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【本要約】自由になるための技術リベラルアーツ 〜 スピンオフ 〜 宗教
2021/11/6
偶像崇拝
一神教、ユダヤ教やイスラム教で偶像崇拝が厳しく戒められているのはなぜか?
旧約聖書に書かれた神の言葉は、 解釈の恣意性が介在する余地が少ないために、世代を超えて教義を継承する上でも重要である。だから、偶像ではなくテキストに戻りなさい、コンセプトに戻りなさい、ということではなのか?
偶像はつくっても拝まなければ大きな罪にはならない。しかし、偶像をつくると拝みたくなるから、それがいけない。
一神教の本義から外れていくというわけか?
一神教では神は世界をつくった創造主だから、世界の外側に確かに存在している。この世界の中には、神がつくったものか、あるいは人間がつくったものしかない。偶像は人間がつくるものである。人間がつくったものを人間が崇めたら、人間が自分自身を崇めていることになるから、それは一神教では許されない。
文明開花のための宗教
江戸から明治になったときに「近代化のためには欧米列強に倣うべきだ」と、まず経済、少し遅れて政治、それから科学技術、教育とワンセットで取り入れた。
ただ、宗教、キリスト教に対しては警戒した。当時の為政者たちは、欧米世界で、キリスト教が社会の近代化・合理化に大きな役割を果たしていることを認識していたが、「日本の近代化にもキリスト教が必要不可欠かどうか」を悩み、「キリスト教をそのまま取り入れるのではなく、それに相当する別のもので代用できないか」と考えた。
そのときにモデルとしたのが英国国教会である。アメリカのプロテスタントと違い、英国国教会は首長が国王である。これに倣って天皇を宗教的な権威とする「国家神道」というアイデアを考え出した。
教育勅語と軍人勅諭をつくり、学校と軍隊での教育を通して速やかに国民に浸透させた。キリスト教におけるイエス・キリストのように、国家神道では天皇が精神的バックボーンとなる。天皇に対して国民が献身し、天皇の意思が国家目標として与えられ、各人がその場所で努力する。これによって近代化が一気に進んだ。
この国家神道には大きな問題点があった。イエスは2000年近くも前の中東人で、英国国教会における国王とは無関係である。国王が「戦争をする」と言い出しても、「イエスはそんなことは言っていない」と英国国教会の人たちが反抗することもできる。しかし、国家神道では、古代の神々と神武天皇と今上天皇がほぼ一枚岩になっているため、今上天皇が言ったことに反対すれば、ただちに大逆罪になってしまう。
宗教が国家権力のカウンターバランスにならない。
だから、国家神道の下では言論の自由が成り立たなかった。英国国教会の中には言論の自由があり、清教徒やメソディストなど、いろいろなグループが出てきて自由闊達に議論ができるが、戦前の国家神道はそうではなかった。このことは、明治の元勲たちも気づいてはいたが、結局は近代化を優先したのであろう。
その結果、天皇の権威を利用した一部の軍人たちが暴走し、非合理な戦争を引き起こしてしまった。戦争に敗けた後、日本はどうなったかと言えば、まず軍隊がなくなり、それから国家神道がなくなった。でも、その他のもの、政府とビジネスは残った。学校も残った。天皇は象徴という形で継続したけれど、国家神道なしで近代化を続けなければならなくなった。
イノベーション
イノベーションを生み出す力とは、未来を想像することである。
そして、現在と未来の差を取ることで、何が足りないのかがわかってくる。足りなければ作ればいいというのが、イノベーションである。
イノベーションが、アメリカ人は得意で、日本人は得意ではない。「それはなぜか」と言えば、アメリカには「神」がいるからだ。
日本では、人間は死ぬ。自分が死んだ後のことは知りようがないから、考えなくていい。人間しかいなければ、そういう現世主義的、近視眼的な考え方でも構わない。
これに対して、神は死なない。天地創造のときからずっと地上のことを見ていて、これからも見続けていく。この視点があれば、まず歴史が書ける。つまり、過去を持つことができる。そして現在だけでなく、未来も考えることができる。
人間は死んでも神は死なず、「こういう世界をつくろう」とか「こういう出来事を起こそう」とか予定している、神の計画がある。人間には見えないだけで、神にとっては、未来はありありとそこにある。
そうした神と同じ視点を持つ人は、現在にいるけれど未来のことが見えるから「足りないものをつくろう」と考えることができる。
これが「発明」というものであって、現在のニーズに応えることではない。現実に、アメリカでは、発明家やイノベーターがたくさん生まれている。大半は、ものにならなくても、勝ち残った人たちが市場を支配して、気がつくともう次の産業を手掛けている。
この力が日本は弱い。
それは未来がないから。
なぜ未来がないのか。
神の視点がないからだ。
それを考えたときに出てくる疑問が「なぜアメリカだけが突出して、神の計画というものに対する意識が強いのか」ということだ。
発明の動機は、隣人愛の実践である。「人々によりよく生きるチャンスを提供するため」というのがプロテスタントの教義である。
さらに言えば、発明以前に、アメリカにはフロンティアというものがある。入植したときは何もなかったわけだから、アメリカ人は森があれば切り開き、丸太小屋を建て、水を引き、道路をつくり、社会インフラを一から建設して街をつくってきた。
その過程で、試行錯誤して、前回失敗したところを今度は改善しようとか、新しい技術を試してみようとか、都市開発と発明が直結していく。このように、常にフロンティアをめざしてきたのがアメリカの近代であり、フロンティアをめざすことが、神の視点で未来を見ることと結びついている。
仏教
禅に限らず仏教ではよく「仏 」とは「ほどける」ことであると説かれる。
例えば、ここに水の入ったコップが置いてあれば、ほとんどの人は水を飲むためのコップだと認識する。しかし、それに一輪の花を活けて花瓶にする人もいる。水があってちょうどいいと、灰皿にする人もいるかもしれない。ある人はコップ、別の人は花瓶、もう一人は灰皿だと言う。
このように同じものを見ても人それぞれ「これはこうだ」と思い込むものだ。世の中の争いのほとんどは、そうした思い込みに起因している。そのような思い込み、固まった心のもつれがほどけて、「これはコップでも花瓶でも何にでもなるじゃないか」ということに気づけば、争いの種はなくなる。心が平らかで整った状態、つまり「ほとけ」というものになる。
マインドフルネスとは、そういう思い込みをいったんすべて流してしまうことをめざす。対して、禅は、仏教だから、取り除いた後に自分の心の中にある「自在なる仏なるもの」に気づくことをめざす。
お釈迦様は悟りを開いたとき、「一切衆生 悉有仏性」、「生きとし生けるものはみんな生まれながらにして仏になり得る」とおっしゃった。しかし、いろいろな煩悩や固まった心が、内なる仏の存在に気づくことを妨げている。それらを修行によって取り除いていけば、いちばん底に仏が残るということに気づく。ここがやはり仏教である禅の精神の核です。
ころころ転がるから「心」なのだとも言われるが、心は水のように形を変える自由自在なものである。それを好き嫌いや損得、是非や善悪で呪縛して、嬉しい、悲しい、苦しいといった状態で固めてしまうから不自由になる。その固まりをほどく方法を教えてくれるのが、仏教であり、禅である。
坐禅をすれば無心になれるわけではない。
「無心」とは「何も考えない」ということではない。
「何も考えない」というのは不可能ではないか。これも言葉の難しさですが、無心というより「一心」になる。一心とは、いま、自分が行なっていることに対して集中する、心と体が一つになっている状態である。
あるいは「初心に還る」と言ってもいいかもしれない。山岡鉄舟は「剣術の妙處を知らんとせば、元の初心に還るべし。初心は何の心もなし」と書いている。仕事でも坐禅でも、最初に「さあやるぞ」と思った心には雑念がない。「人から見られるからうまくやってやろう」とか、逆に「なぜこんなことをしなければいけないのか」といった雑念や疑いの念がない「素直な心」が初心である。
僧侶は修行道場へ行くと、まず徹底的に叱られるのだが、修行とはまず「自分」というものを否定し、捨てることから始まるからだ。「自分が」という心の固まりをほどくことで、多少揺れ動いても最後には元の場所へ還る、自在でぶれない心を養うことができる。
山岡鉄舟は「禅というものは、武人が行えば武道になり、芸人が行えば芸道になり、商人が行えば商道になる」という。弓道、茶道、華道、剣道、柔道など、道というものの真髄は、それらを通して、人格を磨き完成させていくことにある。
仏教では、自利利他という。自分も他人も利を目指す。
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