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AI生成で30万枚作ってわかったこと


2022年の8月ころから生成AIとの付き合いを開始して、最初はMIDJOURNEY(初期バージョン)から始まり、NAIに移行し、MIDJORNEYのバージョンが上がって、NIJI-JOURNEYを少し触ったあたりで、RTX4090を買ってStable-Diffusionのローカル環境に場所を移しました。

2022年8月から2023年2月まで、だいたい一年と200日(約565日)
生成枚数は32万枚超。オンラインでの生成サービス(mid+nai)で3万枚くらい。ローカルに移行してから29万枚生成しました。

midjourney初期バージョン期。2022年8月ごろ。この頃はこれでウホウホ言ってました
NAI期、「アニメキャラが出せる!」とウホウホ言ってました
MID+NIJI+NAIで作った漫画(未発表)AI独特の画風(次元)をまたぐ能力をテーマにした漫画
Stable-Diffusion期。今も毎日ウホウホ言ってます

事の最初は「AIの画像ってキモいからホラー表現に使えそう」と思ってmidjourneyを触ってみたのですが、一年半という僅かな期間であっという間に実用に足るレベルに到達したのは皆さんご存知のとおりです。


作品のナラティブ

AIを見る時、生成した側と鑑賞者の間には大きなギャップがあります。
生成側は「これすごいじゃん、プロみたい、写真みたい」と大喜びでアップしますが、基本的に鑑賞者側からのリアクションは薄いです。
生成者側は「なぜ?」と考えます。
わからないのでより多くアップしたり、方向を変えたりしますが、反応は芳しくない。じゃあ、とばかりに動画化します、曲もつけてみます。
それでも大して反応は変わらない、なぜ?
私が思う根本の原因、AI生成におけるもっとも欠如しているもの。
私が思う答えは「ナラティブがない」ということです。

「ナラティブがない」、まあ「物語がない」という意味であり
「演出がない」「意図がない」「方向性がない」
「メッセージがない」ということです。

絵とはなにか、と大きく言えば「伝達の手段」であり作者の意図や世界観を他者に伝えるために技法です。
プロのイラストから素人の手描きイラストまで、全てがメッセージです。意味や意図を二次元化して構成したものです。

ではAI生成絵においては?
完全に絵の動機が欠如しています。生成者は「なんとなくのプロンプト」を入力してAIが返した出力結果から良さげなもの選抜して発表します。
なぜ動機が欠如しているのかといえば、現在のAI技術ではそこまでの完全なコントロールが出来ないからです。

動機を絵で伝えるためには大量の要素が必要になります。
まず伝えたいメッセージを決め、最適な構図を探し、それに必要な色は、人物の配置とポーズは、視線は、手の位置は、衣装は、ライティングは、小道具は、背景は、
人間が絵を描く場合は巧拙の差はあれ、皆それをやっています。描きながら「もっとこうしたら伝わるのではないか」とチューニングを繰り返します。
絵は厳密なコードによって組み立てられています。

AI生成においてそれは不可能ですので(現状では)、数百枚出力しそのなかから「自分がおそらく欲しかったもの」にもっとも近い一枚を選びます。
AI生成者はその選択時にじつは「ナラティブ」を探してもいるのです。手足の欠けがないかという不毛な選抜の最中にも、ちょっとしたキャラの配置や視線の違いで「いいな」と直感的に感じたものを選択しています。AIがランダムに生成したものの中にある僅かなナラティブを、砂金を探すように見つけているのです。しかしそれも、砂金レベルの小さなナラティブ。小さすぎるのです。

メッセージのないビジュアルは不毛です。いかに美しかろうと高精細であろうと退屈であり、目は画像の上を滑るものです。
その視線を止めるものが絵のナラティブ。絵に含まれた意味意図が鑑賞者の興味を引きつけるのです。

作品にナラティブを生成できない。これが現状のAIイラストレーションの欠落点です。

当たり障りのない画像


作者のナラティブ

肉体的労働者である人力イラストレーターと未来的搾取的創造者たるAIクリエーターとの現状での大きな違いとはなにか?
それは作品のナラティブの欠如とともに、作家のナラティブの欠如でもあります。
信じられない事にイラストレーターと絵柄は不可分であります。
これはAIクリエーターにとっては驚くべき事であります。絵画技術の民主化を果たしたAIクリエーター達は、あらゆる絵柄を共有化し、全てのビジュアルを絵筆として使うことが可能です。
しかし、それこそが罠だったのです。
イラストの世界において絵と作者は一体です。絵の背後には作者がいて、作者にはその歴史としての絵がある。

しかし、AI生成者においてはその一体感が存在しません。
あらゆる属性の魔法を使え、あらゆるジョブの必殺技を会得し、あらゆるアイテムを揃えた最強無敵のパゥワァを持ったAI絵描きが、
最強であるこの私がッ!人間の手書きの絵に負けるッ!?
残念ながら現状では勝てません。
人は結構「誰が描いているか」を気にするのです。

人の絵柄とは亀のように変化の歩みが遅いものです。
絵柄の変化とは長い年月とたゆまぬ継続のみが可能とするものです。
漫画家が長い連載の末、最初と全然絵が違うじゃん、みたいなことが起こりますが、実は「その程度」しか変わらないのです。
人間、よほど無理やり変えようと思わない限り変化の幅はわずかしかないのです
対して、AI生成者にその一体感はない。
扱うAI、CKP,LORA、プロンプト、民主化された技術ゆえ誰でも使用可能。誰でも代替可能。ネット上に山ほどいるAI生成者たちの中で、絵と作者が結びついている人が何人いるだろうか。
作家的認知を得るためにはAIの可能性を捨て去り、絵柄かテーマを限定するしかない。
絵柄やテーマを限定するためには、動機が必要であり、作家としての自分を見つけ出さなければいけない。
作品と作家を不可分にしなければいけない。

作品と作家を結びつけるナラティブがない。
ただしこれは、この後、ある種の変態性を持った人間がAIと結びついた創作活動をしだすだろうから、今後においては解決可能な欠落である。

文章の邪魔をしない穏当な画像


「創作」とは

でかいね、主語が。
わたくし実は手書きによる絵描きをしておりまして。嘘ではございません、税務署にもその様に報告し税を収めております。嘘だと思われたら税務署に聞いてみてください。
そんな私が1年半ほどAI生成にのめり込んだ結果、逆に絵を描く事、創作する事とは何かを考えざるをえなくなりました。
それを手短にいいますと
「世界を手に入れる」
ということであると思い至りました。

人生全てが借り物です。地球も国も、家は賃貸、物は所有権、金は銀行券、命すらそのうち返却を求められる間借り物です。
世界全てが他人のモノ、自分自身すら不確定、そんな中にあって
「創作物だけは絶対に自分のもの」と言い切れます。
絵画から教科書の落書きに至るまで、自分で描いたら自分のモノ。
誰もそれを否定できない。
広大な宇宙の中の、ほんの僅かだが、0・00000000000000~01%の領域が自分のものになる。
世界の一部が自分のものになる快感
これが創作の快感であると、思えるようになりました。

(空間的占有もあるが、創作されたキャラやドラマや世界観も自分のモノになる。その場の神になれるという快感もあります)

AI生成で30万枚くらい作りましたが、その快感はありませんでした。
「これは俺だけのものだ」という瞬間はついにやってきませんでした。
手描きのイラストは100%の自分です。全て自分がコントロールしています。下手なのは自分のせいで。上手いのはたまたま上手くいっただけ。そういう世界です。
しかしAI生成においての自分とは、おそらく20%を切ります。下手すりゃヒトケタ%です。
30万回生成しても世界の一部を獲得したという感覚はありませんでした。


文と文の間にある絵

おわりに

で、お前はどっちなの?賛成派なの反対派なの?
答えとしてはどっちでもない。ただ自分がやりたいと思ったことをやり続けるだけ。何かが見つかるか、飽き果てるまで続けるつもりです。
それプラス、「俺はこれ以上は絵がうまくならないな」という実感があり、老後をサバイブするための技術として続けているという側面もあります。
ただ、どうやら私は「ボタンを押していい絵が出てくると快感する」変態らしく、気持ちよくて30万枚ポチポチやってしまいました。
快感こそ行動の源。


今後も生成AIの技術的革新は続いていきます。
それを「絵筆」として扱うのは、人間の役割なのです。

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