんやろう。自分を出したら嫌われる・拒絶されるって。何を怖いと思ってるんやろう。

「細かいことや、誰も気にしてないこといろいろ言わない方がいいよ。うるさいと思われて、よそに行けばって言われるよ。」

「いや、さっき家賃持って行ったときに、あと2年だけ下宿やるからそれまでは居てくださいって言ってくれたじゃん。2,3か月後にわたしが他所に行きたくなるかもしれんけど。大家さんは居てくれていいと思ってるみたいよ」

この怖がってる感じ、今のじゃないな。昔のやつだ。子どもの頃、だだをこねた時に父を怒らせて、家の外に出されたときのやつじゃないの??夜に締め出されてギャン泣きしたときのじゃないの??あんな昔のやつ、まだあるの!

お風呂に入って話してたら、やっぱりその時の自分が出て来た。自分の言い分が通らなくて悔しかったり、優しくしてほしかったのに寂しかったとか。ブヒブヒ言う。なるほどな、そうかいなって聞いていた。家から閉め出されて、拒絶されたと思って悲しかったみたい。年齢1桁やったから、その時の自分にとって親は絶対だったもんな。かわいいなと思って笑えて来た。

締め出されたけれど、そのあと入れてもらって、無事に育ててもらいました。大丈夫でした。自分のことをわがままで最悪な子どもだと思っていたけれど、普通の子どもだよ。なんで放り出されたのかは覚えてないけど、些細なことをきっかけに父とバトルになって、場外に放り出されただけよ。おとんの方が強かったから仕方ない。自分よりも絶対強い相手に、よくあそこまで全力で挑めたものだと感心した。絶対自分は間違って無いと思ってた。でも、外に出されたら怖くて、嫌われるのが嫌で謝ったけど 笑。今になっても、自分が何で怒られたのか分かってない。間違ったとも思っていない。よく分からないけど、我を通しすぎると恐ろしいことになるということだけ覚えていた。

今、自分の思っていることを言ってみることを練習してる。それで離れていった人もいるのはいるけど、別に何も困っていない。ただ、その経験が積み重なってる。言ってからざわざわするのは今もある。嫌われるの怖いと思っているんだな。好かれる自分は○だけれど、拒絶される自分は✖。やりがち。拒絶されるの怖いって大事に考えているけど、相手にとってアリかナシかも、出してみないと分からない。今日も大家さんに確認してみて、「そこは自分でやってほしい」って言われたけど、「そうですかー、了解です。」で終わったもんな。ダメって言われてもわたしは大丈夫だということを、小さなことから確かめている。

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