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子供に迷惑とは何かをわかりやすく伝える方法

子供に対して、人には迷惑をかけちゃだめだよ・・・。と教えることはあります。子供は大人にそういわれた時、恐らく意味がわかっていません。ただ、怒られたのだということと、今自分が行ったことはやってはいけないことなのだ、ということだけを理解します。

ですから、迷惑って何なのだろうか?とか、自分の行動の何がいけないことだったのか・・・ということは、全くわからないままになっていることも多いものです。

これは、人が他者を押さえつけるための便利な言葉として使われてきました。

私はこういうの嫌いなので、迷惑というものをしっかりと教えた方がいいと思っています。


A君という子供がいると仮定する・・・。

A君 「迷惑ってなんですか?」

私  「A君。私たちはみんな減少するものを持っている。お金、名誉、時間などが代表的なものだ。皆、自分のお金は自分のために使いたいし、時間だって自分のために使いたい。それを例えば、君が自分のお菓子を買いたいと言って、私にお金をくれと言ってきたとする。それで私がお金を与えたとするならば、A君は私に迷惑をかけたことになるだろうね。」

A君 「そうなんですね。確かに、そんなことしたらお母さんに怒られそうだな。」

私  「自分達は、他人に質問をしたり、話を遮ったり、自分のしてほしいことをさせることがある。そうしたとき、私たちはその人の労力と時間を使っていることになる。彼らは自分のために自分の体のエネルギーを使いたいし、時間を使いたいと思っている。だから、これも迷惑なんだね。」

A君 「なるほど。でも、お母さんは僕をいろいろな所に連れて行くよ。僕は行きたくないっていうのに。行ったって帰りたくなるから、すごい辛いんだよ。つまらないしさ。」

私  「そうだね。お母さんも、A君に迷惑をかけている。A君にも自分の時間があって、A君は自分のために自分の時間を使いたいのだ。だけど、お母さんはそんなこと知らんぷりで、A君のことを当然のように連れまわすことがあるだろうね。それは、例えば悪い大人たちが、A君にもっとすごい迷惑をかけてくる可能性があるから、そういうことから守っている、ということがあるんだね。」

A君 「大丈夫だよ。僕一人でお留守番できるもん。」

私  「そうかもしれないね。だけど、子供一人だと何かと危険なんだよ。子供を守るため、という意味では、それは仕方がないわけだ。迷惑はね、かけてもいい場合っていうのがあるんだな。子供の時は、そういう理由で色々と思うように動けないことが多いだろうね。」

A君 「僕は自分でゲームして過ごしていたいんだよなぁ。この前なんて、いろんな人が集まっているところに連れていかれて、何を話しているのかよくわからなくって。そこでじっとしてなきゃいけなくって、すごい嫌だったんだよね。」

私 「ああ、あるだろうね。大人も自分の都合で動きたい。でも、子供を放っておくわけにはいかない。だから、子供も自分と一緒に連れて行く。子供からすれば迷惑な話。でも、大人がそこで子供を放っておいて、子供が何かの犯罪に巻き込まれたり、ベランダから落ちたり、危険なものを飲み込んだり、触ったりとかして、火事にでもなったりしたら大変だったりする。親は子供がどんなわずかな可能性でも、何かしでかすんじゃないか、何かへんなことがおきちゃうんじゃないかと心配するものなんだ。」

A君 「そんなもんかな。」

私 「まぁそうだね。君を一人にしておいた方が、親も楽なんだよ。自分ひとりで自由に動けるからね。だから、君も親に迷惑をかけている。親も子も、お互いに迷惑をかけあっている。ここに間違いはないよ。親によっては、子供が自分達に迷惑をかけていると一方的に決めつけてくる人は多い。子供も、自分達が親に迷惑をかけていると信じている子たちも多い。そりゃだって、子供たちのために、お金も、時間も使っているわけだからさ。」

A君 「そんな迷惑な存在なら何で産んだの?」

私 「・・・。(私は・・・、君を愛しているからとか、君とこの世界で出会いたかったからとか、あまりきれいごとはいいたくないんだが・・・。そんなの生まれる前にわかるわけないし・・・。)それは、君が大人になったらわかるだろう。」

 ちなみに、そんなに迷惑な存在なら何で産んだの?という疑問は、私が小学生の時にした質問です。親に迷惑をかけている、ということが子供としては当然の立ち位置でしたので、普通に疑問に思いました。

 で、今子供が少ないと言って大人たちが困っています。一体どういうことでしょうか。いや、かなり嫌味ですね。本当は、大人たちが子供たちに迷惑をかけているんだけど、迷惑をかけているのは子供ということにしよう、という暗黙の共通認識があるのではないでしょうか。

 私の見解だと、大人も子供も、お互いがお互い迷惑をかけあっているのだ、ということに気づくことが、一つだけ社会を前進させる意識なのではないかなと考えています。

 しかし、国の成り立ちは神権政治から、ということを歴史が示しているように、未熟な社会は常に上の存在が下の存在に物事を決めつけた状態で出来上がります。

 大人と子供の関係も、上司と部下の関係も、先輩と後輩の関係も、親と子の関係も、なぜか最初は、上が神格化されたような状態から始まります。いや、何故か、というのももうわかってはいるのですが、これはまた別の話。

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 なお、こういう呼びかけをすると、却って誰も買ってくれなくなるという現象が生じております(笑)。取らぬ狸の皮算用はだめですね。

 ここで紹介している本は、本記事と一切関係がありません。お金もくてきで載せているだけです。

 




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