狸親父なのに 頭が切れると思ってる人についてのエッセー

狸親父であるのに、自分の頭が切れると思っている人は、厄介な存在だ。

狸親父と頭が切れる存在というのは、確かに似たところがある。頭の回転の速さでいえば、そうかもしれない。

狸親父の頭の切れは、自己保身に特化している。(責任回避がうまい・人の意識を外に向けるのがうまい・人を騙すのがうまい・弱者に強い・相手の無知を利用したり、相手の落ち度を利用する奴ら・自分を実際よりも大きく見せる奴ら(エリマキトカゲ型)・人を陥れるのがうまい・周りを自分の味方につけ、相手を孤立させるのがうまい・他者の主観を操作することに長けている)

ヤクザは頭が切れる、と表現されることが多い。しかし、これも狡猾という意味での頭の切れであり、基本的に全て自分(あるいは自分の属している集団)のために使われる。自分が気持ちのいい思いをし、相手に損害を与えるという関係が成り立つことが普通である。

一方で、頭が切れる人は、全然違う。新しい知識の発見、仕組みの理解、その場の機転によって、当意即妙な応対をするなど、相手をしている人間も、とても気持ちがよくなる。狸親父が利己的な頭の切れだとすれば、頭が切れる人はより社会的・調和的であって、人間の底が出来ている。利己と利他が程よくブレンドされ、相手も悪い気がしない。例えば、一緒に話をすると、とても面白い。色々と聞くと、面白い解答をよく返してくれる・・・ということがあったりする。

多分、頭が切れる、なんていうのが、狸親父と同じように考えられたのは、『難波金融道』とか、『闇金ウシジマくん』のような漫画から出た、金融業系の話からではないだろうか。

こういう影響を受けたのかどうかは知らない。そして、こうした話は確かに物語としては面白いかもしれないが、彼らの頭の切れは、自分達が、弱者や無知なものからおいしいものを手に入れることに特化した、動物の世界の頭の良さだろう。つまり、捕食者であれ、そして被捕食者とはならないための頭の切れであり、動物の世界だ。彼らが鬼畜と言われるのもそのためだ。畜とは、家畜とか、畜生と言われるように、人間なんだけど中身が動物な人を指して言う。つまり、人間の皮をかぶった動物のことである。

動物はおいしいものを見れば(罠におびえながらも)そこに突っ込んでいく。何としてでも取ろうとする。そして、こちらからの言葉が通用しない。狸親父たちは、人の言葉を理解し、彼ら自身も言葉を話すけれども、その言葉は全て自分達のうまみを満たすために使われる。つまり、動物的欲求(うま味を感じる・自分を保身する)を満たすために、鬼の心を駆使するのだ。
相手が弱いと思っていたら、もう自分では自分を止められなくなる。相手をとことん嘗め腐る。だから、嘗め腐られた相手は、自分が怖いということを逆に示し返してやるしかなくなる。理屈(理性や悟性)ではなく、相手が怖いと思うから自分の行動を制御するようになる。これも動物と同じだ。

のび太君がドラえもんの道具の使い方にかけては天才になれるように、人は自分の欲望のためならば頭がすこぶる回転するものである。こういうのを頭が切れると思っている節があるが、それは案外普通なのだということは意識しておいたほうがいいかもしれない。つまり、頭が切れるのではなくて、単に欲望を満たすために脳が非常に活性化している人なのである。ただそれだけなのだ。

狡猾というのは、獣偏に交わる…と書く。つまり、頭の中で獣が交差するのである。私たちは、自分を守るために、咄嗟に動く。自己保身本能を持っている。自分が生きるために、自分がその場その場で頭を働かせて、より優位な状態に持って行く必要があるのだ。確かに、重要な能力ではあるのだろう。しかし、それも使い時が肝心だ。やっぱり狡猾な人間は、自分のために使うのだ。カツオも頭が切れる人間になりたい、と言ってはいるが、彼も私からすれば狸親父である。まだ小学生の少年だし、そこまで人に対してひどいことはしていないけれども、あのまま大人になったらちと心配である。

こうした頭の良さは、『生きる』という目的には非常に貢献してくれる。(だが、こういう人が『生きる』ことに一体どれほどの意味があるのかは、わからない。生きることに意味のある人が生きるのならばいいけれども。)ヤクザは『生きる』ことにかけては、エキスパート、スペシャリストである。

ヤクザが『役立たず』の意味なのに、なぜか他人よりもいい条件の生活を得ることができるのか・・・。それは、こうした『狡猾さ』があるからだろう。しかし、その『狡猾さ』を発揮すれば、多くの人間たちは食いものにされるわけだ。

私が主張したい頭が切れる人は、例えば自分より強い存在や、まだ見ぬ、知らぬ物事に対して向かっていき、自らの頭で考え、解決策を見つけ、進んでいく人間だと思う。もし、狸親父も頭が切れる人間も、同じ意味だという人がいるのならば、私はそれを否定することはない。どういうことかというと、それは、人の心によって使い道が決まるものであることは、間違いないからだ。

包丁はコックが持つと料理の道具になるが、犯罪者が持つと人を刺す道具になる。包丁自体が悪いわけではない。狸親父たちは、確かに頭の回転が速いのかもしれない。しかし、それは全部自分達のために使われている。

私は多くの狸親父たち(責任回避がうまい・人の意識を外に向けるのがうまい・人を騙すのがうまい・弱者に強い・相手の無知を利用したり、相手の落ち度を利用する・自分を実際よりも大きく見せる(エリマキトカゲ型))なんかは見たことがあるが、私が思う『頭が切れる』人間にはあまり出会ったことはない。

頭が切れると思ってほしいと思っている人間と出会ったことがある。これを意識高い系狸親父と言おうかな。そして、一生懸命頭が切れることを披露してくるけれども、悲しいことに受け売りの言葉を多用していたものだった。そして、頭が切れる人間ではなく、頭が切れると思ってほしいと思っている人間である、というすれ違いに、全く気が付いていないのだった。

ダークヒーローにあこがれるのはやめた方がいいと思う。ダークヒーロ―になっている人たちは、自分がダークヒーローだと思って行動しているわけではないし、そういう存在にあこがれて行動しているわけでもない。また、自分の頭が切れると思ってもいないだろうし、頭が切れると思ってほしいと思っているということもなく、彼らは彼らなりの領分で、自分がその時その時を臨機応変に行動しているのである。もし同じ人になりたいのであれば、自分を同じ立場に置いて、本当に同じように行動していくといいだろう。

狸親父や、頭が切れることに対して意識高い系の人達も、どうかその頭の切れを、自己満足じゃなくて、もっといいことに利用してほしい。






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