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小説「中目黒の街角で」 第26話

「お店に復帰したよ。よかったら来てね」

 知花から連絡があった時、僕はまた意味のない転職を決めた直後だった。と言っても、今回は自発的に転職活動をした訳ではなく、初めて就職した会社から出戻りの誘いがあったのだ。もう彼女のことは忘れて今度こそ新しい人生を始めようと。
しかし知花から連絡が届くと想いは簡単に蘇った。もちろんこのまま会わないほうがいいのではないかと自分を諌めようともした。会ったところで、きっと彼女は完全な母親の顔になっているのだろう。そして、僕のことを過ぎ去った過去の男として見るのかもしれないと。
もしかしたら夫も店に現れるかもしれない。だとしたら会いに行って何の意味があるのだ。いやそうではなくても彼女に夫と子供がいる事実は変わらない。なんであろうと会う意味はないのだと。

 それなのに連絡があった瞬間から、彼女の笑顔が頭から離れなくなって最後に一度だけと自分に言い訳をして結局は店に向かった。

「いらっしゃいませ」
 店のドアを開くと、七ヶ月前と変わらない姿の知花がカウンターに立っていた。
「久しぶり」
「久しぶり。そこ座って」
 僕は前と同じカウンターの端に座った。何もなかったかのような知花の美しさに瞠目しながら。
「無事に産まれた?」
「産まれたよ。でも大変。夜泣きで全然眠れないし。何にする?酎ハイ?」
「あ、うん」
「了解」
 少しの気まずさも纏わず知花は変わらない声と笑顔で僕を迎えた。僕はまた数ヶ月前の日々に戻りそうになる自分を必死に抑えようとしていた。
「お待たせしました。レモン酎ハイです」
「ありがとう。元気だった?」
「うん。どうにか。でも、私がいない間にお客さん減っちゃったからまた頑張らないと」
「産んでまだ間もないよね。大丈夫なの?」
「二ヶ月かな。でも大丈夫」
「無理しないように」
「ありがとう。あ、これ好きでしょ?用意しておいたの」
 彼女が出してくれたのは僕が好きなコンニャクの煮物だった。この料理を夫は毎日食べているのだろうか。そんな嫌な想像が頭を掠めた。
「相変わらず美味しいよ」
「そう言ってくれると嬉しいな。ねえ。見て」
 知花は携帯を取り出すと息子の写真を見せてくれた。はっきりとした目鼻立ちの男の子は知花にそっくりだった。
「可愛いね」
「ありがとう。でもすごくやんちゃ。動き回るし、埃とか平気で食べようとするし」
「君もやんちゃでしょ?」
「うーん。まあね」
「名前はなんて言うの?」
「心太。お店の名前から一文字とって」
「いい名前だね」
 携帯をしまう時、知花は嬉しそうに心太の写真を見つめた。その姿を見て、僕はやっと彼女が母になってしまったのだと理解した。すると少し諦めがついた気がした。

「まさかお母さんになるとはね」
「実感はまだないんだけどね」
「今はどこに住んでいるの?」
「うん。池尻の方」
「新婚生活か」
「今さら新婚って感じじゃないけど」
「でも旦那さんはいい人なんでしょ?」
 すると知花の表情が曇った。
「結婚って難しいなと思いながらどうにかね」
 その表情の訳を知りたかった。しかし彼女の生活に入り込む立場ではないと自分を諌めた。
「君が仕事の時は旦那さんがお子さんを見ているの?」
「うん。あと、私のお母さんにも見てもらっているの。おかわりは?」
「いただきます。あと串焼きを」
「はい。待ってて」

 店員が炭の上に串をおいた。知花は酎ハイをグラスに注いでいた。僕はその光景を眺めながらこの距離感が僕達にはちょうどいいんだと自分に言い聞かせていた。こうやってカウンター越しに幸せを願う事が自分の役割なのだと。
 

 少しずつ客が増えてきた。知花は前と変わらない笑顔と人懐っこさで客に接していた。僕はその姿を目に焼き付けようとずっと見つめて、気がつくと閉店時間まで居座ってしまった。

「遅くまでごめん。帰るよ」
 すると知花が言った。
「ねえ、今日はもう閉めるからちょっと一杯飲まない?」
「え?うん」
 僕は戸惑いながら、そして少しの喜びを隠しながら腰を落とした。

 片付けを終え従業員を帰らせると僕らは並んでカウンターに座った。
「ワイン。空いてるのあるから飲む?」
「いいけど、飲んでいいの?」
「うん。大丈夫。ちょっとなら」
 二人で小さく乾杯をした。僕らは誰もいない店内で懐かしさと気軽さと、緊張感を交えた妙な空気の中にいた。

「何かあった?」
「うん・・・久しぶりだったから飲みたかったの」
「そう。あのさ、正直あの時、君に子供ができるなんて思ってもみなかった。でも、今は幸せなんだよね?」
 すると知花はワイングラスを見つめた。
「実はね、彼とうまくいってなくて」
「え?」
「付き合っている時から彼のことあまり知らなくて、それは私のせいだし、こんなことになるって思ってなかったからなんだけど、働いてなかったりしたのがわかって」
「え?働いてない?彼はいくつ?」
「私達の二個上。働いてないって言うか、バイトはしてるみたいなんだけど」
「じゃあまさか、今は生活費は君が?」
 頷きはしなかったが、知花は視線を落とした。
「ごめん。こんな話して。他に話せる人がいなくて」
「驚いたな。君は幸せだと思っていたから」
「タイミングってよくわからないよね。別れようと思ったときに子供ができるなんて」

 あの時、妊娠を告げられた時、知花は今の夫と別れようとしていた。その事実を知った時、僕の中に諦めたくないという気持ちが生まれてしまった。
 そんな男が彼女を幸せにできるはずがない。だったら今からでも・・・ずっと心に残っていた彼女への心残りに火が着いてしまった。

 知花が悲しげな表情でワインを飲み干した。僕はその背中を抱きしめたくて仕方がなかった。でもそれはできなかった。彼女はまだ離婚したわけでもない。

「僕にできることがあれば、なんでも言って」
「ありがとう。でも、自分で選んだ道だから頑張らないと」

 頑固に、そして気丈に言った彼女の視線の先に何があるかはわからなかった。ただ僕はたった数時間で彼女への諦めを捨て去っていた。

 それからまた、僕は頻繁に店に通うようになった。夫との話を聞かされて知花を放っておけなくなったのも事実だが、本心は自分にもチャンスがあるかもしれないと考えていたのだと思う。
 しかし知花は夫の話をしなくなった。さすがに結婚したばかりの身で、違う男に夫婦関係の愚痴を零すのは良い判断ではないと感じたのだろう。
 僕もあえて聞こうとはしなかった。お店の中でそんな話をできるはずもないし、聞いたからと言って、結婚をしたことのない僕は適当な解決策を持っていなかった。

 僕はただ知花を見守ることに徹した。そしていつか頼ってくれるのを待っていた。それがどんなに小さな事であろうと、例え僕らの関係に変化を及ぼさない事であろうと何でもよかった。
 彼女のために何かをしていないと自分の中の日々高まる想いを抑えつけることができなった。

 その日、僕は友人を共なって知花の店に訪れていた。カウンターのいつもの席に一緒に座ったのは友人でフラワーアーテイストをしている工藤と言う男だった。
工藤はDJをしていた若い時からの友人で、あるクラブイベントでフラワーアレンジメントに合わせて僕がDJをして以来、意気投合してもう十年以上の付き合いになっていた。
 この頃、僕は知花の店に行く時はなるべく友人を連れて行くようにしていた。一人で行ってしまうとどうしてもただの店主に対しての態度を取ることができなかったからだ。男性客が多い店内でそれは他の客に対して良い影響を与えないだろうと。
 関西人の工藤はよく喋り、よく飲んだ。この日も何本目かの日本酒を僕よりも早いペースで平らげて上機嫌だった。

「いい店やなあ」
「そうだろ。よかったら使ってくれよ」
「女将さんも綺麗やし、通うわ」
「ああ。頼むよ」
 すると、ひと段落した知花がカウンターの前に立った。
「工藤さんはお仕事は何をされてるんですか?」
 その日の知花は髪をアップにしていた。カウンターの照明に照らされるとその大きな瞳が強調されてより美しさを際立たせた。
「一応フラワーデザイナーってことになるのかな」
「工藤はショーとかイベントとかで花を飾ったりしてるんだよ」
「へえ。じゃあ桜の季節は頼もうかな。お店の中に桜飾りたいの」
「ええよ。春になったらな」

 春。半年以上先。僕らはどうなっているのだろうか。このまま、何も変わらないままなのだろうが。
 それは当然だ。彼女には家庭がある。でも、ほんの少し桜が咲く頃には何かが変わっていて欲しいと僕は願っていた。夫のことも子供のこともあると言うのに、僕は彼女との未来を想像してしまうほど想いを募らせていた。知花が隣にいて桜の花の下で過ごせたらどれだけ幸せだろうと。

「そや、今度京都の寺で花をいけるイベントに出るんや。土日だからよかったらきてや」
「へえ。京都か。修学旅行以来行ってないな」
「せやったら二人で来ればええ」
「いや、彼女はお子さんがいるんだよ」
「あら?そうなん?俺はてっきり・・・」
「京都か。素敵だろうな」
「君はお店もあるからね」
 すると客の呼ばれて知花がカウンターを離れた。
「じゃあ、お前は来いや」
「一人で京都か。それはちょっと寂しいな」
「今回のイベントは結構大掛かりやから来て欲しいねん。特に昔から知ってる奴には」
「考えておくよ」

 一緒に京都に行けたらどれだけ楽しいだろうか。しかし旅行なんて今の知花とできるはずもない。
 そんな相手を僕はカウンター越しにいつまで見守っていられるだろうか。これほどまでに近くにいるのに、何も進展がないままでこの店に通い続けることに耐えられるのだろうか。

 笑顔を振りまく彼女を見つめながら僕はその心のうちを知る術を探したが、見つけることはできなかった。
 答えはいつも彼女の中だけにあって僕は知る事ができないのだ。十年前からずっと変わらずに。

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SONE
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。