伊達政宗と摺上原の戦い 【歴史奉行通信】第七十二号
こんばんは。伊東潤です。
『歴史奉行通信』
第七十二号をお届けします。
〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓
1. はじめに
2. 伊達政宗と摺上原の戦いーー
【群雄割拠の奥羽地方】
【人取橋の戦い】
3. 伊達政宗と摺上原の戦いーー
【伊達氏の強さの秘訣】
4. 伊達政宗と摺上原の戦いーー
【政宗の陽動作戦】
5. 伊達政宗と摺上原の戦いーー
【摺上原の戦い】
6. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い
7. お知らせ奉行通信
新刊情報 / 読書会 / TV番組出演
その他
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1. はじめに
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夏真っ盛りですね。
毎日暑くて嫌になります。
私は最も仕事の効率が悪くなる午後三時あたりにスポーツジムに出向き、
1kmをきっちり泳いでいます。
ここ何カ月かは、
用事がなければ毎日行っているので、
週6回くらいのペースですね。
私は25歳からウェイトトレーニングをしてきましたが、ここ5年ほどは水泳に重心を移しました。
とくに今回のウイルス禍によって、
筋トレを全面的に控え、水泳に集中しています。
そのためか体調は万全です。
さて今回は
『合戦で読む日本史 野戦十二番勝負』
の第三弾
「伊達政宗と摺上原の戦い」
(短縮版)
をお送りします。
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2. 「伊達政宗と摺上原の戦い」ーー
【群雄割拠の奥羽地方】
【人取橋の戦い】
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【群雄割拠の奥羽地方】
戦国時代の陸奥・出羽両国から成る奥羽地方では、
出羽国の中央部(最上・村山両郡)を拠点として
最大版図を五十七万石とした最上義光、
陸奥国の仙道地方(伊達・信夫両郡)を拠点として
最大版図を六十二万石とした伊達政宗、
陸奥国の黒川地方(後の会津地方)を拠点として
最大版図を四十二万石とした蘆名盛氏、
常陸国北部を拠点として
最大版図を五十四万六千石とした佐竹義重
といったところが有力な大名だが、
まだまだ独立独歩の中小国人も多く残り、
「群雄割拠」の状態は続いていた。
こうした中、その旺盛な領土拡張意欲によって伊達氏繁栄の礎を築いたのが、
「独眼竜」と呼ばれた政宗である。
その政宗の南進策に対し、
南奥の地場勢力を取りまとめ、
北進策によって対抗したのが佐竹義重だった。
【人取橋の戦い】
仙道地方(福島県中部)を押さえる伊達氏にとって、
その南西部に広がる黒川地方(後の会津盆地)は、
その豊かな生産力からして垂涎の的だった。
だがそこには、家臣あての書状の中で、
「合戦ほど面白き物はこれ無く候」
と書くほどの梟雄・蘆名盛氏と
奥羽最強と謳われる軍団がいた。
ところが天正八年(一五八〇)、その盛氏が急死。
二階堂氏から養子として盛隆が入り、後を継いだ。
しかしその盛隆が天正十二年(一五八四)十月に二十四歳の若さで暗殺されることにより、
幼児の亀王丸が後を継がざるを得なくなる。
一方、天正十二年(一五八四)十月、
四十歳の伊達輝宗は、
家督を十七歳の政宗に譲って隠居する。
これにより政宗は積極的な南進策を取り始める。
天正十三年(一五八五)十一月、
伊達・佐竹両軍は阿武隈川支流の瀬戸川に架かる人取橋付近で激突する。
この時、伊達軍は一万程度だったにもかかわらず、
佐竹氏を中心とした連合軍が三万もの兵力を集結できたこともあり、連合軍の圧勝となった。
政宗は総崩れだけは押しとどめたものの、
安達太良川以北まで兵を引かねばならなかった。
ところが連合軍は、
追撃戦を行わずに撤退してしまう。
以前から、深追いを警戒し、
八分の勝利でよしとしたのだろう。
もし追撃したとなると、
政宗の籠もる本宮城をめぐっての攻防戦となるが、
安達太良川以北の地にあるため、
伊達方が有利になる。
おそらく本宮城を囲んでも連合軍は撤退したはずだ。
いずれにせよ「人取橋の戦い」は、
南奥勢力をまとめ上げた佐竹義重の勝利に終わった。
だが翌天正十四年(一五八六)七月、
佐竹氏が北条氏との戦いに忙殺されている隙に、
政宗は南下策を再開して大内氏を降伏させ、
二本松氏を滅ぼすことに成功する。
これにより政宗は人取橋の戦いでの敗戦を帳消しにした。
そして同年十月、蘆名氏当主の亀王丸が三歳で他界することで、
両陣営は蘆名領併吞を目指して戦うことになる。
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3. 伊達政宗と摺上原の戦いーー
【伊達氏の強さの秘訣】
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【伊達氏の強さの秘訣】
伊達政宗という強烈なリーダーに率いられた伊達軍の強みは、
近代軍事学的に言うところの機動戦にある。
機動戦とは「動員兵力を短時間で集結させ、
速やかに目的地に到着させること」、
すなわち兵力の迅速な移動によって敵の意表を突くことだが、
伊達軍は機動力が極めて高かったとされる。
兵力の移動には多くの問題が付随する。
まず集結だが、専業武士団登場前の戦国時代の軍隊は半農半士が基本であり、
普段は農業に従事し、
ひとたび陣触れが発せられると、
定められた武器、兵装、所持品
(旗指物、兵糧米、工具等)を用意して集合地点に集まる。
それから作戦行動地点への移動が始まるわけだが、これがまた厄介で、
馬上武者、徒士、荷駄隊では移動速度に差があるので、様々な調整が必要となる。
それでも指揮官の思惑通りに兵力の移動ができればいいが、
大名傘下の家臣や国衆には様々な思惑があり、
思った通りに動いてくれないこともある。
伊達氏の場合、独特の組織編成が機動戦を得意にさせたという一面がある。
これは常の大名の寄親寄子制とは異なり、
「所帯持ち」という知行地を与えられた上級武士団と
「所帯なし」という徒士集団から成っていたことに起因する。
つまり寄親寄子制のように部隊指揮官が固定的ではなく、柔軟に変更できた上、
兵種別編成に近い部隊編成も容易だった。
要するに部隊指揮官のモチベーションや練度が高く、
それらが必ずしも高くない徒士や
足軽の尻を叩くようにしていたのだ。
また政宗は侵攻計画にあたって街道を整備し、
要所に城を築いて兵糧を入れておき、
侵攻作戦を円滑に進められるようにしていた。
これは武田信玄の棒道にも通じるものだが、
伊達氏の場合、陣夫と呼ばれる工兵を直属化していたので、
街道整備や城の構築が迅速に行えたという。
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4. 伊達政宗と摺上原の戦いーー
【政宗の陽動作戦】
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【政宗の陽動作戦】
天正十四年の蘆名亀王丸の死去に伴い、
蘆名家中では伊達氏から養子を迎え入れようとする一派と、
佐竹氏から迎え入れようとする一派の対立が激しくなる。
結局、「蘆名の執権」と呼ばれた実力者・金上盛備の主張が通り、
佐竹氏から義広(義重の次男)を迎えることに決定する。というのも政宗が父輝宗の
「蘆名氏とは融和を図る」という方針を覆し、
蘆名氏を実力で圧迫し始めていることに危機感を抱いたからだ。
これに政宗は「案外の至り」という言葉を残しているが、予想外のことだったのだろう。
それは蘆名氏の重臣・猪苗代盛国も同じだった。
盛国は嫡男の盛胤に家督を譲って隠居していたが、
伊達氏との最前線に位置する猪苗代湖北岸の猪苗代城主ということもあり、
伊達氏からさかんに内応を呼び掛けられていた。
養子決定の折にも、盛国は伊達氏から養子を迎え入れようと主張したが、
実力者の金上盛備に押し切られ、
忸怩たる思いを抱いていた。
しかも佐竹氏から来た付家老たちが蘆名家を支配しようとするので、盛国は内応を決意する。
この知らせを受けた政宗とその幕僚たちは、
盛国の内応を織り込んだ作戦計画を立案する。
佐竹・蘆名・二階堂・岩城・相馬から成る連合軍の兵力は侮りがたく(四万近かったと推定できる)、
それを集中して運用されると勝機は見出し難い。
そこで、いかに各個撃破できるかを目指したのだ。
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