健太が行く 年金体験プロジェクトあけぼの荘六畳物語 第三部 嵐健太の決意
解説(あらすじ)
年金の実態を把握し、今後の年金改革の参考にするため年金体験プロジェクトが発足した。メンバーの一人厚生労働省の官僚嵐健太は、国民年金と同額の月6万6千円で一年間生活する羽目になる。健太が、一年間過ごすことになったあけぼの荘は、只者じゃない老人たちが健太を待ち構えていた。それだけではなく、テレビの密着取材で健太は、囚人のような生活を余儀なくされる。
果たして健太は、年金体験プロジェクトを成功させることができるのであろうか? それとも…。
お断り
この作品は、2009年に著したものです。日本年金機構は、2010年に発足したため社会保険庁となっております。民主党が政権交代した時です。
もう10年以上前になりますが、民主党が政権を取ろうが自民党が政権に返り咲こうが、日本の問題点は10年経っても変わっていません。状況は悪くなる一方ではないでしょうか。
日本の政治の御粗末さは、あまり変わっておりません。個人的な時間の関係もあり、その当時のままの作品を投稿することにいたしました。
読者皆様の反響が多ければ、現在に即した物語に書き直すことも考えなければなりません。
第三部 嵐健太の決意
1.緊急提言
「大家さん。選挙に出たいんですが」
大家が部屋代を取りに来たときに、健太は思い切って自分の考えを伝えることにした。
「選挙ね」
大家は、そう言うと、まざまざと健太を見て、「偉い!」と言った。
「それほどでも」
健太は、大家が喜んでくれたことが嬉しかった。これで、少しでも日本を変える事が出来るかもしれないと。
「今の若い者は、選挙に行きたがらないからのう。もっともまともな政治家は、いないかもしれないが。それを見極めて、ちゃんと投票してくれ」
大家は、勘違いしていた。
「あの、投票じゃなくって、立候補するんですよ」
「立候補?」
大家は健太の言葉に、怪訝な顔になり、「誰が?」と尋ねた。
「私ですよ」
健太は、呆れながら答えた。
「あんたが、立候補?」
大家は、驚いて健太を見たものの、「冗談は休み休み言うもんだ」と、言ってから大声で笑って取り合おうとしなかった。
健太は大家の態度に、「本気ですよ」と、自分の決意の固さを理解してもらおうとした。
「まさか? 本気で、政治家になるつもりなのか?」
大家は、真剣な顔になると、健太の真意を探るような眼を向けてきた。
「もちろんです」
健太は、胸を張って見せた。
「何故だ?」
大家は、絶句した。
「年金を体験して、この国が酷い国だと実感した…」
「だから、政治家になろうと?」
大家は、健太の言葉を遮って尋ねた。
「はい」
健太は、きっぱりと答えた。
「あんたが、当選できるはずが無い」
大家は、気の毒そうな顔になった。
「それは、分からないじゃないですか」
健太は、大家にだけは分かって貰いたかった。
「あんたがテレビに出て、有名になったからか?」
大家は、有名になったから選挙に勝てると思ったのだろうぐらいにしか思っていないようだった。
「そんな、安易な考えではないです」
健太は、真剣な顔で否定した。
大家は、健太を真剣な目で見ながら腕を組んだ。
「せっかく、官僚という悪の組織から、改心させたのに」
大家は、健太の肩に手を置いて力を入れた後に、「もっと酷い連中の仲間になろうとするのか?」と、健太の肩に置いた手の力を強めた。
「政治家の、何処がいけないんですか?」
健太は、大家の顔を真剣な眼で見た。
「政治家という人種は、まともな人間じゃない」
大家は、健太の肩に手を置いたまま穿き捨てるように言った後に、「日本が、こんな酷い国になった原因は、政治家だとは思わないか?」と、諭すような口調になった。
健太は、今回の年金生活を通して実感として理解するしかなかった。
今まで、官僚が必要でない所に税金を無駄使いして、自分たちの天下り先を確保してきた。少子化問題だって解決できないでいる。そのくせ、高齢化だとか言って、後期高齢者医療制度で老人を苦しめても何も感じない。福祉は、何も無いに等しい。
六万円以下で生活しているお年寄りが、どれだけ悲惨な暮らしをしているか自分の眼で見た健太は、何も返事が出来ないで俯いてしまった。少なくとも、ここの老人たちは逞しく生きている。それが、せめてもの慰めのように感じていた。
本来ならそんな官僚の不正を正し、国民のために政治を行わなければならないはずの政治家は、なぜか子供でも解るような官僚の口車に乗って何もしようとしない。いや、結果的に官僚の言いなりになっている。
もしかすると、官僚と持ちつ持たれつでよろしく日本を牛耳ってきたのかも知れない。
「やっと分かってくれたか…」
大家は、自分の気持ちを理解してくれたとほっとした顔になった。
「まともな政治家だっているはずです」
健太は、小さな声で呟くように言った。
「そうかもしれない。しかし、あいつらだってそのうち悪魔のささやきに自分を失って、権力と金の虜になるんだ。それで、人間ではなくなる」
大家は、もう一度健太の肩に力を入れて説得した。
「だから、だから、そんな事にならないように考えたんです」
健太は、そう言うと大家の手を振り払って部屋の中に入っていった。大家は、健太が何しに部屋の中に消えたか訝った。
健太と大家が気がつかないうちに、騒ぎを聞きつけてきた住人たちが大家の後ろに集まってきた。その中に西条もいた。
「健太さん。当選したら、あなたは人ではなくなるんですよ」
さくらは、部屋の中に向かって叫ぶように言った。
「そうだ。悪魔に魂を売るつもりか!?」
他の住人も、口々に叫び始めた。
健太は、自分が書いた緊急提言を持って入り口に戻ってきて、「あなた方は、選挙に行かないんですか?」と、逆に尋ねた。
「行きますよ」
さくらは、当然の顔をして、「こんな時じゃないと、恨み言は書けないからね」と嬉しそうな顔になった。
「まさか…。白票?」
健太は、驚いて尋ねた。
「いいえ。恨み言を書くんです。あんな小さな投票用紙じゃいっぱい書けないけど、書いた後はすっきりする」
「そう。そう。もっと投票用紙を大きくして欲しいくらいだ」
他の住人も、同じ考えのようだった。
「分かりました。私が考えた、緊急提言を聞いて下さい」
健太は、呆れた顔をするわけにもいかず仕方なしに、自分が書いた緊急提言を全員に聞いてもらうことにした。
「なんじゃそれ」
大家は、怪訝な顔を健太に向けた。
「私の、マニフェスト。昔の言葉で言えば、公約です」
「そんなもの聞いても、意味がない」
「帰ろ、帰ろ」
住人たちは、健太の言葉に耳を貸すつもりもないように口々に言うと、帰り始めた。
「ちょっと待ってください! これは、私一人の考えじゃありません。西条さんから教えを受けて、私なりに考えて書きました」
健太の言葉に、帰ろうとしていた老人は足を止めた。
「何を言っても、無駄じゃ」
大家は、健太に言って少し沈黙した後に、「今まで、彼らがどれだけ国に騙されてきたのか、お前さんは知らないだろう」と付け加えて悲しい顔になった。
「どういうことです?」
健太は、困惑した。
「生まれたときが悪かった。いや、老人になったときが悪かったと言えばいいのかな」
大家は、そう言って少し間をおいた後に、「昔、老人の医療費がただだったことがあるんじゃ」と言った。
健太は、驚いて大家の顔を見た。今とは、大違いだと思った。
「しかし、それがなくなってだんだんと負担が増えた。政府の都合で、国民が振り回される」
「介護保険と、後期高齢者医療制度ですか?」
「そうだ。それに、年金も減っている。本来なら、もっと貰えていたはずだが、年金の破綻を避けるためと、高齢者化が原因だという理由から年金が減っているんじゃ」
大家は、溜息をついてから、「これは、詐欺じゃ」と断じた。
「そうだ。詐欺だ!」
住人の一人が、叫んだと思うと、「詐欺じゃ」「詐欺!」と、帰りかけた住人たちが口々に叫びながら戻ってきた。
「だから私は、政治家になる決心をしたんです」
健太は、住人たちを見回しながら言った後に、「とにかく、私のマニフェストを聞いて下さい」と言った。
「マニフェストを、守るんだろうな」
「もちろんです」
健太は、年金生活で親しくなった中沢の問いに答えたが、「もちろん努力はします。しかし…」と、口ごもってしまった。
「あんたの一人の力では、限界があると?」
「残念ながら…」
健太は、大家の問いに認めるしかなかった。
「とにかく、聞いてあげましょ。どうせ暇やし」
西条は、住人たちに提案すると、「わても、初めて聞く内容やさかい」と言って廊下に座った。
「すいません。最初に、聞いてもらおうと思ったんですが…」
健太は、申し訳なさそうに西条の顔を見た。
「成り行きやろ」
西条は、納得してくれた。
「はい」
「しゃあない。聞いたる。しかし、わては、厳しいで」
西条は、そう言ったものの眼は笑っていた。
「面白そうだ。話だけでも聞いてやるか」
住人たちは、健太の前に来ると、狭い廊下に座り始めて、「何か、長くなりそうだから」と、言い訳のようなことを言った。
「では、発表します。この提言は、西条さんの考えを大幅に取り入れて、私なりに肉付けしたものです」
健太は、気を取り直して緊急提言を読み始めた。住人は、一斉に西条を驚きの目で見た。
「緊急提言。Ⅰ、基本理念 国民を守る。Ⅱ、議員(国会、地方)及び公務員(国、地方)の基本姿勢」
「ちょっと待ってえな」
西条は、健太の話を止めた。西条は、そんなこと一言も言っていないと、思ったものの自分の言ったことを突き詰めるとそうなると思った。が、健太の真意を知りたかった。
「どうしました?」
健太は、話し始めて直ぐに話を止められて少し動揺した。何かまずいことでも言ったのだろうか?
「基本理念が、国民を守る。だけゆうのも何かなあ」
西条は、周りの老人たちに同意を得るように見回して、「もっとあるがな。福祉を充実するとか、後期高齢者保険を廃止するとか」と付け加えた。
「何だ。そんな事ですか」
健太は、ほっと胸を撫で下ろして、「それは、詳細項目でちゃんと触れますから、心配しないで下さい。基本理念は、簡単でいいんです」と、西条に向かって言った。西条は、納得して、「そやったな。基本は、単純や。単純でないとみんな解らへん」と、満足な顔になって笑った。
「みんな。黙って最後まで聞いてやろうじゃないか」
大家は、最後まで話しを聞いてみようという気になった。最初に、国民を守るという言葉が出てきたので、もしかすると…。という気になった。
「大家さんの言う通りにするけど、拍手や、ブーブーと…」
「ブーイングとちゃうか?」
西条は、さくらに、助け舟を出した。
「そう。それをやってもいいの?」
「いいですよ」
健太は、あっさり同意して、「街頭演説の、リハーサルになるかも知れませんから」と老人たちのために付け足した。
「話がまとまったら、さっさとやっちくれ」
江戸っ子だと言い張っている中沢は、健太に催促した。
「では、最初から始めます」
と言って、話し始めた。
「緊急提言。Ⅰ、基本理念 国民を守る。
Ⅱ、議員(国会、地方)及び公務員(国、地方)の基本姿勢。議員、公務員は、責任の所在を明確にする。虚偽の報告をしない。粉飾しない。不祥事は、すべて公開して責任を取る。
税金や年金、健康保険等については、国民からお預かりした大切なお金であると肝に銘じ、使途は国民に開示する。業務の簡素化、標準化を行ない、業務の効率化を目指す」
その時、住人たちから拍手が沸いた。
「まだ、続きがあります」
健太は、少し間を置いて拍手が小さくなってから、「長くなりますので簡単に話させていただきます。最後に質問を受け付けます」と言って全員を見回した。住人たちは、最初とはうって変わって真剣なまなざしで自分を見ているような気がした。
「Ⅲ、提言詳細項目として、政府機能のスリム化地方分権化と、年金、健康保険等の一本化と、福祉の充実さらに、公務員の余剰人員の削減と、公務員の犯罪・不祥事、業務の見直しを行います。
①行政の重複、無駄を徹底的に無くします。個人の税金、年金、健康保険等の徴収を市町村で行なえば、人件費の圧縮が見込まれます。
②道州制を導入し、政府の権限を道州に委譲し政府機能のスリム化。地方分権を行います。
③天下りを全廃します」
そこで、住人から拍手が巻き起こったが、「あほ。まだ決まったのとちゃうやろ」と西条は、呆れた顔をした。
健太は、西条の言わんとしている事が分かった。まだ、絵に描いたもちである。自分が選挙で当選して、国会で決めない限りは犬の遠吠えかも知れない。健太は、そう思いながらも敢えてそのことには触れず、最後まで話すことにした。が、当選できたとしても、本当にそんなことができるのだろうか? 少し不安になったものの、とにかく先のことは、当選できたら考えることにした。
「④税金の無駄遣いを止めるため、不要な独立行政法人をはじめとする公益法人を廃止します。国家、地方公務員、公益法人の余剰人員を削減します。
⑤国有財産を清算します。例として、政府保有株式、国有地、廃止する独立行政法人、公益法人等の資産が考えられます。
⑥道路、トンネル、空港等は、来年度より凍結します。計画している道路等は、住民の意思で続行か中止を決定します。
⑦公務員の給与を、一般的な水準に是正します。一般職員平均年収500万円程度。幹部職員の上限を800万円にします。
⑧国会議員定数は、衆参合計で350名以下とします。給与を、一般の水準に是正します。
総理及び、各大臣の年収の上限を1千万円とし、議員の年収は、800万円程度に抑えます。必要な経費は、仮払金とし、月末に精算します。経費専門のクレジットカードの導入も検討し、議員の経費は、無条件ですべて国民に開示します。
外遊海外視察について移動は格安エコノミー運賃を利用することとし、差額を自費で補填する場合のみファーストビジネスも可とします。帰国後、趣旨、日程、レポートを提出することを義務付け国民に公開します。趣旨、日程、レポートに虚偽の報告がある場合、議員を罷免することも考えています。
⑨市町村議員をボランティアにし、公務に対しては、時給2,500円を支給します。議員専任を希望する者は、生活保護費相当を給与として支給する。以上が、政府機能のスリム化地方分権化の私の案です」
健太は、そこで言葉を切って住人たちを見た。
「生活保護を受ける議員? なんか、面白そうね」
さくらは、そういうと腹を抱えて笑い始めた。
「もちろん、生活保護の金額は考えなければならないと思います。今のままでは、少なすぎる。それは、福祉の充実で述べることにします」
健太は、真面目な顔のままで答えて、次の項目を話し始めた。
「次に、年金、健康保険等の一本化と、福祉の充実を述べたいと思います。
①後期高齢者保険と介護保険を廃止し、健康保険を統合して一つにします。なぜかと言えば、運用の単純化により、経費を抑えられるからです。それから、全国一律の保険制度により、今までの不公平感をなくします。
例えば、設立される全国健康保険協会に全国民が加入し運営を一本化することで人件費が大幅に減ります。
②年金を統合して一本化します。設立される日本年金機構を民間で組織し、全国民が加入することにします。
③福祉の充実を図ります。国民を守る観点から、ホームレスを日本から無くす努力をします。
住居がなくても、生活保護を支給します。ホームレスにも、適用します。生活保護支給と同時に、住居を提供します。
希望者には一時的に、希望する仕事が見つかるまで人手不足の業種仕事を斡旋し仕事をしてもらいます。介護・保育・農業等人手不足の業種を考えています。時給は、千二百円以上とします。理由は、最低これぐらいないとまともな生活は望めません。それに、時給を上げることにより、時給千二百円以下で求人している会社も時給を上げる可能性があるからです。
生活保護を減額し、斡旋した仕事の給与を支給します。生活保護だけで暮らす人よりも多くの収入があるよう配慮します。希望する職種の求人があった場合は、斡旋された仕事を休めるようにします。
臨時雇用として、資格がなくても働けるようにします。希望した職種がなくても、今の仕事が気に入れば正規雇用します。資格が取れるように支援します。病気や怪我で仕事を出来ない場合や就職活動のみを望む場合は、通常の生活保護を支給します。生活保護費は、生活費だけで月額八万円から十万円を考えています。
④医療費は、上限を決めて、それ以上は負担しないで済むようにします。月額五万円ぐらいを考えています。75歳以上の年金だけで生活しているお年寄りは、無料化します。
⑤少子化対策を行います。出産分娩費は無料とします。なお、出産に伴う医療費も無料とします。
誕生した子供に対しては、小学生になるまで医療費を無料にします。高校までは、教育費を無料にします。大学は半分国が負担し、残りは奨学金を誰でも貰えるようにします。なお、学力優秀な学生には、奨学金の返還を免除します。児童手当は、一人月額一万程度を考えています。」
健太は、そこまで話してもう一度言葉を切った。住人たちは、少し困惑した顔をしながら健太から目線を離していた。健太は、とにかく話を最後までしようと腹をくくった。
「最後に、公務員の余剰人員の削減と、公務員の犯罪・不祥事、業務の見直しを行います。
官民交流センターは廃止し、公務員の余剰人員は、ハローワークで仕事を探してもらいます。例外として、保育士等、少子化、高齢化に関係ある資格を有する者は優先的に不足している介護機関、保育所等に斡旋します。農業技術があり、農業従事を希望する者は、優先的に農業に従事させます。医師免許を持っている元官僚に関しては、医師が不足している地域に派遣します。
公務員の犯罪・不祥事について発覚した場合は、府省で調査するのではなく警察・検察で捜査します。起訴された場合は、懲戒免職にします。上司は、減給、降格とします。
組織ぐるみで行った場合は、検察で強制捜査します。組織全員を懲戒免職とします。組織廃止を含めた見直しをします。
犯罪・不祥事の再発防止のため、「公務員監査庁」(仮称)を設置し、全府省、政治家に対して抜き打ち監査を行ないます。少しでも疑いのある場合は提訴して、警察、検察に後を委ねます。証拠隠滅(資料の廃棄等)を図った場合は、犯罪・不祥事の程度に係わらず懲戒免職とします」
健太は、そこまで言って全員を見回すと、「以上が、私の考えたマニフェストになります」と言って、話を締めくくった。
「合格や」
西条は、満足そうな顔をした。
他の住人たちは、全員困惑した顔で隣にいる住人と、「なんか、いいこと尽くめで、本当にそんな事できるんだろうか」、「話がうますぎる」と口々に話し始めた。そのうち、さくらが、「財源は、どうするの?」と、政治家のような口ぶりで尋ねた。
「公務員の削減や無用な組織を廃止して、補助金や助成金をなくすだけでも税金の三分の一の二十兆円ほどは、支出が減ると考えております。それから、無駄な空港や道路を造ることを止めて、独立採算にしてもいいじゃないですか。余計な空港を造る前に、成田とか必要な空港で黒字を出してお金が余れば滑走路を造る。赤字空港ばかり造っていても仕方がないと思っております」
「大家さん。どう思います?」
さくらは、困った顔になり大家に助けを求めた。
「おまえさんの言うことは、当たり前のことで、できないことはないと思う。しかし…」
大家は、浮かない顔をしながら健太を見ていた。
「何か?」
「殺されるかもしれない」
大家は、顔を曇らせた。
「そんな…。健太さんは、国のため今のアホどもが出来ないことを考えたんですよ」
さくらは、大家に食って掛かった。
「そうだ!」
「そうだ!」
「健太さんを守るんだ!」
住人たちは、勝手に健太が殺されると思い込んで騒ぎ出した。
「どうしたの? 健太さんが危ないですって?」
あけぼの荘に到着して騒ぎに気がついた美咲は、異様な状況に咄嗟に大声で尋ねた。
「健太さんが、暗殺されるんです」
さくらは、美咲の存在に始めて気がついて美咲に振り返って答えたが、暗殺されると決め付けていた。
「何で暗殺なの?」
美咲は、暗殺と言う特別な言い方に驚いた。
「だって、国会議員が殺されれば暗殺でしょ。そんな事も知らないんですか?」
「だれが? まさか健太さん?」
美咲は、困惑した顔を健太に向けた。
「なんか、大げさになっちゃって」
健太は、美咲の鋭い視線に驚いて弁解した。
「やっぱり出るんだ?」
「あんた、知ってたんか?」
大家は、呆れた顔をした。
「だって私は、密着取材してるのよ」
美咲は、少し得意そうな顔になったが、「何で暗殺されるの?」と、興味を持った。
「健太さんの提言のせいで」
さくらは、健太が手に持っている紙を指差した。
美咲は、健太の前まで行くと健太から紙を奪い取るように取ると、「下手な字ね」と言いながら、文面を読み始めた。
健太は、下手で悪かったと言うことができないほど真剣に読み始めた美咲に、何も言うことができなかった。緊急提言はパソコンに纏めたものの、プリンターが無いため手書きとなった。
「なるほど、そうかもしれない」
美咲は、緊急提言を読み終わると健太に紙を返しながら言った。
「君まで…」
健太は、驚いて美咲の顔をまざまざと見た。
「マニフェストで言うだけなら問題ないかもしれないけど、本当にやろうとしたら殺されるかもしれないわ」
「脅かすなよ」
健太は、ぞっとした。
「あなた、これを本当にやるつもり?」
「もちろんだ」
「解った。協力しましょ」
美咲は、きっぱりとした口調で言った。
「本気ですか?」
白石は、珍しくカメラを肩からはずしていつもとは違って困惑した顔をした。
「当たり前よ」
「何か問題でも?」
健太は、美咲と白石を交互に見ながら困惑した顔で尋ねた。
「つまり、あなたに公共の報道機関が便宜を図ることは禁止されているの」
「そうそう。テレビで放送されて当選したとなると大問題になる。芸能人が突然立候補したおかげで、番組が没になった事だってあるんですよ」
白石は、健太のために具体例を言った。
「でも、協力すると」
「父に頼むわ」
「おとうさんて、年金体験の言いだしっぺの?」
「そうよ。社説で予防線を張ってもらうの」
健太は、美咲の言ったことが理解できなかった。健太の怪訝そうな顔に気がついた美咲は、「政治家に対するテロ撲滅とかなんとか、理由を付けて書いてもらう」と仕方なしに、説明した。
「何で、そうなるんだ? 俺のマニフェストのどこがいけないんだ?」
健太は、今までの展開に戸惑っていた。
「言わしてもらいますけど」
美咲は、健太を睨みつけた。健太は、自分の書いたマニフェストの何処がいけない? と、無言で美咲に抗議した。
「あなたのやろうとしていることが、国民のためだからよ」
「え? それって、認めてくれたの?」
健太は、複雑な顔をした。
「そうよ」
「でも、似たようなことを言っている政治家だっているじゃないか」
「ここまで言っている政治家は、いないと思わない? それに、結局骨抜きにしている。国民には当たり前のことでも、政治家や官僚には過激な内容よ。殺されても文句は言えないでしょ」
「脅かすなよ」
「何もないかもしれないけど、それぐらい覚悟した方がいいわね」
「そうだ、気をつけることに越したことはない」
大家は、そう言ってから、「及ばずながら力を貸そう」と言った。
2.嵐健太の辞意
「私は、年金体験プロジェクトを辞めさせていただきます」
健太が、年金プロジェクトを辞めたいと言ったことにより慌てた上司たちは健太を呼びつけた。健太が局長室のドアを入って、立ったままで最初に発言した言葉だった。
「まだ、半年も経っていないじゃないか」
本来なら、プロジェクトを行うはずだった局長の二階は、呆れたという顔をあらわにした。それは、本当に呆れているのではなく、何とか最後まで残った健太に年金体験プロジェクトを続けさせようとする圧力であった。
「もう音を上げたのか?」
局次長の古賀は、健太を蔑んだような眼で見た。
「いえ。この金額では、まともな生活が出来ないと悟ったからです。いや、私より少ない額しか年金をもらっていない老人たちがいることも知りました。それに、このプロジェクトをやっている間に、どれだけ弱者が苦しい思いをするかも知りました」
「だから、どうなんだ?」
健太の堂々とした態度に、こいつ変わったなという顔を何とか隠して局長はわざとふてぶてしい顔で、「それぐらい、分かっている。が、年金に回す予算はないのだよ。年金に予算を回したら、日本はどうなると思うんだ」と、健太を睨みつけた。
「お年よりは、今よりまともな生活が出来ます。若い人も、国を信じ安心して国に協力することでしょう」
健太は、物怖じせず自分の持論を言い切った。
「手ごわそうですよ」
同席している局次長は、小声で局長に囁いた。
「あんな若造。丸め込むのはお手の物だ」
局長は、自信のある顔をして、「まあ見て置け」と局次長に小声で答えると健太に向き直って、「少子化は、どうなる?」と尋ねた。
「ここに書いてあります」
健太は、事前に提出した緊急提言を、局長の机の上に置きながら言った。
「分娩費の無料化と、児童手当、それに保育の充実?」
二階は、ちゃんと読んだぞと言いたげな顔をしながら厳しい視線を健太に向けた。
「はい」
「話にならん」
「何が、話にならないのでしょうか」
「税金をばら撒いても、何も生まれないとは思わないかね」
「ばらまくつもりはありません。どうしてもばら撒くという表現を使いたいのであれば、税金をばら撒けば、かわいい赤ちゃんが生まれます」
「そんなの、こじ付けだ。福祉だって、国民からお預かりした大切な税金を使うんだぞ」
局長は、そう言って健太を睨みつけた。
「福祉に重点を起きたいだけです。出産や育児それと教育に、国民がどれだけ負担しているとお思いですか?」
健太は、局長と局次長を交互に見ながら、「どうすれば、少子化は食い止められるとお思いでしょうか」と、逆に尋ねた。
「少子化は、日本だけではない。これは避けられない」
「しかし、日本は激しすぎる。少子化対策をして高齢化を少しでも食い止めないと、年金は破綻すると考えております」
「年金が、破綻するはずがない」
局長は、胸を張って答えた。
「そうでしょうね。破綻しそうになったら、年金の支給額を勝手に下げればいいんですから」
健太は、呆れて局長の顔を見た。
「勝手にとは、言葉が過ぎるぞ!」
局長は、いきなり怒り出した。
「では、国民の同意が無ければ支給額は下げないんですね」
健太は、局長に詰め寄った。
「年金を破綻させないためには、仕方がないではないか」
局長は、苦渋に満ちた顔を健太に見せた。もちろん、子供にでも解るくさい芝居だった。
「老人が、生活できなくてもですか?」
「そんなことは、政治家が考えることで、我々が考えることではない」
健太は予想はついたものの、局長の言葉に唖然として何も言えなくなった。
こいつらは、国民を人間として扱っていないのではないか。それに、どうして他人事のようなことをいえるのだろうか。こいつらには、責任という言葉がないのだろうか。自分達が決めたことに責任を持たずに、政治家の責任に摩り替える。厚顔無恥もここまで来れば、尊敬に値する。やはり、西条が言った藤原氏そのものだと再認識した。
局長は、健太が黙ってしまったことにほっとした。若造が考えることは、この程度か?
「まだあるぞ。産婦人科の国有化? それでは、官僚改革に逆行するではないか」
局長は、得意満面な顔になった。
「そうそう。まるで共産主義みたいだ」
局次長も、局長の尻馬に乗って言い出した。
「誰が、官僚にすると言いました? 公益法人にすれば問題は無いはずです」
「無駄な公益法人は廃止するとここに書いてあるではないか」
二階は、健太の緊急提言を指差してしてやったりという顔をした。当然、自分が健太の揚げ足を取っているだけだという自覚は無かった。
「無駄な、とは書きました。しかし、少子化を食い止めることが、どうして無駄なのでしょうか」
健太は、二階に逆に詰め寄った。
二階は、慌てて、「経済危機はどうする? 道路はどうなる?」と、健太の攻撃をかわして、別のことで健太をやり込めようとした。が、知らず知らずのうちに追い詰められていることに気がつかなかった。
「内需拡大が出来れば、経済危機を克服できるはずです。一部の大企業だけを優遇するのではなく、日本の国民が老後の心配をしないでお金を使うとは何故思わないんですか?
経済危機を声高に言う前に、国民が安心して生活できる日本に変えたいだけです。
このまま少子化が続けば、あと百年もしないうちに人口は半分になるのですよ。新しい道路は、必要なくなります」
「そんな先のことは、わからないじゃないか」
局長は、あっさりと言った。
「解りました」
健太は、怒りを通り越して呆れ果てた自分に驚いた。怒る気にもならない。これが、国民のための官僚なのか。こんな愚かしい上司と、これ以上不毛な会話をするつもりはなかった。
「解ってくれたな」
局長は、満足そうな顔をした。
「プロジェクトを続けてくれるな」
局次長は、ほっと胸を撫で下ろしたが気取られないようにと思い、力強く言った。
「プロジェクトを辞めて、選挙に立候補します」
局長と局次長は、健太の言葉に一瞬呆気にとられた顔をしたものの大声で笑い始めた。
「おまえが、立候補するだと?」
局長は、腹を抱えながら、「こんな稚拙なマニフェストに、だれが耳を貸すものか」と、余計なことを言った。
「そんなことは、やってみなければ解らないじゃないですか」
健太は、憮然としながら、「私のマニフェストが稚拙なら、あなた方官僚が今までやってきた事は犯罪です」と言って、局長を睨みつけた。局長は、健太の剣幕に少し身体を仰け反りながらも、「それが、上司に対する言葉か」と逆に切れた。
健太は、これ以上何を言っても無駄だと思った。霞が関と国民は、住む世界が違いすぎると思って、辞表を局長に叩きつけるとそのまま部屋を出て行った。
局次長は、健太の後姿を見送った後に、「本気ですかね?」と、少し心細そうな顔で局長に尋ねた。
「あんな荒唐無稽で、実現しない絵に描いたもちのようなマニフェストが実現するわけがない」
「しかし、国民受けするかも…」
「万が一当選しても、直ぐに骨抜きになるのが落ちだ」
局長は、気にも留めていないような顔をした。
3.第一声。立候補当日昼下がり
健太は、第一声を年金体験プロジェクトで試食をした駅前のスーパーの前で始めた。年金体験した、あけぼの荘の選挙区から立候補することに決めた。それは、あけぼの荘が自分の原点であるという想いからでもあった。
あけぼの荘の住人たちが選挙を手伝うと言い出したので、選挙が終わるまで今までの部屋を借りることにした。そうすれば、老人たちに負担をかけないと思ったからだ。健太は、金もなく選挙事務所というものもなかった。強いて言うならあけぼの荘の健太の部屋が選挙事務所だった。
選挙の供託金にしても西条の申し出が無ければ集めることすらできなかっただろう。健太は、それでいいと思った。選挙事務所ほど、意味を成さない無駄な代物はないと思っていた。選挙カーなど、あるはずはなかった。老人たちには申し訳なかったが、電車とバスで移動してもらうしかなかった。
自分の住んでいた部屋からパソコンとやっと買ったプリンターを持ち込んで、手作りのマニフェストを印刷した。
あけぼの荘の住人たちは、大家を始め六人集まっていて手作りのマニフェストを聴衆に配っていた。西条は、自分が表立って応援する訳にはいかないと辞退した。が、「あんじょうやりなさい」と健太に活を入れた。
日曜の昼下がり、人々は行楽など様々な目的で駅前にやってきて老人たちの存在に気が付き足を止めた。人々の中には、何をやっているのか尋ねて、健太が立候補して第一声をここで行うことを聞いて予定を変更して演説を聞こうとする人まで現れた。
老人たちは、全員青いTシャツで統一した即席の運動員である。駅前を歩いている人々は、一瞬老人たちの集団に戸惑ったもののマニフェストを素直に受け取ってくれた。一人、二人と足を止めていた人が、知らないうちに老人たちが驚くぐらいの聴衆に膨れ上がっていた。聴衆は、狭い駅前広場に大きな人垣を作っていた。
驚いたことに、テレビ局のカメラが数台健太に向けられていた。その中に白石の顔を見つけるとほっとした。が、美咲がいないことに、少しがっかりした。健太は、群集の多さに一瞬戸惑ったものの、覚悟を決めてスーパーから借りたビールのケースの上にベニヤ板を乗せた仮設の演題に乗った。
スーパーの店長は、もう少しまともな物を貸しますと言ってくれたが、健太はお金をかけない主義ですからと辞退した。スーパーから借りた拡声器で、多くの聴衆を見ながら、「私は、この国を国民に取り返す。いや、初めてこの国の国民が、本来の主権になるために立候補しました、嵐健太と申します」と言って頭を下げた。
白石は、美咲が現れないことを不審に思いながらもカメラを回すことは忘れていなかった。
「私はマニフェストに書いてある通り、国民を守ることだけに専念します。国民を守るということは、福祉を重点的に行い日本を安心して暮らせる国に造り替えることです」
健太が、そこまで言うと携帯が鳴り出した。携帯を切るのを忘れたことを後悔しながらも誰からだろうと携帯を見ると、知らない携帯番号からだった。
「すいません」
健太は、胸騒ぎを覚え携帯に出た。
(おまえの、学芸会のような演説を今すぐやめろ)
男の声だった。何処かぎこちなく文章を読んでいるような口ぶりだった。
「何故だ?」
(おまえが、演説を、いや、立候補を取り下げないと、はねっかえりの命は保障しない)
男は、ぎこちなく凄んだ。
「美咲か?」
健太は、驚いて尋ねた。美咲の顔が見えない理由を悟った。
(頭は、悪くなさそうだな)
「美咲は、無事なのか? 声を聞かせろ」
健太は、携帯に怒鳴った。
「どうしました?」
大家は、異常に気づくと健太のそばで声を掛けた。
「美咲が、拉致されたようです」
(おまえ、誰に言っている? まさか警察じゃないだろうな)
「違う。大家さんだ」
(おおやさん?)
男は、素っ頓狂な声を上げると、(まあいい。おまえが立候補を取り下げたことを確認した時点で、はねっかえりは帰してやる。心配するな)
男は、事務的な言い方をした。
「声を聞かせろ! 美咲の声を」
健太は、そう言うと演台の上にうずくまった。
(健太さん。ごめん)
美咲の声が突然聞こえてきた。
「美咲!」
(どうだ? これで信用したか?)
「何のためだ?」
(日本を、混乱させてもらっては困るんだ)
「混乱だと?」
(もう、そっちは混乱しているようだな)
健太は、聴衆が騒ぎ始めたことを犯人が知っていることに驚いた。近くにいるのか?
「すみません。今急用ができて、候補は演説を続けることができなくなりました。申し訳ありませんがマニフェストを良くご覧になってください」
大家は、健太の代わりに拡声器を持って聴衆に向かって言った。
(残念だが、近くにはいない。が、そっちの状況は手に取るように判る)
健太は、犯人の言葉から何処かにカメラでもあるのかと周りを見回した。
「どうしました?」
不審に思った若い警官がやってきて、大家に尋ねた。
「彼の彼女が、誘拐されたんです」
大家の悲鳴に近い言葉に、健太は、「彼女じゃないですよ」と言った。
「何故? 彼女でもない女性を誘拐したんですか?」
警官は、健太に尋ねた。
「そんな事、知りません」
(何やってるんだ? 誰と話している?)
犯人は、少し慌てだしたようだ。
「何でもない」
健太は、嘘をついた。制服姿の警官が、こんなに近いところにいるのに気がついていない。少なくとも、カメラで見張っているのではないのだろう。
「事情を詳しく」
警官は、健太にしつこく聞いてきた。
「今、そんな状況じゃない。見れば解るでしょ!」
警官は、健太の言葉を無視して携帯を奪い取ると、「今取り込んでいるんだ。少し黙ってろ」と、犯人とは知らずに、犯人に向かって怒鳴ってしまった。
(おまえは、誰だ?)
犯人は、警官が健太の携帯を奪ったとは知らずに尋ねた。
「ちょっと待ってくれ」
警官は、携帯を手で覆うと、「まさか、犯人ですか?」と健太に尋ねた。
「はい」
健太は頷いた。
「何で俺が、犯人と話しているんだ!?」
警官は、真っ青な顔になった。
「あんたが、事情も聞かないで携帯を取ったからだ」
健太は、怒る気にもならなかった。
「でも、どこかで聞いた声だ」
警官は、犯人の声を思い出そうとしていた。
(おまえは、誰だ?)
携帯から、また犯人の声が聞こえてきた。
「治夫か?」
警官は、まさかと思いながら犯人に尋ねた。
(誰だ?)
「俺だよ。勇次だ」
(なんだ、勇次か。懐かしいな)
犯人は、脅迫の途中であることを忘れたのか、馴れ馴れしい声を出した。
「おまえ、今何やっているんだ?」
警官は、懐かしそうな顔になった。
(おれか? 今ちょっとアルバイトをしている)
「アルバイト?」
(簡単なものだ。しかも、成功したら百万円もらえるんだ。とりあえず前金はもらった)
「いいなあ。おれもやってみたい」
警官は、本当にうらやましそうな顔になった。
(残念だがもうちょっとで、終わりなんだ)
犯人は、馴れ馴れしい声になった。
「じゃあ、会おうか」
健太は、警官と犯人のやり取りを信じられない顔で聞いていた。
犯人は、警官の機転? であっさりと捕まった。
「犯人は、見ず知らずの男に頼まれただけだと言ったそうです」
報告に来た刑事は、病院で念のため検査入院した美咲と心配で駆けつけた健太と大家に告げた。美咲の親は病院に向かっているところだった。
「前金で、二十万円もらって、残りの八十万円は、嵐さんが立候補を取り下げた時点で、駅のコインロッカーに入れておくと言ったそうです」
刑事は、淡々と事情聴取の内容を報告して、「おかしな事に、拉致していた倉庫には犯人のために想定問答集が置かれていたんです」と告げた。
「想定問答集? まるで、官僚みたい」
美咲は、呆気に取られた。
「しかし、頭のいい官僚が、そんな証拠残しますか?」
健太は、信じられない顔をした。
「もちろん、状況が状況ですから、官僚の仕業に見せかけたのかも知れません。我々は、そのことも視野に入れて捜査しています」
刑事は、そう言って頭を下げると、「今度は、あなたが狙われるかも知れません。これから、我々で守りますからご安心ください」と言って病室を出て行った。
「とんでもない事になりましたね」
大家は、健太を気の毒そうな顔で見た。
「どうするの?」
美咲は、ベッドの上から健太に尋ねた。
「どうって? みんなに迷惑をかけたんだ。最後までやる」
健太は、そう言ったものの少し心配になって、俯いてしまった。
「怖いの?」
「え?」
健太は美咲の言葉に、「怖いさ」と答えた。
「意気地なし」
「君は、怖くない?」
「怖い。でも、あなたはそれを覚悟で立候補したんでしょ」
「じゃあ、いいんだね?」
「何が?」
「また、君を怖い目に合わせるかもしれないけど、このまま続けてもいいんだね」
健太は、やさしい顔になった。が、眼には闘志が現れていた。
「もちろんよ」
美咲は、健太が自分の事を心配して言ってくれたと解ると嬉しくなった。
病室の外が騒がしくなったと思ったら、病室のドアが開き数人の老人たちが病室に入ってきた。後から困惑した顔で警官が続いた。
「我々が来たからには、犯人には指一本触れさせないから安心しねえ」
中沢は、病室に入ってくるとそう言って胸を張った。老人たちは、どこから調達してきたのかミリタリー服を着ており、手には金属バットを握っていた。
「何ですか? その格好」
「いやあ、支持者になってくれた若者に事情を話したら、くれたんだ。彼は、ミリタリーオタクと言っていた」
「良く病院に入れましたね」
健太は、驚いて尋ねた。
「わしらが、年寄りで安心だと思ったみたいだ」
「嘘よ。散々もめたくせに」
横から、さくらが、口を挟んだ。
「お知り合いですか?」
後からついてきた警官は、困惑した顔で尋ねた。
「大丈夫です。私の支持者ですから」
健太は、警官に言った後に、「無理はしないで下さい」と、老人たちに言った。警官は、健太たちに一礼して持ち場に戻って行った。
中沢は、警官を眼で見送ったあとに、「足手まといにはならんぞ。こう見えても剣道二級じゃ」と胸を張って、金属バットを竹刀のように構えた。
「そうですか…」
健太は、呆れて何もいえなかったが、気持ちは嬉しかった。
「まさか、支持者になってくれた人が一緒に来た…、訳ないわよね」
美咲は、念のために尋ねた。
「一緒だったが、まだ受付でもめている」
中沢は、事も無げに言ってから、病室の入り口を振り向いた。
「あれじゃ、ちょっと時間がかかるかもしれないでですね」
さくらは、面白がっていた。
「まさか…」
健太は、青年がどんな格好でやってきたのか見当がついた。美咲も、同じ事を考えているようだった。
「怪しい者ではありません」
男の声が、外から聞こえてきた。
「十分怪しい」
警備に当たっていた警官の声が聞こえた。
「とにかく、中に入れてください。私は、健太さんを守りに来ただけなんですから」
男は、警官と揉め始めた。
「やれやれ」
中沢は、ゆっくりと病室の入り口に戻るとドアを開けて外に出た。健太は、中沢が加わることで余計にややこしくなる気がして中沢の後を追った。
「だから、犯人が現れたらこの銃で…」
「そのおもちゃで、追っ払うのか?」
警官は、呆れた顔で男の言葉を遮って代わりに答えた。
「いえ。この弾を当てれば、ペイントが体に付きますから何処に逃げても簡単に捕まえられます」
男は、本気のようだった。
「中沢さん、何とか言ってくださいよ」
中沢が現れたことに気がついた男は、すがりつくように中沢に近づいてきた。が、後ろに健太の顔を見つけると、「何とかしてください」と懇願した。
「まさか? このオタクも、あなたの支持者なんですか?」
警官は、半ば呆れた顔で尋ねた。
「はい」
健太は、頷いた。
「解りました」
警官は渋々許可して、「今度こんな格好をして病院をうろついたら、逮捕するぞ」と、男に告げた。
「はい」
男は、警官の言葉も上の空で健太と中沢の後に従って病室に入っていった。
美咲は、男を見るなり、「やっぱり」と言って笑った。
「不肖木村圭吾。嵐健太さんと尾上美咲さんの警護に参りました」
圭吾は、コンバットゲーム用の銃を肩から吊るした格好で、健太に向かって敬礼をしたあと、敬礼をとくと「以上」と言った。
「中でもやってら」
警護の警官が、呆れた声を出すのが聞こえてきた。
健太は、真面目な顔をしたまま突っ立っている圭吾に向かって、「ありがとう。さ、座ってください」と、病室にあった折りたたみ椅子を勧めた。
「いえ。自分は入り口を見張っています」
圭吾は、回れ右をすると入り口の前を睨みつけながら銃に手を置いた。
「オタクなのね。あなたは、筋金入りのオタクなのね」
美咲は、圭吾に向かって尋ねた。
圭吾は、もう一度回れ右をして、「いえ。私は、日本の未来を嘆いているから、進んで志願しただけであります」と、言うとまた回れ右をして入り口の方に向いた。
「なりきっている」
さくらは、呆れた顔をした。
「おい。俺たちのことを、忘れるな」
中沢は、不服そうな顔で圭吾に言った。
「これは、自分の任務です。あなた方は援護をお願いいたします」
圭吾は、顔だけ中沢を振り向いて言った。
(何でしくじったんだ? ばかもん!)
電話の相手は、大声で怒鳴り散らした。
「それが…。頼んだやつがどじなだけでして…」
二階は、顔をすくめながら、やっとのことで弁解した。
(おまえたちは、何で想定問答集を造ったんだ?)
「犯人の、助けになるかと…」
(ばかもん! そんなタイトル付けるな)
電話の相手は、怒鳴り散らした。
「すいません。いつもの癖で」
(まあいい。警察は、捜査を官僚に向けたがっている犯人の捜査かく乱だと思っているようだからいいが、次はないものと思え!)
電話の相手は、少し語気を和らげた。
「はい。今度はしくじりません。でも…」
(でも、何だ?)
「なにも、殺さなくても」
二階は、ためらいがちに言った。
(おまえがいう言葉とは思えないな)
「どういう意味です?」
二階は、電話の相手の言うことが理解できなかった。
(前におまえがいた部署で、どれだけ国民を殺したか、忘れたとは言わさないぞ)
電話の相手は、凄んでから、(うやむやにして、今の部署で威張っていられるのは誰のおかげだと思っている?)と、少し優しい声で囁きかけた。
「あなたのおかげです。忘れたことは、一度もありません。しかし、あれは…」
(おまえたちの職務怠慢だ。いや、知っていながら、何もしなかった。業務上過失致死よりたちが悪い)
「そんな…」
二階は、絶句したが、「キャリアなら、誰でもやっていることですよ。前例が、無いんですから」と自分の身を守ることは、忘れていなかった。
(今からでも、遅くは無い。政治家に、資料を見せてもいいんだよ)
「でも、時効が…」
(おまえは、大ばか者だ。時効が成立していても、このことが明るみに出たらどうなるかは、お前たちが一番知っているはずだ)
「でも、人殺しだけは…」
(嫌と言ったら、資料を政治家に見せるとするか。そうだ。嵐が当選したら、奴に見せよう。面白い事に、なるとは思わないかね?)
「それだけは、ご勘弁を」
二階は、思わず執務机に頭を擦り付けて懇願した。
(おまえたちの責任は、おまえたちで取るんだな。おまえたちの、脳みその無い頭で考えて我々の立場を守るんだ)
電話は、そこで切れた。
「大変なことになった」
二階は、傍らで固唾を呑んで見守っていた古賀に告げた。
「何です?」
「もう後はないそうだ」
「後はない?」
「今度失敗したら、責任を取れと」
「我々の責任じゃないでしょ」
古賀は、そう言ってから俯いて、「話にならない若造のことで、何故我々が責任を取らなきゃならないんです?」と、溜息をついた。
「上は、そう思ってはくれない」
二階も溜息をついた。
「誰だ!? こんなことをした奴は?」
健太の対立候補の大沢三郎は、殆んど運動員がいなくなった夜に選挙事務所の自分の椅子に座りながら秘書に向かって怒鳴り散らした。
「解りません」
「逆効果じゃないか」
大沢は、怒り出した。泡沫候補であるはずの健太が、誰かのおせっかいな行為で逆に注目を集めだした。テレビのニュースでは、健太の斬新なマニフェストに危機感を抱いた誰かの妨害ではないかと解説していた。当然、大沢の元にも刑事がやってきて、不愉快な思いをする羽目になった。
「あんな、人気取りに惑わされるんじゃないぞ。あいつの言っていることは、絵に書いた餅だ。単なる人気取りに過ぎない」
大沢は、秘書に怒鳴りつけるように言うと椅子の背もたれに身体を預け、両目の間を手で揉み始めた。
秘書は、黙って突っ立っていた。そんなこと言っても、あんたは、何一つやっていないじゃないか。という言葉を呑み込みながら。
大沢は、秘書が突っ立ったままなのに気がつくと、「もういい。今日は帰って休め」とうんざりした顔で命令した。
「はい。お先に失礼します」
秘書は、立場上大沢に深々と頭を下げて帰って行った。
大沢は、秘書を目だけで見送ってから腕組みをした。ちくしょう。誰だ、こんなことをした奴は。大沢は、ハッとした。やはり官僚の誰かに違いない。他に考えられるのは、利権がなくなりそうな企業かそれとも過激な右翼。どのみち、自分には関係ない。と、思いたかったが、刑事が事情を聞きにきた事を考えれば俺の再選は危うくなるかも知れない。大沢は、これからの対策を考え始めた。
俺が、何でこんな苦労をしなければならないんだ? 野党の候補があほだかららくらくと当選していたのに、あんな若造が現れて、しかも若造を妨害する事件がおきて俺が疑われる。
みんな、あいつのせいだ。嵐とか言う若造が現れなければ、俺の当選は確実だったのに…。と、健太に対する憎しみが、殺意に代わるのに時間は掛からなかった。
4.選挙カーの男
健太は、老人たちを従えてゆっくりとした足取りで駅前の商店街の入り口にいた。午前十一時、買い物客がまばらな商店街だった。
「このたすき、何とかならないのかな」
健太は、外人が見たら変な顔をする滑稽な格好に閉口していた。
「少しの我慢ですよ」
「それに、俺はタクシーの運転手じゃない」
健太は呆れた顔で、手袋をはめた手を眺めた。が、「俺は無いが、戦国時代の武将じゃないんだ。旗指物まである」と呆れ返った。
「当選して、あなたがばかげた制度を変えればいいんです」
大家は、健太が当選するものと信じて疑わないようだった。
「おれが?」
「そうですよ。そんな格好をしなければ候補者だとわからないなんて、情けなさ過ぎます」
大家は、健太の姿を見て呆れた顔をした。
「だから、国民に関心を持って…」
その時他の意味で、異様な健太たち一行を見つけた主婦が駆け寄って、「頑張ってください」と、握手を求めてきて大家の言葉を遮った。良く見るとその主婦は、健太が電子レンジを買いにいったときに健太を最初に見つけた主婦だった。
「あなたは…」
健太は、主婦を驚きの目で見た。
「あなたが、気に入っただけ。それに、官僚らしくないから」
主婦は、照れ笑いをして、「だから、頑張って、ばかどもをやっつけて」と言った。
それを契機に、買い物客の主婦たちが集まってきた。
その時、「公務員制度改革を、推進する大沢三郎です。大沢三郎を、よろしくお願いいたします」と選挙カーで駅前のロータリーをゆっくりと走っている、対立候補の大きな声が聞こえてきた。
大沢は、健太たちを目ざとく見つけると、「嵐候補、頑張ってください。エールを送ります」とマイクにがなると、「大沢三郎もよろしくお願いいたします」と言ってから、健太の前をゆっくりと通り過ぎていった。
大沢三郎は、苦りきって、「公務員制度改革は、俺だってやっているんだぞ。あんな、若造にできるわけは無いじゃないか。それに、一気にやってしまえば、混乱が起きる。違うか?」と、隣に座っている秘書に声を掛けた。
大沢には、泡沫候補のくせにという勝手な思い込みがあった。が、もう少しで、眼の上のたんこぶは無くなるはずだ。無くならないまでも、誰も寄り付かないことだろう。大沢は、秘書に感づかれないように窓の外の健太を眺めながら薄ら笑いを浮かべた。
秘書は、今まで何一つ実現していないくせに、と言う言葉を呑み込んで、「そうですが…」と困惑した顔になった。
選挙民は、誰も大沢が公務員制度改革を本気でやっているとは思っていないことだろう。事実この馬鹿は、何一つやろうとしていない。ただ、与党を吊るし上げているだけ。
与党が、本気でやろうとしたらそれに乗っかって自分の業績にする。やろうとしなかったら、与党のせいで出来なかったと言って自分の保身を図る。
そんなやり方が今まで通用してきたのは、対立候補の与党の候補者が愚かだったからではなかったのか? 新しい候補者の健太は、やるつもりだ。もちろんこんな馬鹿や愚か者の国会議員の中で、まともなことを言っても通用しないかもしれない。しかし、国民はちゃんと見ていることを、大沢にも認識して欲しいと淡い期待を持った。
「おまえは、心配しているのか? あんな若造が、俺に勝てるはずはない」
勘違いしている大沢に、「そんなことはありません」と秘書は答えるしかなかった。
「何で、あんな事言うんだ?」
健太は、呆気に取られて過ぎ去ろうとしている選挙カーを眺めた。
「スポーツマンシップのつもりか?」
大家も、首をかしげた。
「単なる外交辞令よ」
最初に駆け寄った主婦は、履き捨てて、「あんなの、気にしなくていいわ。どうせ口だけなんだから」と付け加えた。
「あんなのうるさいだけ」
別の主婦も、迷惑そうな顔をした。
「そうそう、右翼の宣伝カーよりうるさい」
健太たちを取り囲んだ有権者たちは、嫌な顔をして選挙カーを見送った。
「選挙カーか、あると楽じゃな」
大家は、呟いてしまった。
「すいません。お金がないばっかりに」
健太は、素直に謝った。
「いいじゃない。車がなくっても」
買い物客の一人は、そう言うと、「うっとうしいだけよ。騒音、いや、立派な公害よ」と健太を慰めるようなことを言った。
「ありがとうございます」
「応援するから、あんな馬鹿に負けちゃだめよ」
買い物客は、そう言って健太の手を取った。
健太は、買い物客の握手攻めにあってもみくちゃにされてしまった。
「大家さん。こういう時どうすれば?」
「そうだな。ちゃんと選挙を見てればよかった。まあ、成り行きに任せるんだな」
大家は、もみくちゃになりながら豪快に笑った。
5.立候補三日目夕方
男は、鋭い目を演説している健太に向けると、とあるマンションのエレベーターではなく階段を登り始めた。男は、スーツ姿で今では珍しい金属製のアタッシュケースを持っていた。
男は、四階で廊下に出ると、階段から一番近い部屋に消えた。男は、玄関の戸を閉めると鍵をかけて土足のままで部屋に上がりこんだ。部屋は、家具が一つもなく埃がうっすらと積もっていた。窓には白いカーテンが掛かっており男の存在を隠してくれていた。
男は、窓際に来るとアタッシュケースをあけ、中から分解された狙撃銃を取り出した。日本も物騒になったものだと自嘲気味に笑うと、銃の組み立てに掛かった。
一分後、男は窓を少しだけ開けると、サイレンサーのついた銃口だけを窓の外に突き出して、健太の頭に照準を合わせた。照準器には、健太とその周りの数台のカメラと多く詰め掛けている聴衆が映っていた。男は照準の倍率を変えて、健太だけが照準器に写るようにした。
近くで警察が、警備していることであろう。しかし、俺のようなプロ中のプロが狙っているとは、思いもしない平和な国民だと思いながらチャンスを窺った。あいつは、自分の未来があと数秒だとも知らないで…。男は、狙いを定めながら運の悪い奴らだとターゲットの健太にいつもの想いを込めた。
今だ! 男が、引き金に指をかけたとき、何かが手を這っていることに気がつき男は手を見て、「ゴキブリだ!」と叫んだ。男は、驚いた瞬間に引き金に掛けた指に力が入って発砲していた。銃弾は、健太とは相当離れたスーパーの窓ガラスを直撃して、ガラスが大きな音を立てて割れた。
失敗した! 男は、そう思ったのも一瞬、ゴキブリと目が合って身体が勝手に震えだした。
健太を警護していた刑事は、ガラスが割れたことで狙撃されたと直感した。聴衆は、ただ驚いただけだったが、プロであると自意識過剰の刑事は、狙撃されたのに違いないと思い辺りをすばやく見た。どこだ? 何処なんだ? 刑事は、慌てて見当違いのところを見ていた。
美咲の拉致犯人を捕まえるきっかけをつくった警官が、刑事の前にやってくると、「あのマンションじゃないんですか?」と、カーテンの揺れているマンションの一室を指差した。
「素人は、黙っていろ」
刑事は、警官を睨みつけた。
「だって、あそこは誰も住んでいませんよ。なのに、カーテンが揺れている」
「何で、そんな事が解る?」
刑事は、こんなど素人に関わっていたら犯人に逃げられると思ってつっけんっどんに尋ねた。
「私は、この辺の住宅を回っています。それに、あの白いカーテンは、住人が付けたんではありません」
警官は、呆れた顔で刑事を一瞥すると、「中の畳が焼けないように防いでるんです」と揺れているカーテンを指差した。
「解った。見てくればいいんだな!」
刑事は、マンションを指で指して犯人がいたら感づかれるぞということは考えず、ずっと指差している警官に向かって、「違ったら、左遷してやる」と捨て台詞を残して、他の刑事たちとマンションに向かって走り出した。
部屋までたどり着くと、部屋には鍵が掛かっていた。刑事たちは全員警官の元に戻って、どうすれば鍵が開けられるか尋ねた。もちろん、見張りを残しておくことは頭には無かった。平和な街で、狙撃事件が初めてだったからではない。能力が、無かっただけのことだ。
犯人は、刑事たちがもたついていたにもかかわらず呆気なく捕まってしまった。刑事たちがマンションに踏み込むと、犯人はまだゴキブリを見ながら怯えていた。ゴキブリは、一匹から三匹に増えていた。
刑事たちは、犯人を捕まえることだけを考えて健太の周りに警護の刑事を残すことは考えておらず、結果的に若い警官だけ残ってしまった。健太は、ただならぬ気配を感じて演説を早めに切り上げた。ガラスを割られて後片付けを始めたスーパーの店員たちは、何でガラスが割れたのか分からず困惑した顔で後片付けを続けた。
健太は、若い警官がマンションの一室を睨みつけていることに気が付いて、「どうかしましたか?」と、声を掛けた。
「それが…」
警官は、まだビールケースの上にいた健太を振り仰ぐと困惑した顔をした。狙撃されたことを、言うべきだろうか。警官は急いでまだかなり残っている聴衆を見回して、下手なことを言ったらパニックになると思い直した。それに、狙撃は一度だけ。犯人は、とっくに逃げているに決まっている。警官は健太に視線を戻すと、「何でもありません」と、とぼけることにした。犯人が呆気なく捕まったことは、まだ知らなかった。
その光景を、別のビルから見ていた男がいた。俺の前座としては、情けないほど下手くそなヒットマンだ。狙撃したと思われるビルを冷ややかな顔で一瞥したが、あいつのおかげで俺の仕事が楽になったと感謝しなければと思い直すと、健太に視線を戻した。
あいつが、混乱の張本人か。いや、俺の飯の種か。とほくそ笑むと、サイレンサーを付けていないサブマシンガンを健太に向けた。誰だか分からない依頼者は、派手にやってくれと言った。
殺せとは言ったものの、結果的に死ななくても聴衆を混乱させればいいというおかしな依頼だったので男は敢えて命中率の悪いサブマシンガンを選んだ。
対立候補の誰かか、若造を憎んでいる誰かだろうと予想はついた。しかしそんな事は、俺に関係のないことだ。あの若造は、さっきの狙撃といいよっぽど憎まれたものだな。と、哀れみの視線を健太に向けると、ヒットマンの顔になり照準を健太に向けた。
「これは、何だ?」
割れたガラスの後片付けをしていた店員の一人が、商品の陳列ケースにめり込んだ茶色っぽい金属を見つけて首をかしげた。
たまたま店員の近くで健太の演説を聴いていた木村圭吾は、その言葉を聞いて何の気なしに振り返ってめり込んだ金属を見つけてしまった。圭吾は、店員を振り払って陳列ケースに駆け寄ると、「本物だ!」と、歓声を上げた。店員は、よろけたが何とか倒れることは免れた。
「何してる!? 何が本物だ?」
店員は、後片付けの邪魔をされた若い男に怒鳴った。
「だから、これは本物の銃弾なんだぞ! 日本では本物を見ることは不可能に近い」
圭吾は、興奮していた。
「まさか?」
他の店員も、片付けの手を休めて圭吾の周りに集まってきた。
「銃弾て…。まさか、鉄砲の弾?」
圭吾に怒鳴った店員は、困惑した顔になった。
「本物に違いない」
「どうして、こんなところにあるんだ?」
店員は、面食らって圭吾に尋ねた。
「君は、ばかか? それとも無知か?」
圭吾は、溜息をついた。
「そんな言い方するなよ。分からない物は分からないんだ」
店員は、不服そうな顔になった。
「では、教えてあげよう。つまり、誰かが銃を撃って、スーパーのガラスに当たって弾が陳列ケースで止まった。ただそれだけだ」
圭吾は、素人はいつもこんなくだらないことを質問すると嘆いた。
「でも、銃声はしなかったぞ」
店員も、負けてはいなかった。
圭吾は、辺りを見回して、「この状況だと、狙撃銃に、サイレンサー。つまり、銃声を消す装置をつけて撃ったんだ。プロだ! プロの犯行に違いない。日本にもいたんだ…」と言った途端にあることに気が付いた。まずい! 圭吾は、慌てて健太の方に突進して行った。
「あいつは、何しに来たんだ?」
店員は、首をかしげた。
「あばよ」
男は、健太に別れを告げて単発モードにしたサブマシンガンの引き金に手をかけた。男の、ターゲットに対するいつもの儀式のようなものだった。
「健太さん!」
圭吾は、健太に向かって大声を張り上げた。健太さんが危ない。圭吾は、血相を変えて健太に駆け寄った。
「どうしたんです? 今日は、まともな格好をしていますね」
健太は圭吾を振り向いて、圭吾がミリタリールックではなくTシャツにジーンズ姿であることが不思議に思えて尋ねてしまった。
「そんな事は、どうでもいい。危ないんです」
圭吾は、興奮して咄嗟にどなった。
健太は、圭吾が興奮していたために何を怒鳴ったか分からず少しかがんで、もう一度聞こうとした。その時、パンという乾いた音がして、銃弾が健太のこめかみを掠めた。
「ちっ」
男は、舌打ちをした。悪運の強い奴だ。男は、サブマシンガンを連続モードに変えた。こうなったら、あの男が死のうが生き残ろうが知ったこっちゃない。マガジンに残っている弾を全部撃って、混乱に乗じて逃げるだけだ。
それで、俺の役目は達成される。男は、一応健太に照準を合わせて引き金を引いた。乾いた連続音と共に、数十発の弾丸が銃口から健太に向けて撃ちだされた。
「ここは日本だよな」
銃声に驚いた聴衆の一人は、咄嗟に身を屈めながら友達に尋ねた。
「そうだよ。何で、こんな時に下らんことを聞くんだ?」
「だって、どう見たって本物だ!」
聴衆の一人は、肝を潰してうずくまってしまった。他の聴衆は、事態が飲み込めず右往左往するしかなかった。
美咲は、咄嗟に健太のそばに駆け寄った。が、健太のビールケースで造った演壇は粉々に壊れ、健太は折れたベニヤ板の上に倒れていた。健太の運動員の老人の一人は、「空襲だ!」と、昔の悪夢が蘇ったのか、怒鳴りだした。
「誰か! 救急車! 救急車を呼んで!」
美咲は、倒れている健太の傍らにひざまずくと、当たり構わず怒鳴った。
「今連絡します」
警官は、慌てて携帯電話を取り出した。
「どうなってるのよ!」
美咲の声は、虚しく駅前の広場に消えていった。
銃声は、数秒にも満たなかったものの始めて本物の銃声を耳にした聴衆たちは、銃声が消えてからも銃声の音が耳に残っていた。聴衆たちは、どこからかまた銃撃されるのではないかと辺りを恐る恐る見回していた。依頼主の要求は、達成されたといってよい。
健太を狙撃した男を逮捕した刑事たちは、銃声がやんで少し経ったころに戻ってきた。自分たちのミスをカムフラージュするために、銃を両手で構えながら辺りを慎重に窺うふりをしながら。犯人は、逃げた後だろう。
どうせ犯人を追い詰めることができたとしても、相手がマシンガンではこっちが危ない。心の中では、助かったとほっとしていたものの聴衆の手前格好だけはつけようとしていた。刑事といえども、官僚の一員であることに変わりはなかった。
救急車は、もう向かっているはずだ。後数分で到着すると警官に告げられても、美咲にとって今の数分間はとても長い時間に思えた。美咲は、呆然とベニヤ板の上で横たわっている健太を見ていることしか出来ない自分が情けなくなった。健太は、どうなるのだろうか? 美咲は、我にかえると恐る恐る健太の首に自分の手の甲を当ててみた。「生きてる」美咲は、ほっとした。が、素人の美咲にはなすすべが無い。
数分後、やっと救急車のサイレンが聞こえてきた。サイレンが大きくなる中、救急車のサイレンに混じってパトカーのサイレンも聞こえてきた。一台ではない。複数。それも多くのパトカーが、こちらに向かっているのだろう。美咲は、不協和音に似たサイレンの合奏を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。が、救急車から降りてきた救急隊員に、「これから、病院に搬送しますから、離れてください」と言われ、名残惜しそうに立ち上がると健太から少し離れた。
美咲は、少しほっとして、圭吾が近くにいたはず…。と、思い出したように慌てて辺りを見回した。
「ちくしょう! やられた」
圭吾は、血まみれになった腕をベニヤ板の下から抜くと、血の付いたつばをペッと地面に吐いてからゆっくりと立ち上がった。
「無事でよかった」と呟いた美咲は、立ち上がろうとした圭吾のそばに駆け寄って立ち上がるのに手を貸しながら、「もう一人負傷者がいます」と、救急隊員たちに向かって怒鳴った。
「大げさですよ」
圭吾は、笑いながら言った。
「だって、血が出てるのよ」
「これは、かすり傷ですよ。重傷なら、もっと違う痛みがあるはずです」
「呆れた。こんな時まで、戦争ごっこ?」
「私は、任務を果たせなかった」
圭吾は、運ばれていく健太を見送りながら、健太に向かって真剣な顔で敬礼をした。
「縁起でもない。彼は、まだ生きているのよ」
「嘘だ!」
「何で、そんなことが判るの」
美咲は、圭吾に食って掛かって、「脈もちゃんとあるし、それに出血もないみたいだし」と付け加えた。
「もういいんですよ」
美咲は、圭吾の苦渋に満ちた顔を見てしまって、「え?」と、想わず尋ねてしまった。
「私のことを気遣って、言ってくれている事ぐらいわかりますよ」
圭吾は、肩を落とした。
「だから、生きている。本当よ」
「そんな…。この瓦礫を見れば、判るでしょ。あれは、空砲じゃなかった」
「だから…、何? 実弾なら、必ず当たって死ぬとでも思った?」
美咲は、呆れた顔を圭吾に向けた。
「私は、こう見えても専門家です。拳銃じゃないんです。命中率が悪いといっても、サブマシンガンなんですよ。それに、そんなものを日本でぶっ放すなんて、完全にプロのヒットマンに決まっています」
圭吾は、ちゃんと事実を美咲に伝えなければいけないと思い、苦渋をかみ殺して平静を装った。
「私の言っていることが、信じられないの!? あそこにいるは、健太さんなのよ! あなたの為に、死んでいる健太さんを生きていると言うほど私は、冷静になれるとでも思っているの!」
美咲は、圭吾に詰め寄った。
圭吾は、美咲のあまりの剣幕に圧倒されて押し黙った。
「お取り込み中のところすいませんが、けが人を搬送するので…」
救急隊員は、圭吾に肩を貸しながら、「怪我は、腕だけですか?」と、尋ねた。
「頭の中を、徹底的に見てもらったほうがいいわよ。思い込みが、少しはよくなるかも」
美咲は、担架に乗せられている圭吾に皮肉たっぷりに言った。圭吾は、その時自分の思い込みだったことを悟った。少なくとも、今は生きているんだ。しかし、予断を許さないに決まっている。美咲さんは、強がっているが、健太さんは相当な重傷に違いないと最悪の事を考えていた。
「あなたが、付き添ってくれるんですか?」
救急隊員は、美咲にためらいがちに声を掛けた。
「もちろんよ」
美咲は、圭吾を睨みつけながら、「あのばかが、変なことを口走ったら救急車から放り出すかもしれないけど」と言いながら、圭吾より先に救急車に飛び乗って健太のそばに座った。後から運ばれてきた圭吾と、病院まで目を合わす事がなかったのは言うまでもない。
「この歳になって、こんな音を聞くとはな」
中沢は、昔のようにうつ伏せになって頭を腕で押さえながら、戦時中のことを思い出していた。あの時は、まだ国民学校に通っていた少年だった。東京の空襲が酷くなって集団疎開をしたが、一回だけ艦載機の機銃掃射に出くわしたことがある。あの時と同じ人間の夢を引き裂く音だと思い起こして、次に、狙いは健太に違いないと恐る恐る頭を上げると健太が演説していたビールケースの演壇を見て凍りついた。思わず「健太さんがいない」と大声を出した。
「健太さんが…」
「ほんとうだ。いない」
運動員の老人たちは、よろよろと立ち上がると瓦礫と化したビールケースの演壇の跡に集まってきた。
「健太さんなら、救急車で病院に運ばれましたよ」
警官は、ありのままをそのまま言った。
「怪我は!?」
中沢は、警官の襟首を掴んで怒鳴った。
「そんな大声出さなくっても聞こえます」
「おまえの事は、どうでもいい! 健太さんがどうなったか教えろ!」
中沢は、老人とは思えない力で警官の襟首を少し持ち上げた。
「そんなこと知りませんよ」
中沢は、警官の首筋から手を離すと警官を突き飛ばして、「役に立たない奴だ」と、穿き捨てるように言った。
「そんな…」
警官は、呆気に取られると、「何故自分だけこんな目にあうんだ」と嘆いた。が、当然誰からも見向きはされなかった。
「警護の刑事は、どうした!?」
中沢は、最悪の事を考えた。アメリカ映画では、真っ先に刑事が殺される。が、刑事たちは、まだ拳銃を構えたまま駅前の広場をうろうろしていた。
「この役立たずが!」
中沢は、刑事たちに向かって怒鳴った。
道路には、今到着したばかりのパトカーから大勢の警官が飛び出してくるところが見えた。聴衆たちも、安全だと思い始めたのか、一人、二人、三人と立ち上がり始めた。それから、駅前は事情聴取する警官と聴衆のやり取りで騒然とし始めた。電車も銃撃の騒ぎで止まっていた。
救急車から降ろされた健太と圭吾は、急いで「救急」と書かれた入り口を入り治療室に向かった。寒々とした病院の雰囲気が苦手な美咲も、そんな感傷に浸っている余裕はなかった。圭吾が、別の治療室に向かったことも気が付かなかった。
「健太さんを、助けてください」
美咲は、治療室に居合わせた医師に向かって懇願した。
「何処を、撃たれたんです?」
医師は、健太の全身を眺めながら美咲に尋ねた。何処にも出血している気配はないし、銃弾の穴も見えない。まさか、全部外れた?医師は、健太の悪運の強さに舌を巻いた。
「そんなの、判んない」
美咲は泣き出して、「でも、動かないんです」と、涙声で訴えた。
医師は、健太の肩を叩きながら、「判りますか?」と、健太の耳元で大声を出した。
「判りますか?」
医師は、何度も健太の肩を叩きながら大声を出した。美咲は、ハラハラしながら医師の後ろから祈る思いで健太を見つめた。
暫く医師の呼びかけが続いたが、健太は、「うっ」と、呻き声を上げて医師の方に顔を向けると、ゆっくりと眼を開けた。
「健太さん…」
美咲は嬉しさのあまり、それ以上言葉にならなかった。
「あなたのお名前は?」
医師は、健太に尋ねた。
「嵐健太です」
美咲は、医師の問いに思わず答えてしまった。
医師は、美咲を振り返って、「私は、彼に尋ねているんです。これは大事なことだから静かにしていてください」と、静かだが、迷惑そうな顔を美咲に向けた。
「あなたのお名前は?」
「嵐、嵐、け・ん・たです」
健太は、自分で答えた。
「よろしい」
医師は、他にも子供に尋ねるような質問を繰り返してから、「念のために、CTを撮りましょう」と静かに告げると、看護士を呼んだ。
「ありがとうございます」
美咲は、医師に礼を言った。
「単なる脳震盪だと思いますが、念のため検査をします」
医師は、美咲にも告げた。
健太は、検査を受けて病室に戻ってくると先に圭吾がベッドの上で申し訳なさそうな複雑な顔をしていた。美咲は、圭吾から視線をはずしていた。
「圭吾さん。ありがとうございます。あなたは、私の命の恩人です」
健太は、そう言うと、圭吾に向かって深々と頭を下げた。
「え?」
何も知らない美咲は、呆気に取られた。
健太は、美咲のために事のいきさつをかいつまんで話した。
「そうだったの?」
美咲は、健太からいきさつを聞いて圭吾に、「ごめんなさい」と、素直に謝った。圭吾の傷は、単なる擦り傷だった。骨にも異常はなく全治一週間という診断結果だった。が、銃撃にあったということで、今日一日健太とともに入院することになった。
「銃声には、肝を潰しましたが。すごい迫力でした」
一歩間違えれば、死んでいたかも知れない圭吾は、そんなことはお構いなしに貴重な体験をしたと興奮していた。が、「これからは、私が責任を持って、健太さんを警護します」と胸を張って見せた。
「そうね。あいつらよりも、頼りになるかも…」
美咲は、いつの間にか消えてしまった、警護の刑事たちのことを思い返していた。あんな奴らより、よっぽど頼りになる。現に、健太を救ったのは、圭吾だと聞かされた後はなおさらだった。
「頑張ります」
圭吾は、張り切りだした。
6.美咲の怒り
(衆議院議員候補、嵐健太氏が二度に渡り襲撃を受けました。)
二階は、夕方のニュースで健太がまだ生きている事を知った。
「なぜだ!?」
二階は、アリバイを兼ねたゴルフから帰ったばかりだった。テレビの速報も知らず、テレビをつけたらいきなりニュースが飛び込んできた。さっきまでの浮かれた気分は、一瞬にして絶望に変貌した。
仲介役の男は、腕は確かだと言っていたのに…。と、絶句した。
自分たちの素姓が解らないようにしたので、ニュースで確認したら残金を払うことになっていた。
(最初の襲撃犯は、候補を狙撃しましたが、弾は近くのスーパーのガラスに当たりガラスが割れました。幸い、怪我人はいませんでした。犯人は、現行犯逮捕されましたが、逮捕された時にゴキブリを見て怯えていたそうです)と、ニュースキャスターは、二階の問い掛けに答えるように言った。
「ゴキブリが、怖いだと!? 畜生! 見掛け倒しめ!」
二階は、怒りを通り越して呆れている自分がおかしくなった。
(何故か理由は分かりませんが、そのあとすぐに何物かが候補に向け銃を乱射して逃走しましたが、候補は奇跡的に軽い軽傷ですみ同時に軽傷を負った木村圭吾さんとともに、念のため都内の病院に検査入院しております。警察は、全力で逃げた犯人を追っております。
なお警察は、今回の二つの事件が関連があるか、慎重に捜査する方針です)と、締め括った。
「悪運の強い奴だ」
二階は呟くと、「他にも、いたのか…?」と怪訝な顔になったが、現実のことに気がついた。また怒鳴られるんだろうなと、溜息をついた。二度の失敗で、もう嵐に近寄ることもできないだろう。あいつを、殺すことはできないと観念した。が、万が一当選したときはまた手立てを考えるしかない。
結局俺も、あいつにとっては単なる使い捨てに違いない。はねっ返りの誘拐に失敗したとき、電話で怒鳴られたことを思い出して、苦虫を噛み潰したような顔をした。自分は、高みの見物。自分だけは安全なところにいて、日本を影で牛耳ってやがる。やばくなったら、俺なんかひとたまりも無い。
対立候補の大沢は、ニュースを見ながら誰も見ていない事を確認すると大きな声で笑った。大沢にとって、健太の生死は問題ではなくなっていた。
殺してしまうより、あいつが悔しがっている光景を考えるだけで幸せになることができた。至福の時と言っていい。捕まったらどうなるのかまでは、考えていなかった。が、最初にあいつを撃ったのは誰だろうか? と、考えてみた。あいつを葬ろうとしたことに感謝はするが、自分には関係ない。
美咲は、病院の面会時間が終わるとその足で局に戻った。その時、同僚から事件のことで特別番組が始まったと聞かされ、何も考えずに特別番組をやっているスタジオに押し掛けた。が、よっぽど怖い顔をしていたのだろう。二人のガードマンに、あっさりと捕まってしまった。
「離しなさいよ!」
スタジオの入口で、二人のガードマンに両腕を掴まれながら美咲は叫んだ。美咲は、入口のドアを睨みつけると、「私を出させて! 何とか言ってよ!」と、喚きちらした。
「やれやれ」
苦り切った顔で、番組のディレクターが現れた。
「あっ」
美咲は、ディレクターを見つけると、「お願いだから、出させて」と、ガードマンに両腕を掴まれたまま懇願した。
ディレクターは、美咲を少し見つめていたが、「いつもの君なら、多少の無理は聞いてあげてもいいが、今の君では無理だ」と、毅然とした態度で告げた。
美咲に付け入る隙はなく、体全体の力がぬけて崩れ落ちた。ガードマンの助けがなければ、怪我をしたかもしれないほどだった。ディレクターは、無言で美咲を見て美咲と顔が合ってしまった。美咲は、怒りよりも何かを訴える顔に見えた。
ディレクターは、ため息をつくと、「仕方ない。CMの時間中に、試験的にだぞ。その時おかしなまねをしたら、つまみ出すからそのつもりで」と、仕方なしに同意した。
美咲は、やっとスタジオに入ることを許された。
スタジオでは、『テロに屈しない政治を』という大きなゴシック体で書かれた看板が掲げられていた。
西条がデビューした? 時の司会も努めた都築かおりが司会をしており、政治家は、与党から厚生労働大臣の川添京治と、中堅議員の古川俊彦。野党からは、大林新太郎が出席していた。
コメンテーターとして、詫間信一郎と河口のぼる。それに、西条正子。政治学者の、東陶大学准教授の今川正治。最後に、元警視庁捜査課長、山県啓志といったそうそうたるメンバーだった。ディレクターがスタジオの端から見守る中、美咲は一瞬たじろいだが、何故か茶番劇を見ているような気になった。
何が、『テロに屈しない政治を』だ!? もう、犠牲者は出ている。今更、こんなトーク番組を放送したところで、何の意味があるのだろうか?
「あなたたちは、こんな処でなにやってるの」
美咲は、スタジオで討論していた政治家やコメンテーターに噛み付いた。その中に、西条がいたことも美咲の怒りを増幅させた。
「こんなところで話し合っている場合じゃないでしょ」
美咲は、ディレクターとの約束を忘れて出演者に向かって怒鳴ってしまった。
「その言い草は、何だ!?」
川添は、美咲を烈火のごとく怒鳴りつけた。CMの最中という開放感も手伝って、本性丸出しになった。美咲が、西条を川添が出演した討論会に無理やり出演させたことは、知るよしもなかった。
中堅議員の古川俊彦は、川添を一瞬厳しい顔で睨みつけたもののすぐに柔和な顔を造ると、「相手は、お嬢さんなんですから」と言って美咲に視線を移して少し頷いてから、美咲に優しい眼差しで、「君が考えている事をどうしたら実現できるか、みんなで話しあっているところだよ」と、優しい声で話しかけた。
川添は、俺をコケにしやがってという言葉を呑み込んで静観することにした。あまり威張っていると思われると、またあのばあさんになんていわれるか判った物じゃない。ここは、穏便に済ませた方が得策だとの個人的な考えからだった。
美咲は、機先を制された格好になった。少し冷静になった美咲は、「でも…。健太さんは、殺されかけたのよ」と、さっきの剣幕が嘘のようなか細い声になったものの、眼は古川をじっと見つめていた。怒りをはらんだ眼から、何かを訴える眼に変わっていた。
「そうやね。危ないかった。でも、残念やけど、過ぎてしまった事は何を言うても始まらないんとちゃうか?」
西条は、美咲に哀しい眼を向けた。
美咲は、はっとした。西条は、本当に悲しんでいるのだと感じた。健太さんだけではなく、今回の事件を通して今の日本の情況を悲しんでいるのだと。美咲はそう受け取って自分の迂闊な行動を恥じてうつむいてしまった。
西条は、自分を信じてくれた美咲に感謝した。今の彼女にとって、『過ぎてしまった事』とは、辛い言い方には違いない。しかし、これから起きるかもしれないテロをほうっておく訳にはいかないと、自分に言い聞かせながら、「そやさかい、襲撃の様子を詳しゅう聞かせて」と言って隣の空いている席を眼で指した。
「いいんですか?」
美咲は、西条の言葉に居心地の悪い気持ちになった。
西条さんは、私の気持ちを理解してくれている。川添は、真剣に考えているのだろうか? 単なる自己アピールのためにやって来たのではないだろうか? と思うと、後には引けないと自分に言い聞かせた。他の人間は、無視することにした。西条の言うとおりに、空いている席にゆっくりと座った。
かおりと、目が合った。かおりは、少し笑ってから頷いた。川添は、前回同様自分が無視されているような空気を感じた。俺は、大臣なんだぞ! と、怒鳴りつけたい心を抑え、自分のアピールの機会を窺っていた。ディレクターの姿は、いつの間にか消えていた。
「本日は、衆議院議員候補の嵐健太氏に密着取材していて襲撃に遭遇された、当東日テレビの記者、尾上美咲に現場の模様を報告してもらいます」
かおりは、CMが終わってカメラに向かって言った。カメラが美咲に向けられた。
美咲は、お辞儀をすると、「政治部の尾上美咲です」と、名乗ってから自分が見た健太襲撃の一部始終を主観を入れずに語った。そのつもりではあったが、多少は主観が入ったかもしれない。しかし、今の美咲にはどうしようもない事だった。
「で、あんたは、どう思う?」
美咲の説明が終わった後に、西条は尋ねた。
美咲は、一瞬戸惑ったものの、「嵐候補が年金体験をする時は国民から敵のように見られて、今度国民のために立候補したら闇討ちのように感じました。もしかしたら、政治家や官僚が関係しているかも知れません」と、西条を見ながら答えた。
美咲は、そこまで言うとチラッと川添の顔色を窺った。それは、川添が恐ろしいからではなく、どんな顔で自分の話を聞いているか確かめたくなったからだ。川添は、平静を装っているものの明らかに不機嫌な顔をしていた。
俺をないがしろにしやがって、という心が顔に現れているようだった。政治家とは、この程度の者か…。美咲は、健太が立候補した真意を垣間見たような気がした。政治家は、勘違いをしている。政治家は、職業ではないのだ。それを、職業、いや家業のようにしている政治家がいかに多いか。
「政治家や官僚たちと、国民がいがみ合う国って、まともな国だと思いますか!? 政治家か官僚のどちらかがやったとしたら、独裁国家じゃないでしょうか!?」
「その通りやで」
西条は、美咲の問いかけに間髪入れず相槌をうってから川添に向き直り、「あんたは、どう思う?」と、尋ねた。
川添は、また二番目かと嫌な顔を一瞬覗かせたが、直ぐに真面目な顔を造ると、「仰るとおりだと思います。しかし、国民は勘違いしているんじゃないですか?」と、言って話を切って全員の反応を待った。
「ちゃうで」
西条は、間髪いれずに川添を睨みつけた。
いつもの記者会見やインタビューに慣れていた川添は、勘違いって何ですか? という問いかけを期待していた。そうくれば、もう俺の独壇場だと高をくくっていた。やばい! このばあさんを、忘れていた。
まだ、話の途中だ。このばあさんは、俺の話し方を知っていて俺に話をさせるつもりはないようだ。と、思いながらも、「何が、違うんですか!? 官僚といっても、一握りの身勝手な官僚が牛耳っているだけですよ。それを、官僚全体の罪みたいなことを言われては不本意です。これから、官僚の改革を行わなければならない我々にとって、官僚と全面対決するわけにはいかないんですよ。ちゃんと、全体を見てください」と、守勢に回る羽目になった。が、美咲の、政治家が関係しているという発言は無視することにした。官僚の責任にしておけば、火の粉は自分には降りかからない。という想いがあった。
「ほな聞くけど、年間のタクシー代が数百万の官僚や、居酒屋タクシー、事故米、それだけやないで、農水省のヤミ専従。他にもぎょうさんあるけど。時間がもったいないんでやめとくが、あんたの言うことが正しんやったら、みんな一部の高級官僚になる。ちゃうか?」と、川添にわざと嫌味な顔を向けた。
「そんな…」
川添は、一瞬固まってしまったが、「私は、そんなつもりで言った訳ではありません。官僚の中には、改革派と呼ばれる官僚もいることを国民の皆さんに理解していただきたかっただけです」と、当たり障りのない答えをした。川添は、事実を言ったが、改革派の官僚は当然冷遇されている。その事に川添は触れなかった。
「そうか。改革派がいるんか?」
西条は、わざと驚いたような顔をして、「そんな事は、どうでもええ。あんたらがしっかりせえへんから、こんな結果になるんや」と、川添を睨みつけた。
「何で、私なんですか?」
川添は、呆気に取られて思わず尋ねてしまったが、「この場にも、他に政治家がいるじゃないですか」と、古川と大林を引き合いに出した。
「あほ。自分が大臣だということを、わきまえてから話しなはれ。それに政治家は、官僚をちゃんと働かせなあかんやろ。官僚は、この国に巣食うウイルスや。そやさかい、独裁国家と言われても仕方ないやろ」
「そこまで言いますか?」
川添は、西条の言葉に唖然として、「だから、官僚が邪魔になったあの若造…。いや、嵐健太候補を襲撃したとでも、仰りたいのですか?」
川添は、失言をしたことに気が付き慌てて訂正したものの生放送のため失言は全国に放送される結果となった。川添の目的は、今回の討論会にかこつけて自分の存在をアピールすることにあった。このばあさんのおかげで、台無しだ、と。途方にくれた。
「それは、判らん。そやけど、前にも何ぼもあったことや。その都度、対策を取ってきたけど、時間が経ったらみんな忘れてしまう。もう、これでおしまいにしたいんや」
「西条さんの、仰るとおりです」
山県啓志は、自分の出番がやってきたと思って答えてから、「犯人は捕まっていますが、動機が曖昧で何のために犯行を行ったのか釈然としていない場合も見受けられます。対策にしても、後手後手に回っている事は否めません」と、説明した。
「つまり、本当のところは分からんいうこっちゃな。替え玉いうことも考えられる」
西条は、溜息をついた。
「はい。最近信じられない理由で殺人をする事件が増えていますから、なんとも言えないところです」
山県は、本音を言った。
「ほな、防止する手立ては?」
「ありません」
山県は、即座に答えた。スタジオは、ざわめいた。
「警察にできることは、狙われていると判明した議員や候補者を警護することだけです」
山県は、困惑した顔で少し目を伏せた。
美咲は、山県の言葉に思わず立ち上がって、「そんな! 健太さんは、また狙われるかもしれないのよ! 国民のために、まともに戦っているのよ。そのどこが悪いと言うの? なのに、殺そうなんて…」と、一気にまくし立てて息をつくと、「それを、こんな卑劣な方法で葬り去ろうとするなんて…。私は、断固戦います。この国が偽物の民主主義ではなく、国民のための本物の民主主義を勝ち取るまで!」と言ってしまった。美咲は、言い終わるとまたやってしまったと、自分の浅はかさを思い知った。不思議と後悔はしなかった。眼だけで、怒っているだろうプロデューサーを探した。が、プロデューサーは美咲の視界から消えていた。
美咲は、被害者が健太だと言うことで必要以上に怒りを覚えたのかと自問してみた。答えは見出せなかった。自分の考えている事は、間違っていない。それだけは胸を張って言える。
「よう言うた。卑劣な犯罪に、屈してはあかん。」
西条は、そう言うと拍手しだした。スタジオから拍手が起こった。川添は、仕方なしにおざなりの拍手をしたが、顔は誰もいない方向を向いていた。かおりは、拍手をしながら自分の司会者の立場がなくなったことを悟った。まあいいか。私は、彼女のような真似はできないと自分の限界を感じてもいた。
7.復活
健太は退院したその日の夕方に、襲撃が起きた駅前に立った。つまり襲撃された翌日の事になる。道行く人は、健太を見て複雑な顔で通り過ぎたが、一人、二人と、足を止める人も現れだした。健太の周りには、不測の事態に備えて十数人の制服警官が警備をしていた。
美咲は、危険だからと止めたが健太の意思は固かった。健太を迎えに来た、運動員が板に付き始めた老人たちも、「戦争に比べれば、お遊びじゃ」と言って結局同行することになった。
健太は、ハンドマイクを増えだした聴衆に向け、開口一番、「皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と、謝罪すると深々と頭を下げた。
「あんたのせいじゃない」
「そんなこと無いぞ」
「退院おめでとう」
聴衆から、そんな声が聞こえてきた。
健太は、選挙の勝敗などどうでも良くなってきた。国民は、怒っている。それを、あほな政治家や独りよがりの官僚たちに知ってもらうことが出来れば、俺が選挙に出た甲斐があったと痛感した。と、同時に責任の重さも知る事になった。
どんな結果になろうとも、最後までやり抜こうと決意して頭をあげると、「ありがとうございます」と言ってもう一度頭を下げた。聴衆から、拍手が巻き起こった。演説は、何事も起こらず無事に終了した。
大沢はニュースを見て、自分がとんでもない事をしてしまったと初めて悟った。
「こいつ。もう退院したのか?」
「これじゃ、うちも危ないな」
運動員の呟きが聞こえてきて大沢は、どうやって若造を始末しようか考え始めた。下手にあいつを狙っても、警備が厳重になった今となっては成功する確立はゼロに等しい。俺が、選挙に負けても三ヶ月以内にあいつを始末できれば繰り上げ当選になる。大沢は、そう自分に言い聞かせて自分を慰めた。
健太は、精力的に選挙区を回った。有権者に呼び止められれば、時間をかけて自分のマニフェストを熱っぽく語った。対立候補の大沢たちが、選挙カーで選挙区を何回も回って自分の名を連呼していたのに比べ、地味な選挙戦だった。健太は、有権者とじかに接することの方が、何回も選挙区を回るより重要だと悟った。気が付いたときには、選挙戦最終日を迎えていた。
「当選したら、どうします?」
古賀は、テレビのニュースで当選しそうな勢いの健太のことが心配になり、二階に向かって尋ねた。
土曜の夕方休日出勤という名目で、局長室のドアの鍵を閉めて二階と古賀は今後の対策を検討していた。官僚のトップからまた叱責を食らった二階は、古賀を巻き込んで自分たちの未来を左右しかねない健太の事を考えていた。
ただでさえ天下りがやりにくくなってきている。政権交代になったらと、思っただけでぞっとするのに、政権交代以上の考えを示した健太に危機感を覚えた。
健太を襲撃した以上、後戻りは出来ない。官僚のトップにしても、自分に災いが降りかからないように二階たちに責任を押し付けたに違いない。犯罪を匂わす言葉は極力避けているから、二階たちが捕まったところで二人が勝手にやったことだと白を切れば殺人教唆にもならない。
「心配するな。懐柔してやる」
「失敗したくせに」
古賀は、年金体験のときの二人のやり取りを思い出し二階を指差していた。二階は、暗にその指はなんだ! と言う眼で睨みつけると、古賀はやばいと思い指を素早く引っ込めて眼で謝った。
「懐柔できなかったら、今度はゴキブリを怖がらない奴に頼んで始末してやる。三ヶ月以内にな」
二階は、その時の光景を思い浮かべているのか薄ら笑いを浮かべた。どうせ、繰り上げ当選するやつは、どっちに転んでもあほだ。口だけで、公務員制度改革をやろうともしない。そんなやつらは、懐柔してやる、と。
古賀は、二階の顔を見てまた失敗するのに決まっていると思い始めていた。こんなことをしていたら、そのうち本当に警察に捕まって天下りができなくなると、溜息を付きたい気分になった。二階が見ているので、我慢することにした。
「ゴキブリが怖くない奴を選ぶんだ」
二階は、自分に言い聞かせるようにもう一度言って机の上を我が物に歩いている大きなゴキブリを見つけた。
「ゴキブリだ!」
二階は、悲鳴を上げて椅子からずり落ちると腰を抜かしたのか這って逃げだした。
健太は最後の演説を、第一声を発した駅前で行った。土曜日の夕方日も陰り夕闇が近くなった頃、多くの聴衆は真剣に健太の演説を聞いていた。
演説の最後に健太は、「何度も申し上げているとおり私は、二重行政だけではなく、二重政治も無くす所存です。つまり、国会議員の役目は、地元に道路を造ったり、不要なダムや空港を造るのではなく。外交や防衛などの安全保障と、福祉や年金、少子高齢化、医療などの社会保障。さらに、この国の未来に対するビジョンを示すことが仕事だと思っております。道路やダムなどは地方に任せ、国は調整役に徹します。
国会議員の定数を半数以下に抑え、歳費は半減するのが妥当と考えます」
聴衆の拍手が、健太に聞こえてきた。健太は、聴衆の拍手が小さくなるまで待つことにした。
「少なくとも私は、実行いたします。歳費と呼ばれる給与を、毎月五十万とし、余った金額は返却する事を宣言します。もちろん、ボーナスは全額返上します。それでも、皆さんより多い額になるかも知れません。
何年か経ってサミットで、おまえの年収はいくらだと聞かれて、日本の首脳が、二千万だと答えたときに、俺は、一千万だ。どうだ、凄いだろう。というような会話が聞かれるようにしたいぐらいです」
聴衆から笑いが巻き起こった。
「文書通信交通滞在費と、立法事務費と呼ばれる経費については、仮払いと位置づけ請求書を付けて残額を返上いたします。これは、私が初めてではありません。先達がいたことを始めて知りました。先達は、何も言わなかった。しかし私は、公言します。そうして一握りでも国会議員が、私と行動を共にしていただきたいと切に願っております。私は、議員を職業とは捕らえず、日本人の義務と感じて参議院三期十八年。衆議院は、四期若しくは、十六年のどちらか短い期間を上限として、それ以上再選されないよう提案したいと思います。それは、十何回当選だと胸を張って貰いたくないからです。政治を私物化されて一番困るのは、国民だからです。議員は、何回当選したかではなく、何をやったかが問われる世の中にしたい」
聴衆から、拍手が巻き起こった。
「そうだ!」「その意気だ」という、野次も聞こえてきた。健太は、少し話を切って聴衆の反応を見ていた。
「更に、真の民主主義を実現するために、供託金を三百万から立候補希望者の昨年の年収の十二分の一に変更することを提案します。用意できなくても、国が低利で貸し付けて、被選挙権を持っている国民なら誰でも立候補できるようにすることが、この国の真の民主主義に直結すると信じているからです。
供託金をなくしたり安くしたりすれば、面白半分で立候補されては混乱が起きると考えている国会議員がいることも確かです。そうでしょうか? 有権者の皆さんは、そんなことも見抜けないと言われているのと同じことになります。
今の日本は、残念ながら供託金のおかげで戦前の制限選挙と、同じではないでしょうか? 私は、政治家の既得権益を無くす所存です」
聴衆から、拍手が巻き起こった。
健太は、国民はちゃんと見ているんだという事を思い知らされた。が、国会議員は、それを知っているのか知らないのか…。政治には金が掛かると、与党だけではなく野党まで言っている。俺が、本当に金の掛からない政治をするんだ。と、決意して、話を続けた。
「秘書は、二名で十分だと思っております。なお、私と同じ志を持っている方は、歓迎します。誰でも参加できる政治。金の掛からない選挙。金の掛からない政治。無駄な税金を使わず官僚の天下りを禁止し、真の国民のための組織に造りかえる事を目指し、命をかける事を約束し最後のご挨拶といたします」
健太は、話を締めくくると有権者に向かって深々と頭を下げた。政治家のような言い方になったと、少し後悔しながら。聴衆たちからは、一斉に拍手が巻き起こった。運動員が板についた老人たちは、最初に会ったときが嘘のように愛想良く有権者に手を振っていた。
「すいません。一つ皆さんにお願いがあります」
健太は、もう一度ハンドマイクを持つと、「私の、今までお話したことは、まだ絵に書いたもちです。私が当選したとしても、私一人の力では何もできないかも知れません。同じ志を持つ議員が、いないかも知れません。そこで、皆さんにお力をお借りしたいと思います」と、言って聴衆の一人一人を見るような気持ちで聴衆を見つめた。聴衆は、少し戸惑った顔をしている者。何をすればいいのか? と、健太の次の言葉を待っている者。只呆気に取られている者。やはり出来ないのかと期待はずれな顔をしている者と、反応は様々だった。
「私が当選しても、国会で誰一人見向きもしなかったとき、私は人の責任にしません。私にできる只一つのことを実行したいと思っております。それは、署名活動です。私一人で出来ることは、他にありません。その時は、皆さん、ご協力お願いいたします」
健太は、そう言ってもう一度深々と頭を下げた。
聴衆は、惜しみない拍手を健太に送った。聴衆が一体になったような感覚を、健太は感じた。
「お疲れ様。でも、あそこまで言うとは思わなかった」
健太がビールケースで造った演台を降りると、深々と帽子を被った美咲が興奮気味の顔で現れた。
「なんか、悪いことでもした?」
健太は、美咲の必要以上に意識した姿を見て言ってしまった。
「そんな…」
美咲は、困惑した顔をした後に健太を睨みつけた。
「ごめん、冗談だよ」
「だって、見つかったらあなたが困ると思って」
美咲は、そう言うと舌を出した。
「そっちの方が、よっぽど怪しまれる。もしかしたら、隠し妻だと思われるかもしれない」
健太は、美咲の姿を茶化した。
「迷惑?」
美咲は、真剣な顔で尋ねた。
「そんな…」
健太は、美咲の真剣な顔を見て何も言えなくなった。
「健太さん。この調子なら、当選できるかも知れませんよ」
大家は、二人の会話を聞いていなかったのか興奮した顔を健太に向けた。
「そんな事、解りませんよ」
健太は、真面目な顔になり大家を見つめながら、「私には、参謀もいないんですから。それに、人気取りだと言っている人だってまだいます」と冷静に分析しているような口調になった。
「後悔していない?」
美咲は、健太の行く末を案じた。当選しても、健太が行おうとしていることを国会議員や官僚たちは、見向きもしないことだろう。健太は、その時どうするのだろうか? 本当に署名活動をやるつもりなのか? うまくいくのだろうか? それに、当選しても、命の保障は無い。当選した後の方が、今より危ないかも知れない。
「何を?」
「立候補したこと」
「どうして?」
「散々な目にあったでしょ。これからだって、大変よ」
「そうだな。君たちにも、迷惑かけたし」
健太は、美咲の言葉で今まで以上の決意がいると思い知らされたが、「でも、国民が少しでも政治に関心を持てたろ。ばか者と愚か者意外に、大ばか者が一人ぐらいいたっていいじゃないか」と言って笑った。
「そうね。あなたは大ばか者よ。それも、とびっきりの」
美咲は、笑顔になると健太に抱きついた。
この物語は、フィクションです。登場する人物及び団体は架空です。
と、言いたいところですが、本当でしょうか? 日本がこのような問題点を抱えていることも事実です。と、思いませんか?
もし、このようなプロジェクトが実際に行われれば、拙著など足元にも及ばない、悲喜こもごもな物語が展開することでしょう。
文中、注の説明
文書通信交通滞在費(ぶんしょつうしんこうつうたいざいひ)
Yahoo!みんなの政治より
公的な文書の発送費、通信費、交通費、滞在費をまかなうために国会議員に支給される経費。詳細は「国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律」の第9条に定められている。
支給の対象となるのは衆参両議院の議長・副議長をはじめとするすべての国会議員で、歳費とは別に月額100万円を非課税で受け取っている。文書通信交通滞在費の使いみちについては報告義務がなく、利用実態が不透明であることから、「第2の歳費」とも言われている。
livedoorニュースより
国民の代表としての国会議員がその国政活動のための「文書」「通信」「交通」「滞在」に対して支給される費用である。国会議員一人当たりに、「月額100万円」の「定額」で支給され、「非課税」でもある。その使用に対しては領収書などの添付が不要の、ある意味においては自由に使用できるお金なのだ。国会議員としての月額約140万円の「歳費」以外の収入なのである。
立法事務費
livedoorブログより
国会が立法活動を行うためには費用がかかる。それは国庫から負担されるべきであるし、現に国庫から負担されている。
これは、地方議会における政務調査費に相当する。
第三部 嵐健太の決意 「終」「THE END」「FIN」
目次
第一部 年金の星? 誕生
公開済みです
第二部 年金体験
公開済みです
第三部 嵐健太の決意
今ご覧になったところです
あとがき
※近日公開予定