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書きたい気持ち

どうして、自分は小説が書きたいと思うのか。

ふしぎなくらい、子供のころからずっと思っていた。物語が書きたい、絵本が書きたいって。

こんなおばさんになっても、まだその気持ちが残っている。


何度忘れようとしても、やめようと思っても、その気持ちはなくならない。だから悩んだり、それがコンプレックスになっていた。

逆に、どうして書けないと思い込むようになったのか。
昔は書いていたのに。小説も物語も、気楽に、ただ書きたいから書いていた。友達同士で読みあって、楽しんでいた。

初めて物語を書いたのは、中学生の時。音楽を聴きながらイメージがおりてきてイラストを描いて、そこから物語をまとめた。短めのファンタジーだった。

高校生の時、ライトノベル風の長めの小説を書きあげた。今思い出したが、部活も文芸部だった。そこで小説を書いていた。どんな話だったか、一つ一つを思い出すことはできないけど、何もオチがなくて、自分が書きたいキャラクターたちが動き回っている小説だった気がする。

そういえば、大学でも、ゼミで小説を書いていた。


もしかすると、大学時代に、曲がり角があったのかもしれない。

ゼミの先生は厳しいで有名だったし、ゼミ生同士も忌憚のない意見や感想を言い合うことになっていた。

でも、それって、両刃の剣だったのかもしれない。

批評されると、自信を失うことが多い。私は今でも、その先生に言われた言葉をリアルに覚えている。褒められてもいたはずなのに、厳しい批評のほうが鮮明に残っていたりする。それから、先生に褒められると、ゼミの先輩にやっかみを言われたりした。先生は、指導熱心で愛がある人だったけど、批評に耐えられるだけの私の強い心がなかったのだろう。

それにしても、高校時代=文芸部、大学時代=文芸コースだったことを、なぜ私は忘れていたのだろう。あんなふうに何も疑わずに書けていた時代があったことを。

忘れた方が、都合が良かったのかもしれない。20代、30代はあまりに忙しく、「すべきこと」であふれていた。ここ数年、やっと生活が安定してきたけれども、書きたい気持ちだけが残ったままで、いつしかコンプレックスだけが大きくなってしまっていた。

あらためて思う。

物語を書くのは、自分が書きたいからであって、誰かの為ではない。

だから、みえない批評におびえる必要はないのだ。少なからず、今の私は、もうおびえる必要はない。

環境も大切。
書き始めて、書き上げるまでは、安心安全な環境や心持ではないと委縮してしまう。

書いている作業のときは、それに集中し、物語世界に没頭できないと、集中力をキープするのは難しい。

書いているときは、心や脳だけ、あちらの世界で暮らしているようなものだ。あちらの世界で、別の自分たちを生きているのだから。こちらの世界からひっぱられてばかりいると、あちらの世界の感覚がふうっと薄れてしまい、そこにうまく繋がれなくなる。

もっと効率的に、合理的に、書けるような状態に自分をもっていってあげればいいのかもしれない。過去の思い込みや制限も手放して。



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