「進化思考」と「進化の構造(インテグラル理論)」#190
グロービスの同期のおかげで、進化思考の読書会含めて3回、太刀川さんご本人とのお話ができる機会をいただき感謝している。
本当に面白いお話ばかりだった。
本に書かれていない部分や、太刀川さんのお人柄も含めて、お話を伺い、この本を最初に読んだ瞬間から思っていたことなのだが、進化思考とインテグラル理論の共通点をかなり多く感じている。
フレデリック・ラルーがインテグラル理論を組織論へ応用してティール組織が生まれたように、創造性教育へ応用して進化思考のように思えた。
もちろん実際はそうではなく、太刀川さんなりに積み上げたものである。
偶然ではあるが、なにかそこに共通した普遍的な真理を感じている。
私なりに進化思考や、この2つの繋がりについて綴ってみたい。
どうして進化に傾倒したのか?
太刀川さんに伺ってみた。
「創造性を進化論を軸に体系化されたが、どうしてここまで進化論に傾倒されたのか?」
すると、「デザイナーとして自然にはかなわない」という。
著書にもあるが、自然の創造性たるはどれほどすごいものかと。その自然から学べるものがあるのではないか、創造性の本質があるのではないか、そう思って進化に傾倒していったとのこと。
著書の最後には、「脱人間中心」があるが、これほど進化に傾倒するのは、その思いもあるのかもしれない。
どうして進化論に納得感が出るのか。
著書の中では、いくつか生物の事例で説明されている。
今回の太刀川さんからのお話でも、参加者からのビジネスの質問に対しても、生物の事例を混ぜた回答が多かった。
どうもそこに説得力がある。
それは太刀川さんという人が著者が言うからという点ももちろんあるのだが、内容そのものにも説得力があるように思う。
それは、我々が、生態系の中で人間の小ささを理解し始め、自然を敬い、何か自己を超越したものを感じなければならないと思い始めているのではないだろうか。
それだけでなく、論理性もある。
生命科学にしても量子力学にしても、あるいは、一般システム理論、ディープ・エコロジーなどの理論にしても、フラクタル(相似性もつ構造)やホロン(あるものの部分でありながら、それ自体が全体的なまとまりをもつ)、という考えが共通してある。
人間は、動物も自然も、生命の根源は同じであるという面をもちながら、一方で私たちは独自の個であるという普遍性と独自性を兼ね備えた存在であるのだ。
ゆえに、進化論にどこか納得感があるのも当然のように思う。
進化思考というものは、創造性の本質や発揮を学ぶだけでなく、自然を敬い自然から学びながら、自然といかに共生していくかを押さねなければならないように思う。
それがあるからこそ、著書の前半にもある、「真に創造するものは何か?」という問いに立ち向かえるのだと思う。
進化思考「時空観マップ」とインテグラル理論「四象限」
進化思考には、進化ワークというプラクティスが節目節目で記載されている。
昨夜は、「どのプラクティスがおすすめか?」という問いに対して、太刀川さんは、時空観マップ(進化ワーク15、P214)をあげられた。
何にも使えるベーシックなものであるし、ここから適応の土台のようになるものだからだ。
太刀川さんも、「変異がMECEではないかもしれないが、適応はMECEに思っている」という。
というのも、この時空観マップは、時間軸と空間軸を押さえている点からだ。
インテグラル理論でも、ウィルバーは四象限を出している。
そこには、X軸に個人と集合、y軸に内部と外部でとられている。活用するにあたっては、z軸として時間軸をもっていくる。
そこには、真・美・善、I・We・It(s)、主観・客観・間主観が内包されている。
私は四象限を先に鍛錬しているがゆえに、なにかそれが応用したものとして時空観マップが生まれたように見えてしまっている。
偶然ではあるが、四象限を応用したものとして、ここまでの認知の深み、体現ができるのかと思った。
人間の発達を「進化の螺旋」で語る
進化思考では、変異と適応の往復によってコンセプトが決まってくる進化の螺旋が描かれている。
ウィルバーも「The Religion of Tommorow(未訳)」の中で、意識状態は内化(involution)によって生み出され、意識構造は進化(evolution)によって生み出されると述べている。
この両者に共通する、弁証法的進化ないし発達は、意識そのものの発達にもいえる。
その発達プロセスは、「死と再生」や「差異化と統合」と形容され、進化思考の「変異」と「適応」も同じ概念になる。
人間の発達を「変異」と「適応」で説明するならば、
自分自身が変異的な行動、これまでとは全く異なる、新しい環境に身をおいたり、行動をしたりすることで、新しい発見がある(差異化が生まれる)。
それは異文化理解みたいなもので、これまでいた世界の文法と、新しくきた世界の文法は全く異なっており、どちらが正しいのかよくわからず葛藤が生まれ、宙吊り状態になる。
そこに適応という、時空観的に導かれるものによって、一段高い次元で統合が可能になってくる。
ゆえに、人間の発達においても、まずは意図的に変異的な行動をとっていくこと。
これまで当たり前に思っていた持論がことごとく覆され、二項対立や葛藤が生まれる。しかし、なかなか答えはでない。
ここで、意識的に適応的行動をとる。
それは過去を学び、未来を妄想し、自己や他者の内部を理解し、自己を取り巻く社会という外部を理解する。
少なくとも葛藤していた自己をより客観的にみることができ、一段高い次元で何か葛藤する自分を統合するようなことが時間をかけてだが結果的に起きてくる。
このように言えるのではないかと思う。
まずは個人から
進化思考の中で、P466の中で「創造が価値になるとき」の中で、創造は個人の遊びと好奇心から始まり、途中から社会への価値を帯びるとある。
個人の発達も、個人が満たされるから他者や社会に目が向き、社会の痛みが我が事のようになってくるように、パーソナルの段階が確立して、トランスパーソナルな段階へと移っていく。
いつも、始まりは個人であること。そんなことを思う。
それにしても、進化思考、進化の構造、両者ともに本当に美しいものを感じる。洗練された結果として生まれるシンプルなものに、奥深さを感じる。
私も一実践者として、巨人の肩に乗りながら、色んな事に実践して楽しんでいきたい。
2021年6月22日の日記より