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ミュージカル「ワイルド・グレイ」雑感

 小説を読んでいて、登場人物がまるで自分のようだと感じるのはよくある感覚らしい。何年か前に新潮文庫が『人間失格』の帯に「この主人公は自分だ、と思う人とそうでない人に日本人は二分される」ってキャッチコピーをつけて売っていたこともあるし、感情移入というのは小説を楽しむ上で必要不可欠な手段だ。ただ、アルフレッド・ダグラスの場合は「よくあること」で済まされなかった。ダグラスが作者のワイルドに会える立場だったこと、『ドリアン・グレイの肖像』の結末に対してワイルドが納得していなかったことが主な要因だろう。

 『ドリアン・グレイの肖像』ではドリアンは罪の意識に耐えかね、醜く変わり果てた自分の肖像画を引き裂いて死ぬ。自分で書いたその結末に対してワイルドは納得していなかった。そしてそこに現れたドリアンそっくりのダグラス。ヘンリー卿がドリアンを感化したように、ワイルドはダグラスを堕落させ、もう一度物語を作り、今度こそ自分の望む結末を迎えようとしたのだろう。しかしダグラスはドリアンではない。「堕落させてよ」というセリフからしてドリアンたりえない。何も知らない無垢なドリアンは偶然出会ったヘンリー卿の言葉によって惑わされ、結果として堕落したのであって、堕落することを望んでヘンリー卿と出会ったわけではない。ワイルドとダグラスはあくまでワイルドとダグラスであり、ヘンリー卿とドリアンではないのだ。

 ワイルドは自らを役者、ロスは自らを観客と位置づけていた。ダグラスは「私(ワイルド)を役者でいさせてくれる存在」とされていて、ダグラスも一言で言うなら観客、なのだろう。ただ、ロスは観客であることを望んだのに対して、ダグラスは観客であることを良しとしていなかったように見えた。恐らく彼はワイルドと対等な立場で共演したかったのだろう。しかしワイルドからしたらダグラスも観客の1人でしかなかった。だから「ワイルド・グレイ」はダグラスの「最も邪悪な魔力」という発言ではなく、ワイルドがろうそくを吹き消して終わるのだ。物語に幕を引くのは観客ではなく役者だから。

 自称「有名で美しいおじさん」のワイルドは同時に自分のことを大根役者とも称していた。後々、「自分を役者でいさせてくれる」ダグラスに関する立ち回りが下手なこと(負けると分かっている裁判を起こしたり、逃げることができたのに裁判所に出頭し、懲役刑を受けるなど)が描かれることを考え合わせると、序盤の大根役者はワイルドの不器用さに対する暗喩なのではないかと感じた。

 しかしこの不器用さ、というか破滅へ向かって一直線な部分も立ち回りのまずさゆえにこうなったのかと思うと違う気がする。ワイルドが望んでそうしたように思えてならない。ダグラスはワイルドの金を使って他の人と遊び回り、わがままで、精神的に不安定な部分があった。そんな相手、同性異性を問わずすぐに別れた方がいいと思うが、精神的に不安定な相手が泣きそうな顔で「あなたしか頼れる人がいない」と言うと言われた側はコロリと騙されてしまうのだ。傍から見て共依存だと言うのは簡単だが、当事者はなかなかそこから逃れられないのだろう。その上当時の同性愛は犯罪だ。ワイルドとダグラスは共依存関係で共犯関係でもあった。そうなるとワイルドはダグラスから簡単に離れられなくなってしまっていた。今後のことを思うとダグラスとの関係を終わらせた方がいいのは明白だが、ダグラスと離れることはできない。家系的に自殺者が多いということもあるし、本人も精神的に不安定だから自分が離れたら死んでしまうがしれない。そういう中でダグラスを捨てることは出来なかったのだろう。だから裁判にかけられ、懲役刑を受けることでダグラスから離れることを選んだのではないか。

 ワイルドが太陽と評されていたり、街灯の扱いだったり、額縁(=ダグラスの肖像画)の話だったり、父との不和の話だったり、他にも色々と書くべきことはあると思うが、一旦これで終わりにする。

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