健太が行く 年金体験プロジェクトあけぼの荘六畳物語 第一部 年金の星? 誕生
解説(あらすじ)
年金の実態を把握し、今後の年金改革の参考にするため年金体験プロジェクトが発足した。メンバーの一人厚生労働省の官僚嵐健太は、国民年金と同額の月6万6千円で一年間生活する羽目になる。健太が、一年間過ごすことになったあけぼの荘は、只者じゃない老人たちが健太を待ち構えていた。それだけではなく、テレビの密着取材で健太は、囚人のような生活を余儀なくされる。
果たして健太は、年金体験プロジェクトを成功させることができるのであろうか? それとも…。
お断り
この作品は、2009年に著したものです。日本年金機構は、2010年に発足したため社会保険庁となっております。民主党が政権交代した時です。
もう10年以上前になりますが、民主党が政権を取ろうが自民党が政権に返り咲こうが、日本の問題点は10年経っても変わっていません。状況は悪くなる一方ではないでしょうか。
日本の政治の御粗末さは、あまり変わっておりません。個人的な時間の関係もあり、その当時のままの作品を投稿することにいたしました。
読者皆様の反響が多ければ、現在に即した物語に書き直すことも考えなければなりません。
健太が行く
年金体験プロジェクトあけぼの荘六畳物語
(これから物語の始まりです)
この小説を、国民のためと嘘をついて、日本を自分たちだけのために牛耳ってひどい国にしても何の後ろめたさも感じないない厚顔無恥な官僚及び政治家諸氏に捧げます。
いやみか? ですって? あなたは賢い。その通りです。
勿論全員ではないでしょうが、天下りをしている官僚や、政治献金を当然のようにもらっている政治家は該当するのではないでしょうか。
そんな政治家や官僚の皆様のおかげで、この小説を書くことができたのですから、感謝はしています。
第一部 年金の星? 誕生
四月一日。空は晴れ渡り、まだ少し冷たい風が吹いているものの清々しい春の朝であった。
厚生労働省年金局の嵐健太は、複雑な顔をしながら東京郊外にある、これから一年を過ごさなければならないあけぼの荘へ行く狭い道を歩いていた。
駅を降りて十分ほど歩いた健太の周りには多くの畑が広がり始め、ここが東京であることを感じさせないほどのどかな風景が視界に飛び込んできた。
健太は、少し大きめなキャスター付のスーツケースを転がしていた。辺りを見回しながら、時折地図をポケットから取り出してあけぼの荘の場所を確かめていた。スーツケースには、これから生活するすべてが入っていたが、替えの下着などの衣類だけだった。
健太は、晴れ渡った空とは裏腹に複雑な顔をしながら歩いていた。昨日支給された、四月と五月の二か月分の生活費が入っている封筒をズボンのポケットに忍ばせて、とぼとぼと歩くしかなかった。
介護保険料が、二ヶ月分4,633円。後期高齢者保険が二ヶ月分900円。合わせて5,530円。二ヶ月分13万2千円から差し引かれて、12万6467円。これから2ヶ月間を、これだけで生活しなければならない自分の立場を罵りたくなった。
あけぼの荘? いったいどんな所だろうか。健太は、これから住むところの事を考えてみた。名前からして木造の古そうなアパートに違いないと思った。しかし、これから月、6万3千円で生活しなければならない身にとって贅沢は言っていられない。
事の発端は、年金問題であった。消えた年金、年金改ざん、その他社会保険庁の誰が見ても、詐欺としか考えられない問題の尻拭いではないかと思っていた。俺は、社会保険庁の職員ではないのに…。それに、まだ厚生労働省に入局して三年足らずなのに、なぜ俺なんだ? と、自問してみた。あの局長のせいだ! 健太は、年金体験プロジェクトに内定していた自分の上司が、姑息な手を使って俺に押し付けたんだと結論付けた。俺は、国立大卒じゃないから…。と、溜息をついた。
それは、厚生労働大臣の記者会見から始まった。
厚生労働大臣川添京治は、定例記者会見の席上、「今までの様々な年金問題や、これからの年金を考える観点から、年金体験プロジェクトを発足させました」と、胸を張って発言した。
記者たちは一瞬どよめき、「その、年金体験プロジェクトは、どんなプロジェクトですか?」と、一人の記者が質問を発した。
またこいつか…。川添は、顔を覚えてしまった記者に困惑した顔を隠そうとした。
たしか、東日タイムスの尾上という記者だ。こいつは、手ごわいぞと思ったが、一つ咳払いをして、「厚生労働省の職員の中から、一年間年金の受給額で生活させます。レポートを提出させ、これからの年金のあり方の参考にします」と川添は、記者たちにもう一度胸を張って見せた。
「それは、今まで国民を欺いていた社会保険庁の、日本年金機構への職員横滑りと何か関係があるのですか」
尾上は、案の定食い下がってきた。
「国民の関心を、逸らす為じゃないですか?」
「幾らで、体験させるつもりですか?」
他の記者たちも、尾上の尻馬に乗って質問をしてきた。
川添は、矢継ぎ早に発せられる質問に閉口しながらも、「国民の関心を、逸らすつもりではありません」と、質問した記者たちを睨みつけてから、「金額ですが、国民年金と同じ、月額6万6千円で生活してもらいます」と、付け加えた。
「そんなの、できるわけが無い」
尾上は、言下に否定した。自然と大きな声になった。今までの社会保険庁の怠慢、いや犯罪に対する憤りからだった。
尾上の言葉に、会見場はざわめいた。中には、国会審議中のように、「そうだ!」と、野次を飛ばす記者まで現れた。
「そうだ。ただでさえ高給取りの公務員が、六万円ぽっちで出来るはずがない。一週間で逃げ出すのに決まっている」
別の記者は、はなから信じていない発言をした。
「生活が出来なかったときは、どうするのですか?」
尾上の次の質問に、川添は、「その時は、年金を見直します」と、答えるしかなかった。
「本当に、見直すんでしょうね」
尾上は、納得できずに念を押すように尋ねた。
「そんな…」
川添は、一瞬言葉を失って目をひん剥いて少し沈黙した後に、「私を、信用しないのですか?」と、憮然とした顔で尾上を睨みつけた。本人の意思とは別に、大声になっていた。
「後期高齢者保険と、介護保険料は、どうするのですか?」
尾上は、話題を変えた。川添の剣幕に怖気づいたのではなく、これ以上追求して質問を打ち切られるとまずいと考えたからだ。
「もちろん、天引きします」
「それから」
「まだあるんですか?」
川添は、尾上の言葉を遮って辟易した顔で尋ねた。
「本当に、月額6万円で生活させるつもりですか」
尾上は、最後の質問にしようと思った。
川添は、尾上の疑り深い顔を見てそんなに信用できないのかと溜息をつきたい心境になった。会場を見回すと、記者全員が疑り深い顔を川添に向けていた。まずい。ここはなんとかしないと…。
「そうですが…。貴方は、何が仰りたいのですか?」
川添は、尾上のせせら笑うような顔を見て少し、ドキッとした。
「つまり、隠れて誰かが援助したら? 意味がなくなるではありませんか」
尾上は、丁寧な言葉を選んで質問をしていたが、明らかに信じていなかった。
「大丈夫です。抜き打ちに監査しますから。もし、不正が発覚したら、有無を言わさず懲戒処分にします。もし、援助したのが公務員なら、援助した方も懲戒処分にします」
「うそだあ~」
尾上は、疑り深い顔を大臣に向け、初めてぶっきらぼうな言い方をした。
「何が、うそだあ~! ですか?」
大臣は、ムッとして尾上を睨みつけた。
「だってそうでしょ。そんな事出来る訳がない」
尾上も黙ってはいなかった。
「私が、言ってるんですよ」
川添は、演台から身を乗り出して尾上を睨みつけた。
「だから、信用できないと、言っているのです!」
尾上は、川添を睨み返した。
「どうして!? どうしてそうなるんです? 私は、ちゃんと国民の苦しみを官僚に解らせようとしただけじゃないですか。それを、あなた方は、うがった見方しかしない。信用しようともしない…」
川添は、少しうな垂れて愚痴り始めた。
「切れた」
凸凹新聞のカメラマン山田は、川添を見ながら面白がっていた。
「後期高齢者保険を見直すと言ったくせに、トーンダウンしたじゃないですか。社会保険庁の職員だってまともに首に出来ないじゃないですか!
それだけじゃない。あなたは、天からかねが降ってこないと発言されたではないですか。
そんなあなたを、誰が信じますか!? 見直そうとしたが、財源がない。で、終わりじゃないでしょうね」と、川添を睨みつけた。
「面白いことになったな」
山田は、隣に座っている記者の古川に耳打ちした。
「不謹慎な」
古川は、そう言ったものの、川添に冷ややかな視線を向けながら、「無理に決まっている」と言った。
「誰か、賭けないか?」
その時、一人の記者が立ち上がった。
「誰だ?」
全員が立ち上がった記者に視線を向けた。
古川は、立ち上がった記者が、夕刊紙の山岡だと知って、「あいつか…」と溜息をついた。山岡は、突拍子もない行動をとる事があった。
一同が唖然とした顔で山岡を見ていると山岡は、「それぐらいしなければ、馬鹿な大臣は何もしない」と、言い放った。
「馬鹿な大臣とは、何ですか!? 口を慎みたまえ」
川添は、口角泡を飛ばして山岡に抗議した。
「なら、霞が関が一年間、毎月6万6千円で生活できることに、100万円ぐらい賭けたらどうです?」
山岡は、涼しい顔で答えた。
「できないと思っているのですか?」
「もちろんですよ」
「私は、本気だ!」
川添は、そこまで言ってしまってから、まずいと思った。そんな事できないと一番分かっている自分に、賭けが出来るはずがない。が、「しかし、立場上賭けをすることは出来ない。君たちもそれぐらいのことは解っているだろう」と言い訳をしてほっとした。川添は、これで記者たちも大人しくなるだろうと胸を撫で下ろした。
「そうだ。現職の大臣が賭け事などしたら大問題になる」
古川は、そう言って立ち上がった。
川添は、やっと解ったかとほっと胸を撫で下ろした。が、「賭けができなければ、年金を見直すか、それも出来なければ大臣を辞めればいいじゃないですか」と提案した古川に、眼をひん剥いて固まってしまった。
後に引けなくなった川添は、しぶしぶ古川の提案を受けることになった。
それから、厚生労働省の職員の中から人選が行なわれた。本来であれば、局長、課長クラスから選ばれるはずであった。しかし、日本年金機構に移管する業務で、多忙であると言う理由からペーペーの嵐にお鉢が回ってきた。他の部署からも、同じような経緯でペーペーの役人にお鉢が回ってきた。年金体験をするメンバーは、厚生労働省各局から原則一名を選ぶことになり、健太をはじめ、総勢十名になった。
ここが、あけぼの荘か…。健太は、今まで自分が住んでいたハイツとの落差に肩を落とした。
あけぼの荘は、木造の二階建てで一階の中央に入り口があった。入り口は、サザエさんの家のように引き戸で、入り口を開けようとすると途中で引っかった。ようやく引き戸を開けると、真っ直ぐに端まで伸びた狭い廊下があった。廊下の両側に10個ほどのドアが見えた。ドアは木製で、顔の辺りに小さな覗き窓がついていた。入り口を入ると、右側が階段になっており二階に通じていた。階段も木製だった。
局長は、ワンルームだと思えばいい。と、勝手なことを言った。本来ならおまえが住むんだという言葉を飲み込んで、「はあ」と、気のない返事をするしかなかった。
健太は、仕方なしに自分がこれから住む8号室に向かった。ドアの近くまで行くと、数枚の張り紙がしてあるのが目に付き驚いた。
張り紙には、『人殺し!』『税金泥棒!』『税金返せ!』『年金をちゃんとしろ!』『人でなし!』と、朱書きで書かれていた。
「あんたも、恨まれたもんだ」
後ろから、誰かが健太に声を掛けた。
健太は、驚いて後ろを振り返って、「俺が、やったことじゃない」と、反論を試みた。声の主は七十過ぎと思われる老人だった。
「そんな事は解っている。しかしあんたは、厚生労働省の役人だろ」
「そうですが…」
健太は、老人を困惑した顔で見た。いったい何が言いたいのだろうか?
「『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』じゃよ」
老人は、健太の狐につままれたような顔を面白がっているように答えた。
「そんな…」
健太は、がっくりと肩を落とした。
「そう、悲観することもないじゃろ」
老人は、初めて気の毒そうな顔をした。
「どうしてです? こんな張り紙をされたんですよ!」
健太は、人差し指で勢い良く張り紙を指差した。
「だから、あんたが、一年間かけて年金をちゃんとすればいいんだ」
老人は、事も無げに言った。
「俺は、ペーペーですよ」
「『相手変われど主(ぬし)変わらず』じゃよ」
老人は、唐突に答えた。
「何です? それは…」
老人の発した言葉は、健太の知らない言葉だった。
「社会は変わっているのに、役人はそれを知らない。いや、知ろうともしない。つまり、社会が変わる、『相手変われど』じゃ。役人は、変わろうとしない。『主変わらず』じゃ。だから、あんたが馬鹿な木っ端役人どもに、教えてやるんじゃ」
老人は、健太のために易しい言葉を選んだ。
「そんなものですか?」
健太は、疑いの眼差しを老人に向けた。
「あんたでよかった」
老人は、健太をほっとしたような顔で見つめた。
「どういう意味です?」
「もっと偉い役人が来たら、血の雨が降ったかも知れないし、死人が出たかもしれない」
「まさか…」
健太は、驚いて困惑した顔になった。その時、向かいのドアが何かの弾みで開き中から数人の老人たちが、廊下に飛び出すように出てきた。
健太は、一人の老人と目が合った。老人たちは、竹箒や箒を持っていた。
「おはようございます」
健太は、呆気に取られたが、とりあえず挨拶だけはした。老人たちは、ゆっくりと立ち上がると健太を物珍しそうな顔で眺めだした。
「どうかしましたか?」
健太は、ただならぬ雰囲気に戸惑いながら尋ねた。
「ふん。ペーペーか、殴り甲斐がない」
一人の老婆は、溜息をついた。その後に老人たちは、犯罪者を見るような眼で健太を見ながら、「ペーペー相手じゃな」と、言いながらそれぞれ自分の部屋に戻っていった。
「嫌われているようですね…」
健太は、老人たちが引き上げてから溜息をついた。
「当たり前じゃ。良く考えてみろ。政府は、国民のことは考えていない。特に、我々貧乏な老人は、早く死んで欲しいというのが本音だ」
「まさか…」
健太は、老人の言葉を疑った。
「なら、後期高齢者保険を考えてみればいい。健康保険が大変だから、新しい保険制度を造る? ということは、お年寄りには医療費を使わせないということではないのか?」
老人の言葉に健太は、二の句がつけなかった。厚生労働省のホームページを見れば、一目瞭然だった。
後期高齢者保険制度でここが良くなるようなことが書かれてはいるものの、国家の予算が減っているのにも係わらず保険料が安くなるはずがない。
結果保険料が高くなったり、子供の扶養家族から除外され保険料を年金から天引きされることになった。様々な混乱が発生したのに、抜本的に見直すといった厚生労働大臣も結局何もしなかった。「金は天から降ってこない」と発言した大臣に、健太も眉を顰めたものだった。おまえが、金を降らせる立場ではないのか? と。
老人は、健太が固まってしまったのを不審に思った。この若造は、わしの言った意味が理解できているのだろうか? それとも、理解して何も言えなくなったのだろうか? そこで、自分がまだ名乗っていないことを思い出して、「ところでわしは、ここの大家の大家という者だ」と、名乗ることにした。
「大家さんでしたか。で、お名前は?」
「だから、大家健一郎と言う名前だ。大家と言う名前の、アパートの大家…。いや、オーナーだ」
大家は、健太に解るように易しい言葉で言った。
「大家さんですか? なんだかややこしいですね」
健太は、やっと大家の言ったことを理解して、「私は、嵐、嵐健太と申します」と、名乗った。
「良い名じゃ」
大家は、顔をほころばせた。
「そう思いますか?」
健太は、今までのいきさつは忘れて素直に喜んだ。
「そうだ。あんたが、国民の為に嵐を呼ぶんだ」
「私が…?」
健太は、呆気に取られた。
「そうだ」
大家は、うなずいた。
「なぜ?」
「あんたが、年金体験をするからだ」
大家は、頼もしそうな顔で健太を見た。
「そんな…」
健太は、肩を落とした。
「わしに出来ることなら協力するから、安心しろ」
「だって、これからたった6万ぽっちで生活しなければならないんですよ」
「シーッ」
大家は、口に人差指を持って行った後に周りを見回すと、「大きな声を出すんじゃない」と、健太を睨みつけた。
「何故です?」
「あんた。6万も貰っていると知れたら、みんなに袋叩きに遭うのが落ちだ」
健太は驚いて、「何故です?」と尋ねた。
「あんたは、何にも解っちゃいない」
老人は、呆れた顔をした。
「何が言いたいんです?」
「大きな声では言えないが」
大家は、また回りを見回した後で、「このアパートの住人は、ほとんど6万円以下で生活をしているんだ」と言って溜息をついた。
「まさか…」
健太は、テレビのニュースを思い出した。時々、少しの年金で生活している老人が画面に登場する。健太は驚き、「生活保護は、受けないんですか?」と、尋ねた。
「彼らにも、プライドがあるからのう」
「どうやって? 生活をしているのですか?」
健太は、呆れを通り越して興味を覚えた。
「今に解る」
大家は、お茶を濁して、「とにかく、部屋を案内しよう」と、話題を変えて鍵を取り出すと、ドアを開けて先に部屋に入っていった。
ドアの中は、健太にとっては異空間だった。まるで、三丁目の夕日のような時代遅れの部屋だった。ドアの先には半畳ほどの板の間の空間があり、小さなステンレスの流しと、古いガスコンロがあった。ガスコンロは剥き出しで、自動点火ではなくマッチを擦って火を付けてからガス線を開くタイプであった。
その先に六畳の和室があり、小さな冷蔵庫が見えた。天井からは安っぽい蛍光灯がぶら下がっていた。いつも眼にしている丸いやつではなく、工場にあるような長細い蛍光灯だった。天井は安っぽいベニヤ板で、部屋の窓側には、小さな机が置かれその上には、文明の証としてデスクトップのパソコンと埃を被った小さなテレビが置かれていた。が、どう見ても年代ものだった。健太は、恐る恐る部屋の中に入っていった。
大家は、健太の顔色を窺いながら、健太の足元の畳を指差して、「前の住人の麻尾さんが死んでいた場所だ」と、言った。
「死んでいた…!?」
健太は、ぞっとして飛び退くと大家の顔を見た。
大家は、少し不服そうな顔で、「仕方ないだろう。本当のことなんだから。それに、特別に家賃だって安くしたんだ」と言って、死んでいた場所に顔を向け両手を合わせた。
「病気だったんですか?」
健太は、そんなこと聞いていなかったという言葉を呑み込んで両手を合わせた。
「病気? いや、政府の責任だ。つまり、おまえ…」
大家は健太を見ながら、さすがに健太が悪いとは言えず、「いや、君、の所属している厚生労働省の責任だ」と言った。
健太は、大家が言ったことが解らず、眼を白黒させた。
「国の都合で、年金は下がる一方。そこに、介護保険ができて、挙句の果ては、後期高齢者保険だろ。どうやって、生きていくんだ?」
大家は、健太に詰め寄った。
「それは…」
「だから、麻尾さんは、国に殺されたも同然なのじゃ」
大家は、健太が何も答えないのを予測していた。しかし、彼に何とか理解してもらわないと、せっかくこのアパートを提供した意味がない。
「もう来ていたんですか?」
部屋の外から女性の声がして、慌ただしそうに部屋の中に入ってきた。女性は、肩からカメラをぶら下げて小さなポシェットを手に持っていた。ジーンズ姿のラフな格好をしていた。健太は、初めて自分がスーツ姿で、場違いな格好をしていることに気がついた。
「あなたは?」
健太は、女性を不審な目で見ながら尋ねた。
「えー? 聞いてないの!」
女性は、大きな溜息と共に、「まあいいわ。とにかく入って頂戴」と、入り口を振り向いて誰かを呼んだ。
「お邪魔します」
挨拶もそこそこに、一人の男が部屋の中に入ってきた。男は作業着姿で、腰にペンチのような物が入っている革の入れ物を付けており、電気屋のようだった。
「私は、これからあなたに密着取材をする東日テレビの尾上美咲。よろしく」
尾上は、少しだけ頭を下げた。
「私は、厚生労働省年金局の嵐健太です」
健太は、思わず自己紹介したが、「密着取材?」と、怪訝な顔を美咲に向けた。
「だから、役所は駄目なのね。いや、わざと教えなかったのね」
美咲は、そう決め付けた。が、気を取り直して、「年金プロジェクトに、密着取材させてもらうことになったの。取材費は、ちゃんと払ってますから」と仕方なしに健太に説明した。
「取材費?」
「あなたが貰った生活費は、東日テレビから出ているのよ。私のおかげで、あなたは生きていける。つまり私は、あなたにとって社会保険庁のようなものと思ってくれればいい」
美咲は、得意げな顔になって、「もっとも、東日テレビは毎月15万円払っているけどね」と言って、反応を見るような顔で健太を覗き込むように見た。
「そんな…」
健太は、差額の8万円以上がどうなるのか考えるまでもなかった。裏金にするに違いない。
「官僚に、金銭感覚ができたと思えばいいじゃない」
美咲は、健太の気持ちを考える気もないように、事も無げに言った。
「この辺でいいですか?」
電気屋? の男は、ビデオカメラのような物を窓の上にかざしながら美咲に尋ねた。
「そうね」
「あの~」
健太は、美咲の後ろから、ためらいがちに声を掛けた。
「今忙しいんだから」
美咲は、健太を睨みつけると、顔を電気屋に向けて、「ここなら、部屋全体が映るからそこに取り付けて。あと、ガスコンロが見えるところにもね」と言った。
「あの~」
健太のことなど眼中にないように、ビデオの取り付けを子供のように見ている美咲に、健太はもう一度声を掛けた。
「何よ」
美咲は、鬱陶しそうな顔を健太に向けてきた。
「どう見ても、カメラですよね」
健太は、ビデオカメラを見ながら美咲に尋ねた。
「そうよ」
「しかも、防犯ビデオより性能がよさそうだ」
「良く、気がついたわね」
「で、何であそこに取り付けるんですか?」
「だから、密着取材だと言ったでしょ」
美咲は、事も無げに言った。
「そんな…」
健太は、複雑な顔をしながら、「一応、私の部屋なんですから」と複雑な顔をした。
「そう。良かったわね」
美咲は、意に介していないように返事をすると、「私がスポンサーだということを忘れないでね」と言った。
「でも、お金は会社から…」
「いちいち細かいことを、言っていないで」
美咲は、健太の言葉を遮って、「これから、このカメラで、あなたの生活を撮るんだから覚悟しなさい」と、煩わしそうに答えた。
「まるで、テレビの節約生活みたいだ」
大家は、面白がってビデオカメラの設置を見ていた。
健太は、あることに気がついて、「まさか、着替えまで…」と、恐る恐る美咲に尋ねた。
「当たり前でしょ」
美咲は、呆れた顔で健太を見たが、「だれもあんたの裸なんか、見たくない。こっちから願い下げよ。着替え用のカーテンは、付けるから心配しないで」と事務的に言ったつもりだったが、何処か変な感情が入ってしまった。
父親である尾上たちが、定例記者会見で川添大臣の進退にかかわるような約束を取り付けてしまったのがそもそもの発端だった。
実際にプロジェクトの実施に当たり、プロジェクトのメンバーが、社会保険庁のように不正をしたらどうするのか? と美咲の父は川添に詰め寄った。それを解決するのに出てきた案が密着取材だった。川添は、東日タイムス系列の東日テレビに密着取材をさせる代わりに、契約金として一千万円と、毎月のプロジェクトの経費約6万円に必要経費? を合わせて15万円を要求した。
結局東日テレビは受け入れた。密着取材の人選をしていることを知った美咲は、父親が発端だということで半ば強引に密着取材の担当についてしまった。勿論契約金のことは内緒にした。もし彼が知ってしまったらどういうことになるか予測がつかなかったからだ。
「まるで、刑務所みたいだ」
健太は、大きく溜息をついた。
美咲は呆れた顔になり、横目で健太を見ながら、「そんなに、落ち込まなくってもいいじゃない」と人事のような顔をした。
「なぜ?」
美咲の言葉に、人の気持ちが解っていないと思いながらも、「これじゃ、晒し者じゃないか」と言って溜息をついた。
美咲は、まずいと思ったが、「きっと、みんなに笑われるんだ。馬鹿にされて後ろ指差されるんだ」と健太は、俯いて愚痴り始めた。
「もっと、ポジティブに考えて」
美咲は、わざと呆れた顔をした。
「ポジティブ?」
健太は、ぽかんと口を開けて尋ねた。
「そう。あなたが、ちゃんと生活したら、有名になれると思わない?」
「有名?」
健太は、美咲の言葉に驚いて、一瞬固まったものの、「そういう考え方もあるのか…」と呟いた。
「そう。それに、何回か特番を組むから、あなたは、注目を浴びるかも。うまくすれば、本だって出せるかも」
美咲は、健太の言葉を見逃さなかった。少しはやる気になってもらわなければ…。
「本? エリート官僚の年金体験みたいな」
健太は、身を乗り出してきた。
美咲は、態度を豹変させた健太に呆れた。何処がエリートよ!? という言葉をとりあえず呑み込んで、「だから、頑張ってね」と平静を装って言うしかなかった。
「分かった。頑張ります」
健太は、その気になった。
美咲は、あまりの身替りの速さに困惑したが、「そうよ。その意気よ!」と気を取り直しておだて始めた。この調子でうまくおだてれば視聴率が稼げる。美咲は、これからこの男のお守りは簡単だと思った。
電気屋? の男は、二人の会話には目もくれず黙々と自分の仕事だけを行っていた。大家は、口を挟まないで成り行きを見守った方が面白そうだと思い黙って見ることにした。
「終わりました」
電気屋の男は10分ほど経ってから美咲に報告すると、納品書とボールペンを美咲に渡しながら、「サインお願いします」と言った後に、直ぐに手際よく後片付けを始めだした。
美咲は、手早くサインを済ませると、「お疲れ様。ここに置いておくから」と電気屋の背中に声を掛けて、小さな机の小さなスペースに納品書とボールペンを置いた。
「はい。確かに」
電気屋の男は、納品書とボールペンを無造作に胸のポケットに突っ込むと、「ありがとうございました」と、礼を言ってから片付けを再開した。
美咲は、満足そうにビデオカメラを見てから健太に向かって、「あなたは何もしなくても、自動的に撮ってくれるから心配しないで」と、説明した。
「でも…」
健太は、ビデオカメラを少し心細そうな顔で見ていた。
「すぐに慣れるから。それに、変に意識しないで自然にお願いね」
「自然?」
「そうでしょ。これは、やらせじゃ無いんだから」
美咲は、一から説明しなければならないのかと、怒鳴り散らしたくなった。別に政府の肩を持つ積もりは無いが、このプロジェクトを本当に成功させたいとの想いがこの男にはわかっていない。
「そんな…。私は不本意なのに、仕方なくやらされているだけなんですよ」
健太の迷惑そうな顔を見て、美咲はまた怒りがこみ上げてきた。この馬鹿は、自分のおかれた立場が判っていないのだろうか? そう思うと、今度は情けなくなってきた。もっともこの男が、優秀だとか無能だとか言うのではない。ただ、チャンスである事に変わりはない。そのチャンスを、この男は生かせるのか? 美咲は、もう一度健太の顔を見て、無理か…。と溜息をついた。
健太は、自分を見ながら溜息をついた美咲に、「どうしたんですか?」と、怪訝な顔で尋ねた。
電気屋の男は、健太の想いなど迷惑だとでも言いたげに、片付け終わったビデオカメラや機材のケースをビニール袋に詰めて立ち上がると、「官僚もこうなったら情けないもんですね」と、健太にも聞こえる声で美咲に耳打ちしてから、部屋を出て行った。が、「何時やるんです?」と、ドアの外から美咲に声を掛けた。
「五月三日の憲法記念日よ」
美咲が答えると、電気屋の男は少し考えてから、「いい日だ。それって、嫌味じゃないでしょうね」と言うと、嬉しそうな顔をした。電気屋の男とは裏腹に、健太は戸惑いと絶望、それにこれからの不安が合わさって畳の上にへたり込んだ。
「どうしたの?」
美咲は、へたり込んだ健太に声を掛けた。
「やれやれ」
大家は、情けない姿の健太にこれからのことが不安になってきた。
「あなたは?」
美咲は、大家の存在に始めて気がついたように尋ねた。六畳一間の狭いスペースで、気がつかないはずは無い。しかし、健太と不毛な会話のやり取りで尋ね損ねたと言った方が当っていた。この状況から考えると、管理人か大家だろう事は想像がついた。
「このアパートの大家の大家健一郎といいます」
大家は、やっと自分に気がついてくれたとほっとした。
「私は、東日テレビの尾上美咲です」
「それぐらい解っている」
大家は、わざと不機嫌な顔をした。
「すいません。彼との不毛な会話が続いていて、余裕が無かったものですから」
美咲は、素直に大家に謝った。
「不毛で、悪かったな」
健太は、恨めしそうな顔で抗議した。
「いいんですよ。おもしろい漫才を聞かせてもらって、お礼を言いたいぐらいです」
大家は、健太の言葉を無視して、美咲に言った。
「今度は、無視か…」
健太は呟いていから、恨めしそうな顔で美咲と大家を交互に上目遣いで見ながら、「漫才で悪かったな!」と言った。
「ちょうど良かった。大家さん、家賃を払う所を撮りたいんですが」
美咲も、健太を無視していた。こいつの話をいちいち聞いていたら話が進まない。
「そうですか? もしかして、テレビに映るんですか?」
大家は、そわそわしながら尋ねた。
「まだ解りませんが、確率は高いですよ」
「そうですか」
大家は、嬉しそうな顔になった。まだへたり込んでいるままの健太に、「家賃払ってください」と手を出した。健太は、渋々ズボンのポケットから封筒を取り出した。
美咲は、少し慌てて健太の手を取って、「ちょっと待って」と制した。
健太は、怪訝な顔をして、「何で止めるんだ?」と、食って掛かった。
「唐突過ぎるでしょ」
美咲は、腰に両手を持ってきて呆れた顔をした。
「仕方ないじゃないか。あんたが言ったから、こうなるんだろ」
健太も黙ってはいなかった。
「普通、大家さんのところに持って行くでしょ」
「あの、銀行振り込みで構わないんですが」
大家は、控え目な言い方をした。
「駄目ですよ。そんなの!」
美咲は、大家に向かって大声を出した。
「何で!?」
思わず健太と大家が同時に尋ねた。
「だって、テレビなのよ!」
美咲の言葉に健太は、「自然にやれと言ったのに…」と、呆れた顔をした。
「そうそう」
大家も、初めて健太に同意した。
「だって、つまらないでしょ」
美咲は、本音を漏らした。
「そんな…」
健太は、困り果ててしまった。これじゃ、単なる見世物になってしまう。
「それぐらいやってもいいでしょ。高い金払っているんだもん」
「そうだな。あんた、協力してやりなさい」
大家は、健太に向かって言った後にニヤニヤしながら、「そうすれば、わしもテレビにいっぱい出ることが出来るかもしれない」と顔をほころばせた。
「えー!?」
健太は、大家の変化に戸惑ってしまった。現金なやつだ。
「じゃあ、もう一度この部屋を案内するところから始めましょう」
美咲は、健太の想いは無視して仕切り始めた。
「わしは、どうすればいいんじゃ?」
大家は、健太よりやる気になった。
「ちょっと待ってください。カメラマンたちがまだ来てないんです」
美咲は、いつものこととはいえ時間にルーズなカメラマンたちに、これからは一緒に行動するしかない。と後悔した。
その時、外の廊下から足音が聞こえてきた。健太は、凄い安普請だと思った。「これはいい光景だ」という足音の主と思われる面白がっているような男の声が聞こえてきた。
「やっと、御到着か…。よかった」
美咲は、ほっと胸を撫で下ろしたが、「時間にルーズなんだから」と少し機嫌が悪くなった。
健太と大家は、互いに困惑した顔を見合わせた。
「とにかく、二人とも来て!」
美咲は、困惑している二人に声を掛けると勝手に部屋の外へ出て行った。
「とにかく付いていこう」
大家は、健太にそう言うと美咲の後に従った。健太は仕方なしに二人の後を追った。
健太が外に出ると、ドアの向こうから照明の明かりが健太を照らした。テレビカメラは、健太を撮っていた。健太が困惑した顔を向けると、照明が消えて、「いい画が撮れました」と、先ほどの男の声がした。
健太は、ドアの反対側を見て、張り紙をまだ剥がしていない事に気がついてぞっとした。カメラは、ドアの張り紙と健太をいい角度で撮っていた。
「あんた。この張り紙を撮っただろ!?」
健太は、『人殺し!』と書かれた張り紙を指差して怒鳴った。美咲は、健太が切れたことで少しやりすぎたかもしれないと思ったものの、健太にもうちょっと強くなってもらわないと困ると思った。
今回の年金体験プロジェクトは、千載一遇ではないのか? ばかげたプロジェクトではあるものの。年金を見直すいい機会であることは間違いなかった。
「ただ、現実を映しただけです。これは事実です。民意だとは思いませんか?」
先ほどの男は、カメラの向こうから何の気負いも無く普通の声を出した。
「だから、大臣もこのプロジェクトを始めたんじゃないの?」
美咲は、男の弁護に回った。
「とんだ事になった」
健太は、頭を抱えてアパートの廊下にうずくまってしまった。
「そう悲しまなくてもいい」
大家は、健太の肩に手を置いて慰めた。もちろん、カメラに向かって微笑むのも忘れていなかった。反対側の手は、しっかりⅤサインをしていた。
「大家さん…」
健太は、感極まって大家を見上げた。自分の気持ちをわかってくれるのは、大家さんだけだと。大家は、やばいと思い大急ぎでⅤサインをした手を引っ込めた。
「解ったか。これが現実だ。おまえさんは、国家の代表に選ばれたんだ。これから、国民の国家、いや、馬鹿な政治家や愚かな官僚の代表として、国民のさらし者になれ!」
大家はそう言って、人差し指を少し上に上げて、「あれが、真の官僚の星だ。お前は、国民のためにあの星を目指すのだ」と言った。
「なんか、勘違いしていません?」
カメラを抱えている男は、美咲に眼だけ向けて尋ねた。
「さあ?」
美咲は首を傾げたが、何処かで聞いたことがあるような気がした。
「俺は、飛雄馬じゃない!」
健太は、叫んだ。全員が、驚いて健太を見た。が、「巨人の星ですよ。スポ根の」と言った、漫画オタクで通っている音声の男が、横から口を挟んだことで無視されることになった。
「なんだ。どこかで見たと思ったら。アニメだったんだ」
美咲は、音声の言葉でアニメの特番でやっていたことを思い出した。
「そうですよ。あの漫画は良かった」
大家は、はるか昔を懐かしむような顔で笑顔を見せた。
「そうですかね」
音声の男は、鼻を鳴らした。
「どういう事です?」
大家は、音声の男に尋ねた。が、少し身構えた。こういうときは危ないと、長年の経験がそうさせた。
「私に言わせれば、あれは駄作だ。いや、最悪だ」
音声の男は、穿き捨てるように言った。
「何が最悪です?」
大家は、健太を一瞥すると、「今の若者は、根性が無さ過ぎます」と、音声の男に向かって大声を張り上げた。
健太は、どうせまた無視されると思いながらも大家を睨みつけ、「根性がなくて悪かったな」と憎まれ口を利いた。
「ほら、本人もこう言っています」
大家は、健太が同意したと勘違いして得意になった。
「根性だけで、うまくいくと思ったら間違いなんです」
音声の男も、負けてはいなかった。
「そうだ。能力が無ければ、根性があっても駄目だ」
健太は、根性がないと言った大家のことが頭にきて音声の男を助けるように言った。
「ほら、能力の無い人間が言っているんです。確かだ」
音声の男は、健太の言葉で勢いを増した。
「能力が無い!? 何故だ!?」
健太は、起き上がると音声の男の襟を掴んで怒鳴った。
「言わせてもらうが、あんたたち官僚は能力があると思っているだろうが、能力が無いから、ずっと首にならない官僚を選ぶんだ」
音声の男は、負け惜しみとも取れる言い方をすると健太の腕を掴んだ。健太は、男の力に負けて襟から手を離すしかなかった。男は、思いっきり力を入れて健太を弾き飛ばした。健太は、向かいの部屋のドアに尻餅をついた。
ドアが開くと、中から老人が現れて、健太を見てからスタッフに、「桃太郎の鬼退治ですか」と尋ねた。
健太は、老人を見上げながら、「鬼退治!?」と怪訝な顔をした。
「鬼(木っ端役人)は黙っていろ!」
老人は、健太に怒鳴った。
健太は、ゆっくり立ち上がると、「何で、こうなるんだ? あんたらは、何故官僚を眼の敵にするんだ」と、全員を見回して困惑した顔で尋ねた。
「それでは、説明しよう」
カメラマンの男は、カメラを健太に向けながら、「官僚は、公僕ではなく自分たちのためだけに存在する。国民のことは何も考えていない。そのくせ、国民のためにと平気で嘘をつく」と、ゆっくりと健太との間合いを詰めた。
「国民が、どれだけ苦しもうとお構いなし。国民の生活が大変でも、自分たちはちゃんと給料をもらっている。能天気な馬鹿どもだ」
音声の男は、マイクを持ったまま健太に詰め寄った。
「経済危機だろうが、国民が苦しんでいようが、姑息な手を使って、税金の無駄遣いは止めない。必要の無い組織を造って、自分たちの天下り先だけは確保する」
初めて、照明の男が言葉を発した。
「そうね」
美咲は、カメラマンたちをゆっくりと見回してから、「公務員制度改革を骨抜きにして、自分たちだけは甘い汁を吸い続けようと思っている」と、健太に詰め寄った。
大家は、「そうじゃ。健康保険はばらばら。介護保険ができたと思ったら、挙句の果てに後期高齢者保険じゃ。後期高齢者保険でここが良くなる? 子供でも解る嘘をつく」と言って、健太に詰め寄った。美咲たちの鋭い視線が、健太に集中した。健太は、鋭い視線に押されるように、壁に寄りかかって座り込んだ。
健太は、自分を取り囲んだ美咲たちを困惑した顔で眺めながら、「それって、やらせ?」と呟いた。
健太は、理路整然と官僚批判を繰り広げた美咲たちを見て、台本があって自分だけ知らされていないのではないかと疑念を持った。
「仕方ないでしょ。いつも思っていることなんだから」
美咲は、呆れた顔で答えた。
知らないうちに、部屋のドアが殆んど空いていた。アパートの住人は、廊下の異変に気が付きドアの影からいきさつを見守っていた。が、ぞろぞろと廊下に出て来ると口々に、「そうだ!」と叫びながら、集まってきた。
大勢の人が、二重三重に健太を取り巻いた。
健太は、取り巻いた人の勢いに押され、少しの間何も出来なかったが、「俺に…。俺に、何をしろというんだ!」と、俯きながらか細い声で言った。
「だから、プロジェクトを成功させて、官僚が本当に国民のためになるようにするのよ」
美咲は、静かな口調で言った。
「成功させるって…。それって、逆じゃないんですか?」
健太は、戸惑ってしまった。年金体験が失敗に終わったほうが、国民のためになるのではないか? 誰一人年金体験を出来ないほど、日本の年金は酷すぎると…。
「甘いわ」
美咲は、健太を鋭い視線で射た。健太は、困惑した顔を美咲に向けた。
「あのね。他のメンバーが脱落しても、あなただけは最後まで続けるの」
「何故?」
「日本の年金での生活が、どれだけ惨めで人並み以下だということを、国民に知ってもらう方がいいと思わない?」
美咲は、健太に同意を求めた。後ろの住人から一斉に拍手が巻き起こった。
「俺は、モルモットか?」
美咲は健太の言葉に、少し考えてから、「そういう考え方もあるんだ」と感心した。
「他人事だと思って」
健太は、頭を抱えた。
「そうよ。他人事よ」
美咲は、あっさりと認めたが、「でも、さっきも言ったように、あなた次第でチャンスに変える事だって出来るでしょ」と健太に詰め寄った。
「何で、俺なんだ? 他にもメンバーがいるのに…」
「なんだ。そんな事」
美咲は呆れた顔をして、「あなたが、メンバーの中で一番成績が良くなかったから」とあっさり言った。
「成績が悪くて、悪かったな」
「もう一つ」
美咲は、健太の言葉を無視して、「あなたが、官僚らしくなかったから」と、本音を漏らした。
物事を決めるときに、情に流されていては何も出来ないかもしれない。しかし、今の官僚たちは、国民のためになる事にも前例が無いという一言でやろうとはしない。だったら、情に流されようが、国民のために何かをしようとする官僚がいたっていいではないか。美咲は、そんな想いで官僚らしくない健太を選んだのだ。
「何だそれ。褒めているのか? けなしているのか?」
健太は、困惑した顔で美咲を見た。
「これでも、褒めているつもりよ」
美咲は言ってから健太の反応を見るように健太の眼を見て、健太と視線がぶつかってどきりとした。初めて見る、健太の真剣な眼差しがそこにはあった。
後ろで見守っていた住人から、ざわめきが起きて、「そんな事出来っこない」「無理だ」「そうだ、無理に決まっている」と、口々に言い出した。
「俺に、そんなことが出来るのか?」
健太は、住人たちの言葉は無視して視線を美咲に向けたまま尋ねた。
「さあ? それは、解らないけど…」
美咲は、健太を勇気付けることはしなかった。
「あんたしだいじゃ」
横から大家が、話しに割り込んできた。大家は、期待を持っているような顔をした。
「俺次第?」
健太は、目を白黒させながら大家を見た。
「大家さん。無理ですよ」
「ペーペーじゃ駄目だ」
「こんな若造に、何が出来る?」
住人は、口々に悪態をつきながら自分の部屋に戻っていった。が、厳しい視線を健太に向けることは忘れていなかった。
大家は、住民たちを無言で見送ってから健太に向かって、「誰でも、最初はそうじゃ。やっているうちに慣れてくる」と言った。
「そういうもんですか?」
健太は、納得がいかないものの、同意するしかなかった。
「そうじゃ。まだ家賃を、もらっていなかった」
大家は、言ってから手を出した。健太は、困惑した顔で美咲を見た。美咲は、少し考えていたようだったが、頷いて同意した。カメラマンの男は、一瞬驚いて美咲を見たものの何もいわずにカメラを回していた。健太の部屋で、健太が家賃を払う予定だったが、この方が面白いかもしれない。それに、お嬢様の命令とあれば迷うことはない。
「解りました」
健太は、ポケットから現金の入っている封筒を取り出して、一万円札をぎこちなく数えて六枚大家に手渡した。
大家は、ポケットにお金をねじ込んでからおつりの四千円を健太に渡すと、不自然にカメラ身向かって、「確かに二か月分いただきました」と言って、不自然に笑った。
健太は、残金を見て溜息をついた。
「どうしたんじゃ?」
大家は、健太の溜息を見逃さなかった。
「あと、六万ぽっちで二ヶ月も生活しなければならないんですよ」
健太は、恨めしそうな顔で大家を見た。
「あんたは、厚生労働省の回し者だろ」
「嫌味ですか?」
健太は、力なく大家を見た。
「おかしなことを言う」
大家は、健太を横目で見た。健太は、何故おかしい? と、眼で尋ねると、「日本の国の福祉は素晴らしいはずだ。それを、たった六万ぽっちとは…。呆れてものが言えない」と、蔑んだ眼になった。
「しかし…」
健太は、返す言葉が無かった。
「あんたは、まだ若いから無理だと言いたいのだろうが…」
大家は、そこまで言って健太を見た。
健太は、顔色を変えた。「そうです。何かおかしいと思ったら、私はまだ二十代なんです。二十代に、お年寄りと同じ生活をしろと言うほうがおかしいとは思いませんか?」と元気を取り戻した。
「あんたも、今の若い者と同じで想像力が無いのう」
大家は、溜息をついて、「あんたも六十五を過ぎたら、否が応でも年金生活をしなければならないんじゃ。それが、少し早まったと思えばいい。やり方しだいで、年金だって見直されるんじゃろ」と一気にまくし立てた。
健太は、何が少しだ!? という言葉を呑み込んで、「少し…ですか?」と情けない顔を大家に向けた。
「そうじゃ。長い人類の歴史に比べれば、ほんの少しだと思わないか?」
大家は、そう言って豪快に笑った。
「じゃあ、どうしろと?」
健太は、もうやけくそになっていた。
「そうじゃな…」
大家は、少し顎に手を当てて考えていたようだが、「日本の、素晴らしい年金制度を一年間体験させていただくのは光栄であります。ぐらいのことを言ってもよいじゃろ」と、我ながらいい台詞を思いついたものだと独り悦にいった。
健太は仕方なしに、「日本の、素晴らしい年金制度を体験するのは光栄です」と、小さな声で、ぼそぼそと言った。
「声が、小さい!。それにちゃんと立って言え!」
大家は、大声で健太に活を入れた。
健太は、弾かれるように立ち上がって、「日本の、素晴らしい年金制度を体験するのは、光栄です!」と、やけくそになって大声を出した。こんな晒し者は、もうたくさんだ。早く、この状況から脱出したいという想いもない交ぜのおかしな気持ちになった。
「その意気だ!」
大家は、そう言うと、「期待しているからな」と言って満足そうな顔で帰ろうとした。
「大家さん」
健太は、ハッとして大家を呼び止めた。まだ聞いていないことがある。
大家は、健太に振り返ると、「なんじゃ?」と尋ねた。
「お風呂は? それに、トイレも無い」
健太は、美咲が現れて聞きそびれてしまったことを聞いた。
「そんなことか」
大家は、めんどくさそうに、「便所なら、突き当りの右だ。裏に洗濯機があるから好きに使ってくれていい。風呂はないが、風呂屋なら数分のところに亀の湯がある」と言った。
「共同トイレに、銭湯ですか…」
健太は、覚悟していたものの現実を聞くと愕然とした。
「言い忘れた。銭湯代は四百五十円だ」
大家はそこまで言うと、「今のお前さんにとっては大金だから、あまり風呂屋に行かない方がいいかもしれない。風呂に入らなくても、死なないから安心しろ」と付け加えてゆっくりとした足取りで帰って行った。
第一部 年金の星? 誕生 「終」「THE END」「FIN」
目次
第一部 年金の星? 誕生
今ご覧になったところです
第三部 嵐健太の決意
あとがき
※近日公開予定