言語論的転回から関わるカウンセリング#382
少なくとも、私たちはポストモダン(後-近代)に生きており、モダン(近代)を含んで超え、ポストモダンの思想に立脚したいし、なんだったら、ポスト・ポストモダンに向かう必要がある。
ポストモダンで外せないことは、ソシュールからウィトゲンシュタインにかけて起こった言語論的転回。
それは、ウィトゲンシュタインの言葉を借りるなら
「私の言語の限界が、私の世界の限界」
なのである。
それを踏まえると、カウンセリング自体、どのように捉えられるのだろうか。
言語論的転回とはなにか
言語論的転回について、心理学におけるプレモダンからポストモダンまでのわかりやすく語っている「Integral Psychology」の中で、ウィルバーがわかりやすく述べているし、門林さんがわかりやすく和訳してくれている。
言語論的転回とは、一般的にいえば、言語とは与えられた世界を単に表象するものではなく、世界を創造し構築することに関わっているものであるという認識に基づくものである。
言語論的転回が始まったのはおおよそ19世紀頃であるが、哲学者たちは、言葉を用いて世界を記述するのをやめて、その代わり、言葉そのものを見つめることを始めたのである。
突如として、言語はもはや信頼に値する明確な道具ではなくなってしまった。形而上学の全体が、言語分析へと置き換えられることになった。
なぜなら、言語とはもはや、与えられた世界を素朴に見つめることのできる確かな手段ではないことが明らかになってきたからである。
言語とはむしろ、スクリーンへと投影するプロジェクターのようなものであり、私たちが最終的に目にしているのは、そのようにスクリーンに映し出されたものなのである。
こうして驚くべき言語論的転回が起きたことで、哲学者たちが言語を素朴な形で信頼することはもう二度となくなった。
言語は単に伝えるものでもなく、世界を単に表象するものでもなく、世界を単に記述するものでもない。むしろ、言語こそが世界を創造しているものであり、こうした創造の中にこそ、力が秘められているのである。
サイコセラピーのメタファー
こういった哲学の発展とともに、心理学はどのように発展してきたのだろうか。
1つの捉え方として、サイコセラピーはこのようなメタファーで捉えることができる。
(1)機械の治療:故障した機械の修理
サイコセラピーは、故障した機械を修理するかのような治療法。
フロイトがこれにあたる。
フロイトが生きた時代は、蒸気機関車ができた時代もあった。
情動を薪が燃えるようなものとして捉える。
どこか故障や不具合があると考え、カウンセラーは何が壊れているかをみて修理法を考える。
(2)ロマンティシズムの治療:たまねぎの皮をむく
その後発展したマズロー、ロジャーズ、ジェンドリン、パールズなどの人間性心理学は、人間には「核」「内なる自己」「真正の自己」があり、膜に覆われていると考える。
パールズは、まさにタマネギの皮という表現をしていたが、カウンセラーは皮という膜を向く支援をする。
本当のあなたの声、心の声を聴こうとする支援をする。
(1)も(2)もいずれも、心(ないし魂)というものをなんとか説明しようとしたものである。
しかし、ここに言語論的転回がくるとはどのようなことになるのか。
それはクライアントの言語、意味、物語に着目することになる。
となると、「本当の自分の声」があるということ自体が1つの物語であることになる。
それは、虚構であると単純化して言いたいわけではなく、少なくとも、カウンセラーもクライアントも「本当の自分の声」を前提に進めることを一度立ち止まることを可能とする。
その「本当の自分の声」があるという物語は、あなたにとってどれくらい大事なのだろうか?と。
カウンセリングがもつ特性
ここを踏まえて、カウンセリングのもつ特性に触れたい。
カウンセリングとは、言葉を換えると、クライアントとカウンセラーによる「対話療法」なのである。
では、対話とは何なのだろうか。
対話は言葉を用いて話すことから、言語がもつ特性をそのまま引き継ぐことになる。
つまり、言語自体が世界を創造していることから、対話も、ひいてはカウンセリングも、クライアントとカウンセラー2人による世界創造なのだと捉えることができる。
言語論的転回から関わるカウンセリング
もちろんただ対話をすればよいのかというとそうではない。
クライアントがどのような意味を伝えてくれているのか。どのような物語で生きているのか。
それに耳を澄ませると同時に、クライアントがもつ物語以外に、こぼれ落ちている意味、物語を救出していくことでもある。
ポストモダンの思想に立脚するカウンセリングの1つであるナラティブ・セラピーは、これをダブル・リスニングと呼ぶ。
「ナラティブ・プラクティス」の編集者、マイケル・ホワイトの盟友であるディヴィット・デンボロウによる言葉は大好きだ。
『話し言葉は、はかない。長持ちしないのだ。
だから、人が自らの人生についてやっと手に入れた知識を言葉にする時、セラピストの役割は、話されたことと、話されたことの意味を「救出」し、それを人々が将来において吟味し、人生において使い続けることができるように文書にすることなのである。
この過程には、さもなくば気づかれずに素通りされた言葉の「命」を称賛することと、それを拡張することの両方が絡んでいる。』
どこまで体現できているかわからないが、私はカウンセリングにはこれだけの意味を帯びたものであることを踏まえて、こぼれ落ちた意味を拾いたい。
2022年1月14日の日記より