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知は本当に誰もに開かれたものであるべきなのか?#326

時刻は23:50。

今しがた、お風呂からあがり、今日はFF8のFisherman's HorizonのBGMを聴きながらジャーナリングを始めた。

本日は18時半20時半まで、規夫さん加藤さんの第一回目のコンサルティングセッションだった。

こういった学びの場に参加させていただき、なんと有り難いことだろうかと、今その余韻に浸っている。

色んな話があるのだが、今日はその中でも、「知の開示性」について書いていきたい。

知の開示という近代からの価値観

とある参加者の方で、ユダヤ神秘主義の研究をされている方がいた。

こんな興味深いことをおっしゃっていた。

「誰もが知にアクセスできるというのは、近代の考え方なんです。
神秘思想は誰にも開示されるものではないとしています。
まずは基礎的な経典を学び、実践を積み、さらに深めていくごとに開示されていくものになっています。」

というのも、キーガンやティール組織の功績もあって、日本でも発達理論(ないしインテグラル理論)への注目が一気に広まった。

それは良い面もあれば、深く理解されないままに誤った使い方をされてしまい、人を癒やす理論が人を傷つけてしまう理論になってしまっている側面がある。

その意味で、一定の倫理観や思慮深さがあって初めて手に入れるべきものとして、実は、知にアクセスすること自体にも、制約があることの重要性を感じた。

知の開示の価値観の背景

一方、現代の「知が誰もに開示されたものであるべきだ」というのは、どういった価値観からきているのだろうか?

たしかに近代からきていそうである。

技術の進歩として、グーテンベルクの印刷技術は大きかっただろうし、今の第四次産業革命と呼ばれるようなテクノロジーの進歩含め、技術的に可能となった。

科学の進歩とともに、近代になって、奴隷制度の終焉、女性解放運動、自由民主主義が起こり、人権が整い、平等や自由が実現することを行ってきた。

技術的、思想的にも、開示されることの喜びを感じてきたのは事実である。

また、政治、経済にも、隠蔽や情報の格差ゆえに起こる問題もあることが、開示されることの重要性を強調しているし、全くそのとおりに思う。

開示の責務

そう思うと、誰しもがアクセスできる状態にしておくことの重要性は一定あるのだが、ここから学べるのは、開示側には責務がいるということなのだろう。

企業の中でも、自律型組織に向けて情報を開示しようとするが、開示することによる混乱はつきもので、何からどのように開示していくのか、開示することでどのようなリスクが生じるのか、その点も押さえた上で開示していくことが重要だろう。

私もどこまで考慮できているかというと、出来ていない部分も大いにあるように思う。

話し手だけでなく、受け手側のストラクチャーの観点

ただ、押さえておきたいのは、話し手がどれほど考慮しても、受け手側のストラクチャーの問題は残りうるのである。

話し手側が、話すコンテンツのみならず、その文脈や意味合いをいかに語ろうが、受け取り手側の認知の歪みは残る。

この事実は大きい。

そう思うと、ブッダやソクラテスが書物を残さなかったのは納得がいく。

書物は独り歩きしてしまう。

受け取り手の認知の歪みが残る以上、双方向のやりとりは必須であるし、その人にあった対話は必要不可欠なのである。

このことを踏まえた上で、必要な責務のもと、可能な範囲でオープネスでありたいと思う。

2021年11月5日の日記より

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