名前のない記憶
私がはじめて「社会」を知ったと思うのは、小学校低学年のときだ。
私は転校をした。
転校というのは、まったく知らない場所で、知らない人たちの中に1人で入っていくということで、それは幼いながらも前もって理解していたし、覚悟もしていた。
でも転校先の学校は、前いた学校とはあまりにも違っていた。
そこには既に、「社会」があったのだ。
無防備に私に近づいてくる子は一人もいなかった。
みんな周りの他の子達の目を気にしながら、先生の目を気にしながら、探り探りに私にコンタクトをとってきた。
よくよく観察してみると、男子と女子がまったく会話をしないわけではないが、男女間にははっきりと境界線のようなものがあったし、女子は女子でしっかりとグループに分かれていて、なんとなく、そのグループに序列があることも感じられた。
それは私にとって、とても異様なことだった。
前の学校は、男女みんながわいわいしていた。女子の中で気の合う者同士でかたよる傾向はあったものの、排他的な、確固たるグループが形成されることはなかった。
同じ歳の子供たちなのに、何もかもが、根本から違っていたのだ。
さらに学年が一つ上がると、新しいクラスの女子は、はっきりと「グループ」という言葉を使い、より明確な形で派閥を形成していった。「私はあの人と同じグループだけど、本当はあの人のこと嫌いなの。あなたはどう?」と、陰でよそのグループの子を1人呼び出しては、意向を探ろうとする暗躍女子も多かった。
誰かを蹴落とす為とか、自分が格上のグループに入る為とか、明確な意図を持って巧妙に動く計算高い子もいれば、たいして深い考えはなく、ただ人間関係をひっかき回すことを好んでいるような子もいた。
小学校の低学年でも、裏と表があり、駆け引きが存在していた。
これが、「社会」なんだと、私はその時に悟った。そしてその時から、私はもう「子供」ではなかったと思う。
大人は「子供は無邪気なものだ」とやたらと信じたがるが、そんな事はない。
むしろ大人よりもずっと自由度が低くて、世界が狭い分、子供の世界のほうが余計に陰湿だったりする。
別に特定の子に対するイジメや、何か明確な、名前のつくような出来事があった訳ではない。
ただ単に、うす暗い空気の中で毎日を過ごしていたという、それだけの記憶だ。
そういうものについて、わざわざ人と話すことはない。
でも、
誰も言葉にしないから、存在しなかったという訳でもない。
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