本当は恐ろしい日本の昔話② 桃太郎伝説 

これは桃太郎伝説をベースにした私の創作です。常識に真っ向から反していますが、私はこっちが真実だと思って書きました。

①もよろしくお願いします!

桃太郎のおかげで 観光業が成り立っている 岡山県の方達 ごめんなさい
この物語を読んだからって、影響力は無いと思いますけど、理論的に考えられる人はこっちの方が正しいと納得してもらえるはず。

桃(百)太郎伝説
 
 ある時、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
 
 あるひのことです。おばあさんが川で洗濯をしていると、川から女の体が流れてきました。女は裸でした。女の尻が川面に浮かび、さながら大きな桃のように見えました。
 
 「あれまぁ~。」
 
 びっくりしたおばあさんは、腰を抜かしそうになりました。この時代、人の死体がそこかしこに倒れていることは、そこまで珍しいことではありませんでしたが、山の上から死体が流れてくるということは、そうそうないことでした。

 おばあさんはゆっくりと流れてくる女の体に目を奪われていましたが、次第に冷静さを取り戻し、岩にひっかかった女を、何とか川岸へ手繰り寄せました。そして、まだ洗っていなかった布で体をふいた後、洗濯もののなかから乾いた大きな布を取り出し、その身を包んであげました。
 
 急いでおじいさんを呼び、その女を家へ連れて帰ることにしました。
 
 女の腹は大きく膨れており、身ごもっているようでした。
 
 「なんと・・・。まだ生きておる・・・。」
 
 女はかすかに息をしています。どうしてこんなことになったのかもわからないまま、おじいさんとおばあさんは必死で看病をしました。

 女はか細い声でこう言いました。

 『おじいさん。おばあさん。ありがとうございます。私はこのように身ごもっております。産婆のところへ向かおうと峠を越えようとしましたが、平家を名乗るならず者の武士に襲われそうになり、滝の下へ落ちてしまいました・・・。』
 
 その夜、陣痛が始まりました。体力を失った母親は、その晩命を落としましたが、不幸中の幸いか、元気な男の子が産まれました。
 
 おじいさんとおばあさんは、その男の子に、「太郎」と名付けました。
 
 太郎はそれからすくすくと大きくなり、やがてたくましい男の子に成長しました。
 
 おじいさんもおばあさんもこれには大変大喜び。
 
 「どこに出しても恥ずかしくない立派な子に成長したものじゃ。こんな立派なおのこに畑仕事もなんだ。もっと大きな仕事ができるはずじゃ。」
 
 そして、おじいさんとおばあさんは、殿様の元へ向かい、御目通りを願いました。
 
 我が子のように可愛がってきた太郎を、推挙しようとしたのです。
 
 そこで、太郎を見た殿様は、さっそく太郎に、さまざまなことを学ばせました。
 
 太郎は、馬術、弓術、剣術など、いろいろな武術を見事に吸収し、しかもその腕前は、他の武士たちと比べても、類を見ないほどでした。
 
 「天晴じゃ。太郎とやら。褒めてつかわす。」
殿さまもご機嫌で、太郎は殿さまに仕えるようになりました。
 
 そして、武術の腕を買われ、犯罪者を取り締まる警察の役職に就くことになりました。
 おじいさんもおばあさんも大変喜んで、太郎のこれからの活躍を楽しみにしていました。
 
 あるひのことです。殿様からこのような命令が下りました。
 
 「鬼が島には鬼が住んでおる。そこでは、鬼が近隣の住民から財産を奪い、苦しめておるのじゃ。そして奴らは蓄えた財産で武器を買い、我らの国を乗っ取ろうとしておる。太郎。まだ奴らが力を付けぬうちに、お主が鬼が島へ行って、成敗してまいれ。人相を紙に書いておいたから、それも忘れぬようにな。もし奴らが何を言おうとも、それは全て奴らの言いがかりじゃ。奴らは大変頭も回る。決して耳を貸すでないぞ。」
 
 「ははー。承知仕りました。」

 太郎は、この命令がくだったことをおじいさんとおばあさんに伝えました。
 
 おじいさんも、おばあさんも大喜びです。
 
「それは大仕事だ。出世できるぞ。」

 おじいさんとおばあさんは、黍団子をこさえ、太郎に持たせることにしました。

 次の日です。太郎が出仕すると、犬のような顔をした男、雉のような顔をした男、そして、猿のような顔をした男たちが、甲冑を身に着け、刀を佩いて太郎を待っていました。
 
 殿様はこういいました。

 「太郎。先刻沙汰致した通り、お主はこの者たちを連れて、鬼が島へ行き、鬼たちを退治してまいれ。」
 
 「ははーっ。」
 
 太郎は深々と頭を垂れると、渡された地図と人相書きを携え、鬼が島へ向かいました。
 
 そして、ようやく鬼が島へ到着しました。ここは、犯罪者たちが流刑にされた時、流されてくる島でした。本当の名前がありましたが、殿様はそれを鬼が島と呼んでいたのです。
 
 太郎は、人相と同じ顔の男を見つけると、罪状を読み上げ、そして、一緒に連れてきた猿顔、犬顔、雉顔の男達に取り囲ませて、その男を切り殺したのです。
 
 鬼たちは十数人ほどいました。鬼たちは、赤い角を生やして、赤い肌や青い肌をしているのかと思っていたら、人相通りの普通の人間でした。
 
 鬼とは、本当の鬼ではありません。日本でも戦争中に、鬼畜米英という言葉が言われたように、人間の敵愾心を鼓舞するための、一つの喩えだったのです。太郎は殿様の言葉を信じていました。

「やつらは人の皮をかぶっておるが、中身は犬畜生と同じじゃ。鬼は人に化けることができるのじゃ。躊躇なく殺してまいれ。」
 
 太郎はこの言葉を信じて疑いませんでした。

 太郎にとっては、この国をよくするために、成敗しなければならない対象には違いありません。太郎は、云いつけ通りに、鬼と言われる男たちを見つけては、罪状を読み上げ、一人一人成敗していきました。
 
 しかし、実を言えば、鬼たちは皆、殿さまにとっての単なる政敵だったのです。殿さまに逆らったり、殿様の持っている悪い秘密などを暴こうとするものたちを、殿様は罪人に仕立て上げ、島流しにしていたのでした。
 
 だけどそんなこと、太郎にはまったくわかりません。しかし、成敗しようと思うたび、彼らはさながら鬼のように顔を真っ赤にして、殿さまへの批判をまくしたてるのです。
 
 太郎はそれでも殿さまへの言うとおりに、成敗を続け、ようやく鬼退治が終わりました。
 
 そして、帰路についたということであります。
 
また、島流しにあった者達の財産を取り上げました。それは、島の男たちが殿様への反乱をするために必死で貯めた軍資金でした。太郎の働きぶりにいたく感心した殿様は、太郎に、そのお金の一部を褒美として与えたのでした。
 そして、おじいさんとおばあさんと、太郎は、それからも幸せに暮らしたということです。
 
 一方、鬼が島には、殿さまの批判文を書いたことをとがめられ、島流しにあった男が住んでいました。男はこの太郎という男が為す行為を、恐る恐る陰から見ていました。
 
 「(鬼はどちらだ・・・。)」
 
 幸い、この男は処罰の対象には入っていないようでしたから、処罰されなくて済みました。
 
 「鬼め!覚悟しろ。」
 といいつつ、どんどん殺されて行く自分の同胞たちを見て、男は恐れおののきながらも、何とかこうした世の中を変えたいと思いました。
 
 それから3年ほどたったでしょうか。自分の罪が許され、島から出ることを許されました。その男は、あの事件のことが忘れられず、何とか太郎の住む家を探り当て、そこへ向かいました。男は、悪いのは殿様であり、太郎自体は悪い人間には思えませんでした。どうしてあのようなことをしたのかというあらましを知りたくて、太郎の生い立ちを尋ねました。
 
 男は、文章がうまかったので、その話をきいた後、ある物語を書き、暗に殿様を批判しようと考えました。権力者の圧政が強まると、民の批判はことごとく弾圧されます。秦の始皇帝がおこなった焚書坑儒がいい例です。日本でも、戦争時代は表現の自由が認められませんでした。
 そうしたことを避けるために、昔からはやったことは、隠語をうまく使うことでした。権力者たちに見抜かれにくい言葉を文に盛り込むことによって、仲間との間で意思疎通をはかり、いつかこの物語の真意に気づいてくれることを願うのです。
 
 あまりにも露骨に殿さまを批判してしまうと、痛い目にあってしまいます。ですから、真相を物語のいたるところに隠して忍ばせ、後世にその意味を伝えようと考えたのでした。

桃太郎伝説あとがきと解説

 物語を書いた男は、太郎を主人公にしました。しかし、その名前を変えました。桃のような尻を持つ女から生まれたということで、桃太郎ということにしました。この名前を選んだ決定的な理由があります。

 それは、百太郎との掛言葉にしたことです。百というのは、「もも」と読むことができます。そして、古典では、百はきっちり100人、という意味ではなく、「たくさんの」、という意味を表しています。そして、「太郎」というのは、日本人男性の一般的な名前です。

 ですから、「桃太郎」を、「百太郎」と読み替えられるようにするという仕掛けを施しました。

 これで「たくさんの男たちが」という意味になるのです。

 おじいさんとおばあさんから、黍団子を貰った、というのは、そのいきさつからそのまま取りましたが、これは、飯を食うために必要な手段。つまり、お金の意味をこめました。

 そして、日本人に多い、犬顔、猿顔、雉顔の男たちを家来にして言ったことを、それぞれ、犬、猿、雉として、本当の動物であるかのように置き替えました。

 金さえもらえれば、つまり、食い扶持さえもらえれば、正しいかどうかも考えずに言うことをきく彼らを、動物のような奴らだ。畜生はお前らの方だ。という意味を込めて、動物に置き換えたのです。そのことをさらに強く示すために、黍団子を貰えば、鬼退治に加わるという構成にしました。
 
 では、鬼とは何でしょうか。例えば、「鬼ごっこ」という遊びがありますね。これは一人の人が鬼になり、他の人を追いかけて、鬼がその人に触れれば目的達成。そうした鬼の行動を利用した昔からの遊びです。
 
 「心を鬼にして」とか、「目的のためには手段を択ばない鬼の心」という言葉があるように、鬼とは、一つの目標を定めれば、わき目もふらずにそれに向かって行動する人間の精神を表しているのです。鬼とは、実在するものではありません。このような、人々の心を捉えて形として表現したものだったのです。
 
 「魂」という言葉をご存じでしょう。「魂」には鬼という文字が入っていますね?左の「云」というのは、「雲」という漢字にも使われているように、「浮かんでいること」を表しているものです。
 つまり、「魂」は、「鬼」が「浮かんでいる」ということです。魂を込めて打ち込む、とか、一球入魂という言葉があるように、その一球に、全ての心を注入して投げるということになります。
 では、この百太郎の物語に出てきた鬼にこのことを当てはめてみましょう。
 この場合、鬼というのは、悪いことをする殿様を、何としてでも正そうとする心を持った、つまり、「鬼」の心を持った男たちの精神を表していたのです。
 
 ですが、私たちも含め、みんな鬼というものを恐れます。2月3日の節分の日は、鬼は外!といって、鬼を追い出すイベントがありますね。
 鬼とは、悪い者、取り除かれるべきもの、というイメージが私たちの頭に刻み込まれています。なぜなのでしょうか。
 
 それは、「鬼」の宿命といってもよいのです。鬼は、自分の評価を落していく生き物なのです。例えば、分かりやすい例を考えてみましょう。
 
 あなたが、街の通りを歩いていました。すると、突然ひったくりがあなたのカバンをとって、そのまま逃げていきます。
 あなたは、取られたカバンを必死で追いかけます。この時、あなたはひったくりを追いかけて捕まえ、カバンを取り戻すと言う目的を持っています。そのために一目散です。これは、鬼の心です。
 ところが、そのカバンを取り返そうと思うと、その間に、たくさんの人とぶつかってしまいます。
 そんな事情を全く知らない人たちは、ぶつかってきたあなたのことを、とても疎ましく、悪く思うはずです。あなたに反撃し、あなたをその場にとどめようとさえするかもしれません。しかしあなたは謝る暇もなく、その人に詫びを入れずにそのまま走っていきます。

 あなたは、何としてでも、カバンを取り返さなくてはならないという気持ちでいっぱいです。鬼の心になっています。鬼の心を持つと、手段を択ばなくなりますから、それに巻き込まれた人々は、あなたのことを、悪くいうようになるのです。悲しいかな。鬼とはそういう生き物なのです。本当はひったくりの男が一番悪く、自分はただそれを取り戻そうとしているだけなのですが・・・。
 
 鬼ごっこも、目標を定めてそれを追いかけるという鬼の行動を利用した遊びなのです。逃げる人はスリル感を味わう事が出来て楽しいのですね。
 
 こうして、私たちは皆、鬼は悪いものだと言う頭になってしまったのだと考えます。ひったくりが居直って、あいつが私の荷物を奪いにやってくる、と言われてしまったようなものですね。すると、ひったくりのことを全く知らない人々は、取り戻そうとする人こそが、これから物を奪おうとする人に見えてしまいます。周りの人間たちは、今必死で荷物を取り返そうとしている男をとめようとするかもしれません。

 何はともあれ、鬼の心を持ってしまうと、いろいろな人とぶつかり合うことになります。ですから、鬼の心を持った人と関わると、私たちは嫌な目にあうことの方が多いのです。だから、鬼は評判が悪く、何時の時代も忌み嫌われる対象となるのです。丁度、芥川龍之介の「地獄変」に登場する、「良秀」のような存在でしょうか。彼は絵を描くこととなると、夢中になり、弟子を利用します。弟子が泣き叫んでいるのにもかかわらず、その様子を観察します。そんなものですから、周囲の人たちは、良秀を悪く思うのでした。
 
 殿様は、自分の悪いところをいつまでもつっついてくる政敵たちが疎ましくてたまりませんでした。そのため、彼らを鬼といって退けたのです。鬼が島と名付けられたその島は、本当に鬼が住んでいたのではなく、殿様が邪魔だと思った鬼の精神を持つ政敵たちを、島流しにしたことに由来するのでした。ですから、島流しになった鬼の住む島は、鬼が島とも呼ばれるのです。

 鬼は、犯罪者の隠語でもあるでしょう。鬼を恐れた人々は、彼らの言うことを信じません。それも殿様の狙いです。権力者はレッテルを貼って邪魔な人間の評価を落とすものです。
 
 日本には、本当に鬼ヶ島と呼ばれる島があります。ただ、一つだけではないようです。私がネットで検索しても、4つくらいありました。
 桃太郎伝説も、日本古来のものかと思いきや、似たような話は、アイヌにもあり、また、全国的にみられているようなのです。
 
 ということは、この物語はきっと、権力者が邪魔な反抗者たちを遠くへ流し、あわよくば殺害するという、今でも起きているような話を、暗に示しているのではないかと考えました。
 
 ちょうど、ロシアではナワリヌイという方が殺害されてしまったように。
 
 私の書いたお話は、新説桃太郎というべきものです。一言で書いてしまうと、太郎のような何も知らない忠臣に、鬼がいるから退治しろと言って、自分が邪魔くさいと思っていた人間たちを退治させる、時の権力者と、その部下、そして鬼と言われた者達の関係を、暗に伝えようとした物語なのだ・・・。ということになります。
 
 桃太郎伝説は、黍団子という名前などからも、岡山県が発祥の地であると考えられているようですが、桃太郎の話は、どうやら全国にあるようです。
 
 何時の時代も、殿様の立場にある人達は、自分の都合の悪い人間たちを遠ざけ、その者たちに対して、悪いレッテルを張り、世間の冷たい目にさらすことで、自分を守り続けてきたのだと。そう考えれば、話が全国に広まっているのも、納得ができるというものです。
 
 今の時代も、組織の構成員がよく行うことですね。

 私も昔、とある組織と少し喧嘩状態になったことがあります。彼らは、もう事実なんてどうでもよい感じでした。私が何を言っても、笑うのです。なぜ笑うのかというと、私が笑われていることを周囲に示すためです。笑われているということは、私の言っていることが間違いで、とんちんかんで、根拠もない、身もふたもないことを言っているやつだ、という印象を周囲に植え付けることができます。すると、話の内容や事実ではなく、なんとなくな印象で物事の善悪を捉える人たちが多数派ですから、彼らは私のいうことを信じなくなるのです。

 私に落ち度や失敗があれば、なお最高です。イメージ、評判が落ちるようなことをしてくれればくれるほど、彼らはつけ入るすきを見つけることができます。

 これと同じようなことは、社会の至るところで起こっています。

 桃太郎の話には、そうした人間たちのどろどろした、ずるがしこい社会の営みを何とか後世に伝えようとしたのだと考えます。ところが、その甲斐むなしく、多くの読者たちは、作者の意図とは全く違った形でその話の内容を、受け止め、文字通り、ヒーローの男の子が鬼を退治する物語として読み込むようになりました。そうして桃太郎は、鬼退治の英雄として、今でも名を遺すようになりました
 
 現代でも相変わらず、人々は桃太郎を英雄だと思っているのですが、実際にはそんな人物はどこにもいなかったのではないでしょうか。時の政府が政敵を殺すために、良いように使われてしまった小役人たちが、桃太郎、ひいては百太郎の正体だったのではないか。
 
 この物語の作者は、このような行動を起こす権力者を見て、何とかこの所業を周りの人に伝えたいと考えていたのかもしれません。
 そうして、暗号を文書にちりばめ、桃太郎という物語を書いたのです。
 
 今の社会でも、ミャンマーや中国、ロシアなど、自分の支配対象としたい地域に住んでいる人たちを、テロリストなどと名指しし、自分の権力を利用することによって、警察や軍隊を動員し、国民を虐殺したり、逮捕監禁取り調べなどを行ってきました。

 このような命令を受けた人たちも全て、百太郎だと言えます。逆に、このような権力に屈しないぞ、と考えた人々は、鬼の心を持ち、自分の命も顧みず、抵抗することを決めたのです。
 
 しかし、力及ばず、たいていの場合は島流し(左遷とか、地位を落とされるとか、社会的に悪いレッテルを貼られるとか。)にあうのがオチなのでした。
 
 文学とは、人生の抽象であり、何時の時代の人間社会にも通じる法則を捉えた学問であります。
 
 日本の昔話がここまで語り継がれているのには、私たちの人生に共通した「何か」が潜んでいるはずだと考えています。

あとがき

このお話は私が人生を歩んだ中で見聞きしたこと、実際に学校生活、社会生活などを送ったことによって培った経験、あるいはニュースなどから見聞きし、人間社会を観察した結果として導き出した考えを、昔の物語と結びつけて文章にしたものです。
 
伝説や伝承は、不可解なものが多く、そしてなぜ今もこのように愛される、あるいは興味を持たれる物語であるのか・・・。それを考えてみました。
物語は、そこはかとなく私たちの人生に教訓を与えてくれたり、教えてくれるから人気なのだとか、物語は非現実的でも楽しければいいじゃないかとか、そうした理由が多いのはわかります。しかし、私はこうした伝説が語り継がれ、物語が残っていることに、何らかの理由があるように思っていました。それは、どこか私たちの人生に共通するものがあるからではないか・・・。そう考えたのです。

そして、何とか自分の頭で、実際の世界と結びつけるように考えようとしました。

読者の皆さんからすれば、この物語は本当にその通りなんだと思う!と思っていただけるくらい、リアリティーを持たせることが出来たのであるとすれば、私もこれほどうれしいことはありません。
 
私個人は、物語の真相はきっとこの物語の通りなのだろうと信じています。そりゃ多少は違うでしょうが、大筋では外れていないと信じているのです。
 
皆さんはどうお考えになられましたか?

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