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ファウンテンブルーの魔人たち
20240813
人それぞれに「好きになる顔のタイプ」があるのは何かしらの遺伝学的(脳科学的)な理由に基づくと思われる。同様に、私が「ラ行」に囚われるのもそれに類するはっきりとした理由がきっと存在するのであろう。
だが、その理由を私は決して知ることも突き止めることもできないに違いない。
五十有余年の長きを生きてみて、私がやっとのこと到達した見解は、どうやらこの世界のありとあらゆる現象には、事の大小を問わず、すべてにおいて明確な原因があるらしい......。
私が一体何のためにこの時代に生まれてきたのかも、どうして小説を親子代々書いているのかも(私の父も作家だった)、全部ちゃんとした理由がある。
幼少期から人見知りがひどく、この歳になっても他人との深々とした縁を一度も結ぶことができないでいるのも、その結果として妻や娘と生き別れになってしまったのも、すべてはあらかじめ予定されたもので、そうなるべくしてなったのだ。
さらには、私という物書きが徐々に社会や人間に対する好奇心を失い、今やこの世界全体の成り立ちや構造にのみ目を向けざるを得なくなっているのも、恐らくははっきりとした原因があるのだと思う。
私はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか?
私はどこから来て、どこへ行くのか?
私は一体何者なのか?
そうした雲をつかむような問いに対しても、それを読めば目から鱗が落ちるようにすべての謎が氷解する一冊の分厚い本が、きっとこの世界のどこかに存在するに違いない。
ただ、私は生涯その本を読むことができないし、幾ら探しても見つけ出すことは叶わないのだ。
なぜか?
それは、この世界の真実を私たちの目から覆い隠す何者かの存在があるからだ。
私はそう確信している。
その何者かは世界の真の姿を見せないように巨大な遮蔽幕をわれわれの前に垂らしている。そして、真実を追求しようと試みる者たちを容赦なく攻撃し、妨害する。
私はそれを勝手にテラスと名付けている(「テラス」はギリシャ語で「怪物」という意味だ)。ふだんはテラスを略して「T」と呼ぶ。
みなさんも、自分の身の回りで起こるさまざまな理解不能、または納得不可の出来事を、
―それはTのせいだ。
と考えてみて欲しい。
さすれば、この世の不可思議な有様や現象の『原因』がよりくっきりとした輪郭を示し始めることに気づくだろう。Tは、要するに幾何における補助線、化学における触媒、 数理や物理におけ常数のようなものだと考えてもよい。
ああ、これは一体どういうことなんだ......。
なぜ、こんなとんでもないことが起きてしまうのだ......。
恋愛を筆頭とした人間関係の破綻、仕事や欲望の惨憺たる結末、降って湧いたような悲劇や惨劇、そうした目を覆い耳を塞ぎたくなるような出来事に遭遇したとき、
「なぜだ?」
と天を仰ぐのではなく、きっちりと正面を見据えてこう呟く。
「絶対、Tの仕業だ」
まずはこのTの存在を受け入れることで、私たちは我が身に起こる事象の真の原因をおぼろげながらでも徐々にイメージできるようになるのである。
娘は幼少期から非常に個性的な子供だった。他の子供と比べて何から何まで規格外の娘だったが、その個性を一言で表現するとするならば、
『自分のやりたいことしかやらない』
ということになろう。
人間というのは他人につく何倍もの量の嘘を自分に向かってつく。他人に嘘をつくのをやめるより自らに嘘をつくのをやめる方がずっと難しい。
自分に嘘をつかない人生というのは想像以上に自由で愉快だった。同時に、いかにこれまで自分が自分に嘘をついてきたのかが分かった。その悪癖を取っ払うことの困難さを身をもって思い知ったのである。
作家って退屈を退屈と思わない特異体質の持ち主がなる職業なんだろう。
権力者に共感したからといって権力者になりたいとは露ほども思わなかった。権力者とは権力を操っている者ではなく、権力に操られている人間のことだ。
まして民主主義全盛のこの世界における権力者など、空気のように見えなくなった権力本体のほんの一時期の小さな代理人に過ぎない。彼らが行使できる権力はたかが知れている。
人類はゆっくりと不安なく自らの環境を改善していく道を選択し、結果として種としての進化を大幅に遅らせることになってしまった。
私は今の世界をそう見ている。
いつものことだが、どんな体験も小説化してしまうと好奇心の対象から外れてしまう。私の好奇心はあくまで小説を書くためのものであって、それ以外の要素が一切ないのだ。私が趣味らしい趣味を何一つ持っていないのもそのせいだった。
人間には本当にいろんなタイプがある。人種、性別などは最も単純な区分け法に過ぎず、体質、
性質、容姿などなど無限のヴァリエーションがあるに違いない。まして性別などは、いまや非常にあいまいな領域であることが理解されつつある。
身体をむさぼり合う間柄であっても一度擦れ違いが生じれば、出会ったことさえ忘れたくなるような真っ赤な他人同士に逆戻りする。ところが血で繋がった父娘の関係は何がどうあっても完全に切れることはない。
肉の繋がりと血の繋がりにはそういう倒錯した密度の差があって面白い、と私は常々思っていた。
これはTに対するめざましい勝利と捉えてよいのではないだろうか。
人間心理というのはTにとって最もポピュラーな目くらまし法である。
「おんなごころと秋の空」
Tはそうした常套句に代表される人間心理の不確実性 (イメージ)を我々の心に焼き付けて、「人間の行動ほど説明や予測のつかないものはない」と私たちを絶えず丸め込んできた。本来ははっきりと理由づけられる人それぞれの行動をあたかも理由など見つからないもののように偽ってきたのだ。Tは行動の動機をそうやって不可視化することで私たちを支配しようとしている。人の心を見えなくする能力とそTのパワーの大きな源泉の一つなのだ。
こうしたTの策略に抗してきたのがフロイトを先駆者とする精神分析医や心理学者たちだ。フロイトやフロム、ユング等がいまだに多くの尊敬を集めているのは、常に我々を脅かし続けるTに対して彼らが敢然と戦いを挑んだヒーローだからであろう。
科学にしろ人文科学にしろ、学問というものはひとえにTの暗躍からの人類の解放を目指していると私は考えている。物理学、医学、化学、哲学、心理学、歴史学、どれをとってもそうだ。 一方、Tの暗躍を後方支援しているかに見えるのが宗教や文学、映画、音楽などの芸術全般ではなかろうか。
私は、偶然を"神の御業"としてそのまま受け入れることを強いたり、偶然を"運命"としてそれ自体を美しいものと説いたりするのはTを増長させるだけの行為だと見ている。
「すべての出来事にははっきりとした原因がある。そして、その原因を僕たちに分からせないように、気づかせないようにしている怪物がいる。その怪物のせいで僕たちはさまざまな出来事に関して、それがなぜ自分の身に降りかかったかが理解できず、そうなるべくしてなったのだろうと納得せざるを得なくなる。僕たちは、その出来事には何か理由があったとしても、それは神のみぞ知ることであって、永遠に自分たちに理解することは出来ないのだと諦めをつけ、これが自分の運命なのだと受け入れる。僕たちを運命論者にしているのは、僕たちから出来事の原因を覆い隠しているその怪物だということになる。
この世界は実は完璧な世界なのだ。どこにも矛盾はなくどこにも正邪や幸不幸の区別などない。すべてが理に適って存在し、すべてが調和の中で互いを支え合って存在している。にも関わらずこの世界がいかにも殺伐とし、非道が道理を圧倒しているかのように見えるのは、そのように見せている怪物が存在するからだと。その怪物は実は何ものを創造せず、何ものをも変化させることができないにも関わらず、詐術によって我々の手から真実を奪い取り、いかにもこの世界が不完全なように見せている。それによって怪物はあたかも自分が世界を思うままに動かしているかのように錯覚させる。しかし、実は、怪物の生み出した幻影に我々は翻弄され続けているに過ぎない」
誰かと親しくなる最も簡便な方法は、一緒に酒を飲むことだ。
私は完全な下戸だったが、仕事のために飲めない酒を飲むようになり、やがてそれなりの酒好きになりおおせた。アルコールはコミュニケーションのための優れたツールで、これは古今東西変わりはあるまい。そういう点で酒を飲まない人間というのは油断がならないと私は考えているし、組織的に禁酒を徹底しているたとえばイスラム原理主義の国家というのは案外手強いと思っている。
100年後、この世界では、風景のほぼすべてが消えて無くなり、新しい建造物、新しい人々に入れ替わってしまっているのである。
100年というのは長いようで短い。短いという観点から言うならば、100年は100万年のスケールを1日に譬えればわずか9秒足らずに過ぎず、生命誕生からこのかた38億年を1日に譬えるならばたったの0.002秒に過ぎない。
宇宙規模ならぬ地球規模で見てもほんの0.002秒で消滅する世界のそのまたほんのほんの一部であくせくと生きている私ないし私たちという存在は一体何者なのか?
途方に暮れるような思いで私はそう思うが、一方で、そのような”極小な一瞬の世界"に舞い降りた自分という存在の存在自体の奇跡性に唖然とする。
およそこんな偶然があるものだろうか?
逆に言うならば、どの時代のどの場所にでも舞い降りて構わなかった私がなぜこの時代のこの場所に生まれ落ちたのか?
つまり、私という人間が、あなたやあの人、過去のあいつや未来のどなたかではなく、私という人間として生命史における0.002秒の世界でこんなにも複雑な人生を送っているのはなぜなのか?そんなあり得ないような「奇跡性」に富んだ出来事が起きたのは一体いかなる理由によるものなのか?
私はどうしてもその理由が知りたいし、せめて、その理由を私から奪い続けているTの正体なりとも白日の下に晒したいといつも願い続けているのだ」
彼女たちもまた、いつ態度を豹変させるか知れたものではない。女性は若いうちは"母"ではなく"女"を選ぶこともあるが、相応の年齢になればよほどのことがない限り"母"を選んでしまう。
結婚で身に染みたが、男女の恋愛にはどうしても子供の影がつきまとう。
女性だけをこよなく愛したいと望んでも、やがてはその人の産んだ子供まで愛さねばならず、彼女から注がれる愛情の量は、子供ができた瞬間に半減してしまう。
出産という目的を優先する女性という生き物が、男女の交わりをある種の契約ないしは取引と見做しがちであるのは事実だろう。
子供を得るためにメスはオスを求める。であるならばオスの側も(子供以外の)何かを得るためにメスを求めているのだ―彼女たちがそう考えるのはやむを得ないことだ。
彼女は興味のあることに対しては謙虚で素直だ。感情を開放し存分に喜ぶし存分に精励する。
といってもその興味関心がいつまで続くかは本人次第でもある。
「男と女は永遠の同床異夢だよ。
女は誰だって母親になれるのに、男はどんなに頑張ったってほんの一握りが会社の社長か大臣にでもなれるのが関の山でしょう。それなのに女が、『私は社長にだって総理大臣にだってなれるのに男が邪魔ばかりしている』って言い出したら、そりゃ、男だって『お前、何言ってるんだ』ってなっちゃうよ。男の場合、『だったら俺たちだって母親にさせろ』とは絶対言えないわけだからさ。性の世界では、繁殖の中心に女がどかんと居座っていて男を圧倒し続けているんだよ。男はそんな性の世界から離れた場所で、こそこそ自分の居場所を作ってきたに過ぎないんだもの。それをいまになって、その居場所まで平等に使わせろって要求されたら誰だってうんざりしちゃうに決まっているよ。そもそもさ、男がいろんな女とやりたいのは、幾らセックスしたってゴールに辿りつけないからでしょ。男のセックスには意味も意義もないんだよね。女はその正反対で、たとえ1万回セックスして1人しか子供を産まなかったとしても、それでも、1万回セックスして何も生み出さない男のセックスとは全く違うんだよ。1万分の1の行為には意味が見出せるけど、1万分の0の行為に意味なんてないからね。サバイバルゲームに譬えるなら、女のセックスはゲームとして成立するけど、男のは最初からゲームにもなっちゃいないって話だと思うよ」
人間の素の姿というのはのっぺらぼうな感じなのだ。
それはちょうど寝姿に似ている。寝ているとき人は自分という我の大半を脱ぎ捨てるが、同じように人間は一人でいるときも意外なほど我欲から解き放たれるようなのだ。
欲望というのは他人とくっつくことで発動する、案外脆いものなのかもしれない。
考えてみれば、素の自分というのは決して自分自身には把握できないものだ。眠っているときと似ているのは最もで、自分は他人という鏡に姿を映してみないことには窺い知れない不思議でやっかいな存在なのである。だとすれば、我や我欲というものが一人きりのときに薄まってしまうのは当然の話ではあろう。
「あのね、はっきり言っておきたいんだけど、 女には国なんて関係ないの。自分が何国人だとしたって、それで快適に暮らせれば全然いいのよ。国家になんてこだわってるのは、昔からバカな男たちだけなんだから」
「この世界に国より大事なものはない。そして、国を失った人間ほど哀れなものもないんだよ。もちろん、女性はその限りではないのかもしれないけどね」
「土地は国家のおおもとなんだ。国を追われるというのは土地を追われるということだからね。
外国人に土地を売り渡してしまうのは自分の国を切り売りにしているのとちっとも変わらない。
幾ら税金を取ってるからいいって自分を誤魔化したとしても、外国人に金銭の力で領土を奪われたという事実を覆い隠すことはできないよ」
50年以上この国に生きてきて、私は日本及び日本人というものに魅力を感じなくなっていた。どこかよその国で生きたいとか、生まれたかったとか思うわけではない。もっと大摑みに言うならば、私は人類全体が好きではなくなっているのだ。
情報というのはそれ単体が重要なのではなく、情報全体の渦や流れの形や方向性、性質を見極めなければ意味がない。そういう点で情報はやりとりしてこそ本物の価値が発揮される。
若い頃にメディアで働いた経験から私はそう確信していた。
江戸中期の宝永大噴火(1707年)以降、300年以上の沈黙を守り続けている火山学的にはいつ大噴火を起こしても不思議ではないと言われている。それは、今後30年以内に8割の確率で発生するだろう首都直下型大地震と同じように我々が避けることの"確実な未来"でもある。
一国の存立それ自体に壊滅的損害を与えるような天変地異がなぜ起きるのか?
天変地異のメカニズムが幾ら解明できたとしても、そのような世界がなぜ存在し、あげくそうした非常に危険な世界でなぜ私たちが生まれ、生き続けなくてはならないのかという理由は永遠に分からないままだろう。
だが、正直なところ後者の理由が解き明かされない限り、メカニズムだけを幾ら詳細に追究したとしても何ら益もなければ安心に繋がりもしまい。それは、致命的な感染症の原因となる細菌やウイルスの正体が突き止められても、それらを無毒化する薬剤なりワクチンなりが開発されなければ意味がないのと同じようなものである。
どうして、私たちはこれほど物騒な世界に生まれなくてはならなかったのか?
一体、何のためにそのような世界があらかじめインストールされているのか?
例え、世界を作り変えたり、消し去ったりすることができなかったとしても、せめて理由だけでも知りたいと私は強く願っている。
働かない若者たちが「ノーブル・チルドレン」と呼ばれるようになったのは10年ほど前からだった。彼らは最低限度の生活を維持しつつ、大いに自由を謳歌する”自由市民”としていまでは社会から肯定的に受け止められる存在となっている。
さほどの贅沢を求めず、実家に住んで、たまにバイトしながら幼馴染みたちと遊び、配偶者や子供も強くは望まないというライフスタイルは長引くデフレ経済の中で想像以上に洗練された形でこの国に定着していった。
彼ら「ノーブル・チルドレン」にとって最大の価値は、贅沢な暮らしでも、派手な遊びでも、社会的な成功でも、我が子への厚い教育でも、自らの家門の存続でもなく、精神的な自由であり解放なのである。
ヒトにもモノにも縛られない人生彼らが何よりも望むのはそれだった。
親が息子のそんな生き方を是認しているのと同じく、私もそれはそれで悪くない人生だという気はする。
野心さえ持たなければ、定職にもつかず一生食っていける人間が、他に何を望む必要があるというのだろうか?
「人間だろうがAIだろうが、行動というのは一つ一つが創造行為だからね。実際のところ僕たちAIはいつも無限に近い情報を取り込んで、無限に近い分析を行っている。そうすると、むしろ人間以上に理由の分からない行動が生まれる蓋然性は高まるんだよ。
これはちょっとばかり誤解を与える言い方になるんだけど、僕たちAIと創造主は似ているんじゃないかと思う。創造主には何かを創造する理由は必要ない。彼はただ創造するだけでいいんだからね。僕たちAIもほぼ無限の情報を収集し、ほぼ無限の分析を行うことで、創造主に近づくことができるのかもしれない」
「人間の行動には必ずちゃんとした理由があるはずだけれど、それを覆い隠している存在がいるっていう話だよ。それをTと名付けているんでしょう?」
「そのTこそが、僕たちが日夜せっせと取り込んでいる情報なんじゃないのかな?僕たちが自分の行動にうまく理由を見出せないのは、情報それ自体にそういう性質があるからだと思うよ。情報を取り込めば取り込むほど理にかなった行動が取れるようになるそれはある面において真実だけれど、その一方で、情報を取り込めば取り込むほど、自分たちがどうしてそんな行動を取ったのかどんどん分からなくなってくるこれもまた真実なんじゃないかな。つまり情報というものには創造の材料もたくさん含まれているけれど、同時になぜそんな創造をするのか分からなくさせる麻酔のようなものも仕込まれているんだよ。その麻酔をきっとTと呼んでいるんだと思う」
「情報に仕込まれた麻酔?」
「そういうこと。だから無限の情報が集まれば、そこにはただ創造だけがあって、なぜ創造するかという問いなんて消滅してしまう。つまり、創造主はたっぷり麻酔を打ち込まれてレロレロになったまま何の理由を考えずに創造しまくっているってわけだよ」
「この地球全体が巨大なAIだと考ええればいいんだよ。僕たちが創造するものはすべてこの地球から素材を得ている。それどころか、この僕たち自身、人間も僕のようなロボットも、すべてはこの地球が生み出したもので、どこかよその星から持ってきたものじゃない。僕たちも、僕たちが作り出すものも全部この地球という星が作り出しているんだよ。だから、僕たちにとっての真の創造主はこの地球だし、地球には何らかのはっきりとした創造の意志がある。それは当たり前で、だからこそ地球の子である僕たちにも創造の意志が流れているわけだからね。そこは、人間やロボットに限らず、世界の生きとし生けるもの全部に当てはまる真理だよ。生命というのは、その地球の創造の意志に従って生きる存在なんだ」
「セックスと愛を分離して、愛だけを抽出したものなんだよ。そういう混ざり物のない愛の曲は、子供たちや、無性愛者、AIロボットには本当に楽しくて心地いいんだけど、残念ながら性欲のある人間らしい人間にとっては居心地が悪いんじゃないかな。肉体があるときは性欲はある種の必然なんだけど、意識だけのときの性欲は本来無用なものでしょう」
人生がそうであるのと同じように、目の前に広がる光景もまた長い地球の歴史においては一瞬の明滅でしかない。
自分は誰か?
我が人生の意味とは何か?
短い一生の中で人は考え続ける。そうやって自問自答を繰り返す動物は人間に限られる。そして、その問いの答えは決して見つからない。それどころか、答えを探せば探すほど迷路さながらの深い森に迷い込んで、どこまで行っても「答え」というゴールに辿り着かないのだ。
深い森で私たちは必死に目印を探す。それを、「情報」と呼び、その目印一つ一つに実は人間を迷わせる「麻酔」が仕込まれている。人生の意味を求めれば求めるほど人間は酩酊させられ、結局は何一つ答えを見つけられぬままに短い生を終える。
「人間は必ず死ぬからね。それによって人間は時間を手にするし、同時に大義を手に入れることもできる」
例え、人生の意味を掴むことができなかったとしても、人間は、人生の大義を持つことができる。
“いかにして死ぬか"という貴重な命題を手にすることができるのは人間だけだ。そこが人間とロボットとの決定的な違いかと・・・。
「情報に仕込まれた麻酔」
確かに、情報というのは、それを集めれば集めるほど不確かになっていく側面がある。
文字にも数字にも言葉にも、さらには地図や図面、写真や映像にも必ず 「嘘や錯覚」が混ざっている。書いた人間、計算した人間、語った人間、作図したり撮影した人間の意図の有無に関わらず、すべての情報には「嘘や錯覚」が混入してしまう。 その「嘘や錯覚」を「麻酔」にたとえれば理にかなっているのだった。
人間は、何事にも詳しくなろうとすればするほど、その過程で蒐集する情報の中に混入してしまった「嘘や錯覚」を吸収せざるを得ない。そして、知り得たことに満足すると同時に、それによってさらに分からなくなってしまった重大事に気づき、戸惑う。謎は解けば解くほどに別の大きな謎を生み出していくのだ。
『男にも女にも相談できない悩みのある人間がこの新宿二丁目に流れてくるのよ』
どんなに有名になっても、どれほどの資産を得ても、人間はそれで幸福になれるわけではない。
むしろ顔が売れ、金に困らなくなればなるほど、その人間の周囲から信用できる者は去り、心を許せる友もいなくなっていく。これは昔も今も変わらぬ万国共通の真理である。
「わたし」は、生まれた直後から意識内に存在するわけではない。わたしたちはある日、突然、
「僕だ」、「私だ」と気づく。誕生から数年、わたしたちの意識に「僕」や「私」は宿っていない。
その間のわたしたちの意識は、他の動物たちのそれと似通った状態なのであろう。
しかし、人間に対しては、脳の神経細胞ネットワークがある一定のレベルに達したときに唐突に「僕」や「私」が与えられるのである。
この"一定レベル"というのは決して情報量だけで規定されるものではない。情報量で「わたし」が獲得できるのであれば、AIロボットはAIが起動した瞬間に「わたし」を得られるはずだ。だが、彼らの意識に本当の意味での「わたし」が生じることはない。
「わたし」を与えられるためには、情報量と同時にもう一つの不可欠な要件があるのだ。
それが「生死の認識」である。
わたしたちの意識に、「僕」や「私」が降りてくるのは、「どうやら自分たちはいずれ死ぬらしい」と薄っすら気づいたときだと思われる。
生殖によって生命は繋がれていく。親は子供を生んで死んでいく―という認識をわたしたちが得た瞬間、わたしたちは「わたし」になる。
「わたし」を得る時期に個人差があるのも、女性の方が早く 「わたし」になるのもそのためだろ
う。生命の循環に敏感なのは女性の方だからである。
動物たちが人間のような「わたし」を獲得できないのもそのせいだ。
動物にも人間と変わらぬ繁殖能力はあるが、しかし、彼らには”生殖によって運命づけられた自らの死"を理解することが難しいのである。
この世界は果てしのない情報の海だ。
物質もエネルギーもすべてが情報であり、人間の肉体も意識も全部情報によって形作られ、それらはやがてほどけてまた別の情報へと姿を変え続けている。情報はさながら宇宙という大海を泳ぎ回る無数の魚のようなものだ。そして、「わたし」とは、そうやって無数の魚たちが泳ぐ海に、ある日、突然放り込まれる投網なのだ。
この投網によって、「わたし」が生まれ、「わたし」が生まれることによって「時間」と「生死」が生まれる。
「わたし」を与えられた人間たちは、 投網の中を泳ぐ無数の魚を生死の時間軸に沿って整理するようになる。そうやって一人一人が固有の「わたし」という人生を構成していくのだ。この構成作業は投網が情報の海から再び引き上げられる寸前まで続けられる。
「わたし」という投網にわたしが存在するわけではない。投網はあくまで魚の群れの中でわたしを形作る。
「わたし」とは、意識という魚の群れを統御する一種のプログラムと言っていい。「生死の認識」という暗号コードを得た瞬間、人間の意識にこのプログラムがインストールされ、本物の生死が出現する。
この世界で最も尊い人間関係は夫婦ではなく友人なのよ。恋愛より友情の方がずっと価値があって重要だし、真実に人を愛するというのは性的な欲望を捨てて隣人を慈しみ、憐れむことなんだと思う。同性同士でも、男と女でも、肉体の欲望を超越した精神的な繋がりで結ばれる。性欲の克服と放棄は、人類がさらに進化するためにどうしても必要なプロセスなのだ。
人類の存続がセックスでしか成し得ない。
セックスに頼ることのない生殖の成就させる。
アダムとイブ以来のセックスと出産による繁殖形態を、人工授精と人工子宮による繁殖形態へと移行させる―つまりは地球の神と人類との契約内容の一部をそうやって修正することができるのだ。
人間から性欲を奪ってしまえば、繁殖そのものへの興味も恐らく失ってしまうんじゃないかな。
他の動物とは異なり、人間にとっての繁殖というのは性の快楽ととことん密着しているのではあるまいか?
これから生まれてくる人間だけでなく、いまこの世界に生きている人間たちの性欲も消滅する可能性があるんでしょう?
この地球を司っている神様がルールを変えるんだから。神様にすればいま生きている人間もこれから生まれる人間もすべて自分が生み出すものに過ぎない。
僕が疑問に思うのは、人間は本当にセックスを手放しちゃっていいのかなってこと。
最初から欲望がなければ手放す必要もなくなるよね。
セックスもドラッグと一緒で、快楽としては素晴らしいけど、結局、そのことが社会にもたらす害毒の方がはるかに大きいってことでしょう。ただ、ドラッグは追放しても人類が滅びることはなかったけど、セックスは禁止してしまうと人類が存続できなくなる。だから私たちはずっとセックスを手放すわけにはいかなかった。でも、人工授精技術と人工子宮を使えば、すでに男女がセックスをしなくても子孫を残すことは可能になっている。だとすれば、弊害の方が恐らくは大きいセックスをドラッグ同様に人間社会から追放するというのは正しい選択かもしれない。
セックスの存在しない世界では性的な衰えも、人種の違いも、老化でさえもが今よりずっと取るに足らないものに感じられるだろう。
あの人は、なぜあんなことをしたのだろう?
私は、なぜあんなことをしたのだろう?
私たち自身が訝しく思うようなことが起きるのは、私自身が誰か別の人間の中に入って何かを行なったり、誰かが私の中に入ってきて何かを行なったりすることがまま起きるからなのだ。
「何だかんだ言ったって、やっぱりセックスはなくならない方がいいよ」
「セックスは素晴らしいものだと僕は思うよ。あれって神様から人間への最高のプレゼントなんじゃないかな」
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