退屈と暇ってどう違う?
退屈と暇ってどう違うんでしょうか。
どちらもやることがない・・・。そんな意味ですよね。
私は稲中卓球部の記事を書いているとき、ゴミ拾いのことを話題にしました。
ゴミはそこかしこに散らばっています。それを拾うことができます。外に行って歩いて、散歩がてらに掃除をすることができます。
退屈っていうのは、本人の気持ち次第なのであって、やることはいくらでもあるのです。
しかし、ゴミ拾いはつまらない。楽しくありません。やらないよりはした方がいいとはわかっているけれども、正直気乗りがしません。
ゴミ拾いだけではなく、他のあらゆることも、気持ちが乗って行きません。そうなると、人は結局何もすることがなくなります。退いて屈する。どこかの世界に首を突っ込んでみるけれども、どれもつまらなそう・・・。積極的にかかわりたいと思えない。
そういう状態が退屈です。だから、何もすることがない、という意味で、暇と一緒です。
では、暇は何でしょうか。暇な人間は、遊びに興じている印象があります。享楽的な遊びです。例えば、男性がアダルトサイトをずーっと見て過ごすとか、性的な快楽に耽る時間を多分に過ごすとき、暇人と言われることがあります。暇だからそうなるのだろうと。
もちろん、実際に異性と交遊しているときも同じです。ゲームセンターで時間をつぶすとか、テレビゲームやパソコンのゲームで時間をつぶす。漫画を読むとか、そうした、享楽的な何かをただ受け続け、消費しているだけの時間を過ごす人。
暇というのは、その人が、自分の人生で達成したい何らかの目標に向かっていない時に訪れます。
では、趣味に興じている人は、暇なのでしょうか?それとも、暇ではないのでしょうか?
これは意見が分かれると思います。私は趣味こそが人生を豊かにすると考えていますから、暇じゃないと思います。
ギリシャで、幾何学とか、数学とか、哲学とか、そうしたものが盛んに議論されるようになったのは、暇な人が増えたからだと言われます。面倒なことは奴隷任せにしたからですね。
私たちは、自分達が生きていくために必要な行動を取らなければなりません。しかし、それらを奴隷に丸投げするとなると、やっぱり暇になりますね。
退屈と暇のあいまいな境界線。重なり合う部分が訪れます。
難しい問題を解く、という目標に向かって頭を働かせる。それは、自分の生活上の問題を解決するのではなく、ただ、頭の中で行われているだけのもので、当時は遊びの一つでした。
暇というのは、生活や自分の人生で必要な何かを行うのではなく、享楽的なものごとに時間を使う場合でも言います。
前野と井沢が恋人関係だ、という噂が流された時、井沢は、誰がそんな暇なことを?と問います。噂を流すのが好きな人は、噂を流すことで、陰で楽しむことがあるからです。
結論
暇と退屈は、自分の実生活に役に立つ行動を取らないという点で、何もすることがない状態である。この点で共通しているけれども、退屈は、やろうと思えばできることなんていくらでも転がっているけれども、そのどれもやる気になれないことから結局何もすることがない状態になっている状態。(つまり、ゲームやアダルト系の享楽的なものさえも、全てつまらなくなってしまっているような状態でもあり)、暇というのは、自分の人生に必要不可欠とは言えない享楽的な行為のために、時間を使いまくっている状態を言うのではないかと考えます。
暇じゃない人間は、自分の日々の生活を送るために、やらなければならないことが訪れます。それをこなして生きていくと、1日はあっという間に終わります。
例えば、アルプスの少女ハイジでは、皆朝日が昇る前に起き、一日の生活が始まり、夜寝静まるまで、生活のためにその時間を使う、とオンジがロッテンマイヤーさんに言います。
暇な時間なんていうのはありませんし、退屈なんて言っていられません。
それでも、パーティを開いたり、ソリで滑って遊ぶ時間とかはあるでしょう。そういう時間が全くないのも困りものですね。
退屈な人や、暇な人が増えたのは、お金で大抵のことがパスできるようになったからだと思います。
お金を稼ぐために私たちは仕事をしますが、やりたくもない仕事をずっと続けている人は、なんだか空虚な気持ちになり、どこか暇な気持ちになることが多いようです。
それは、その仕事自体が、自分の人生自体にとっては、大して意味がないからです。本当は、お金さえ入らなければ、退屈な状態になってしまうようなことなのです。
そして、その暇な状態をずっと続けてしまうと、せっかく稼いだお金は、享楽的なものに消費されてしまいます。どうしてお金を稼いでいるのに、心が満たされないのか・・・。それは、こういうところに原因があるように思います。