
知らないことを知らないのは当然だ 無知の知を知らない大人たち
私がちょっと前に働いていたところ。上司がいたんですが、その上司は仕事上やむを得ず、知らないことがあった。それをその上司が知っているはずはないのだ。なぜならば、その上司は他のところから移って来た人だからだ。
でも、その上司は全てがわかっているかのように見せていた。
プライドがあるのはよくわかる。でも、知らないことを知らないと言えないのは余りにも不憫だ。常識的に知らなきゃいけないことを知らない、というのを隠すのはまだわかるけれども、知らないはずのことまで知っているかのように装うのはとても残念な気持ちになる。
知らないのは仕方がないですよ、といっても、相手は知らないことを隠そうとする。
人はどれだけ頭がよかったとしても、知らないことは知らない。
例えばアインシュタインに、私の生まれた年を答えてみてください、と言っても、絶対に答えられないだろう。答えられた場合、それは見た目からある程度絞ったうえで、数百分の1の確率でたまたま言い当てられた場合のみだ。
そのわずかな可能性もさらに潰すために、私がその日の何時ごろに生まれたのかも言い当ててください、と言えば、答えは24倍絞られにくくなるだろう。
人は、知らないことは知らない。でも、知らないことを知らないと言えない人がいるのは残念だ。
そんなことも知らないのか!と怒る人や、他の人の無知をなじる人がいる。でも、そういわれた人からすれば当然のようにしっていることを、その人は知らないかもしれない。
知っているか知っていないか、で人を判断するのは、かなり危ういと思う。
じゃあ、産まれてきた赤ん坊をその人は馬鹿にするんだろうか?彼らは無知そのものだ。生まれてくる赤子全てを馬鹿にするのか?
いや、そうじゃないだろう。そういう人たちだって、赤ん坊が無知で、それは仕方のないことだということくらいはわかっているはずだ。
じゃあ、その子たちが成長して、一体どれ程の歳を取れば、自分が当然知っていると思うことを知っていなければならないと考えるのだろうか。
そう、結局その人の物差しにしかすぎないのだ。
情報が氾濫する世界で、たまたま自分の知っていることを、相手が知らないからと言って、文句を言う人は、無知の知を知らないのではないか。
そして、知っているか知らないか、よりも、知った知識をどう生かしているのか、ということの方が、よっぽど大切だと私は思う。
知っているか知らないか、というレベルで、いろいろな文句を言う人は、知った知識を生かしたことすらないんじゃないか・・・。自分にとって必要な知識と不必要な知識の選別すらできていないんじゃないか・・・。そのように感じるのである。
場当たり的に、知ってたらOK 知らなかったらダメ、というのは、あまりにも短絡的であり、その人の底の浅さが、却って読み取れてしまうように思うのである。知識は、物事を理解するための手段だ。物事をもっと深く知るための道具だ。道具を知っているか、知らないか、だけで人を評価するのは、あまりにも短絡的に過ぎるように感じる。
しかし、ネット社会はそういう人間が多いように思う。
私の上司も、知らないことで上から怒られた経験をどこかでしてきたのかもしれない。そのことがトラウマとなって、必死で知ったかぶりを続けているのかもしれない。かわいそうだ。