『囚われの山』|第一章(四)
*
それは、軍の人体実験だったのかー。
世界登山史上最大級、百九十九人の犠牲者を出した
八甲田雪中行軍遭難事件。
百二十年前の痛ましき大事件に、歴史雑誌編集者の男が疑問を抱いた。
すべての鍵を握るのは、白い闇に消えた、もうひとりの兵士。
男は取り憑かれたように、八甲田へ向かうー。
歴史作家・伊東潤が未曾有の大惨事を題材に挑んだ渾身の長編ミステリー『囚われの山』の試し読みをnoteにて限定集中連載します。
第一章 あてどなき行軍
一
こうした場合、最初に出す案は却下されやすい。
「昨今の歴史文化のブームを考えると、利休と茶の湯ではどうでしょう」
「それは昨年やったけど、芳しくなかったんでしょう」
それは前任の編集長の企画だったが、通り一遍のものに終始し、結果は惨敗に終わった。
「入門編や初心者向けだから失敗したんです。少し高度なレベルのものを織り交ぜながら、特定のテーマに絞ったらいかがでしょう」
「例えば」
「曜変天目とか」
曜変天目とは唐物(中国製)天目茶碗の最高峰のもので、見込み(内側)に星紋や光彩が浮かんだ美しい逸品のことだ。
「茶の湯は書いていただける先生も少ないし、写真なんかも高いでしょう」
茶の湯は刀剣や甲冑と並んで写真などの掲載料が高く、通常の特集よりも倍くらい経費が掛かる。
「そうですね。写真を出したがらない所有者もいますから、それを説得するのは厄介です」
「それだけ手間を掛けて、当たらなかったらどうするの」
そう言われてしまえば、代替案を出すしかない。
「では、絵師の特集はいかがでしょう。昨今の日本史への興味は、武士や合戦といったものから、文化的なものへと向かっています」
「絵師ね──、どんな人がいるの」
「狩野永徳、長谷川等伯、伊藤若冲、葛飾北斎、歌川広重、そして東洲斎写楽といった面々なら、一般にも広く受け入れられるんじゃないでしょうか」
菅原は切り札を投げてみた。
「少し広くなりすぎている気がするわ。誰かに絞ったらどう。例えば写楽中心とか──」
「写楽は一般誌でもやっています。大きな展覧会があるようなケースでないと難しいのでは」
「それは大切なことね」
すでに分かっていたような口ぶりで、桐野が言う。
佐藤がすかさず補足する。
「これまでのデータからすると、各社で一斉に取り上げて盛り上がるような企画に便乗した方がよいようです」
「来年はそうしたものはないの」
皆がスマホを取り出して調べ始める。
「二〇二二年は沖縄返還から五十年を迎えます」
誰かの発言を桐野が否定する。
「それを読みたがる人がいるかしら」
取り上げる意義のある企画だとは思うが、沖縄関連の特集は部数に結び付かない。
「ほかには──」
菅原がおもむろに答える。
「八甲田山遭難事件から百二十年ということもあり、大掛かりな慰霊祭も行われるようです」
「兵隊さんが冬山で大勢死んだ事件ね。でもそれは、あまり魅力的なテーマじゃないわね」
「そうかな」
声の主の方を皆が向く。
「世界最大の山岳遭難事故だと聞いているが」
薄井が穏やかな声音で言う。
「ああ、はい。そうです」
桐野が慌てて答えるが、どうやらそこまでは知らなかったようだ。
「山岳遭難事件にはミステリーが多い。何か新しい謎が見つけられたら面白いんじゃないか」
「しかし──」と、佐藤が発言する。
「あの事件は暴風雪に巻き込まれた兵隊さんたちが、道に迷った挙句、低体温症で亡くなったというだけで、謎らしい謎なんてなかったのでは」
「それを探すのが君たちの仕事だろう!」
皆の間に緊張が走る。
「はい。仰せの通りです」と言って、桐野が背筋を伸ばした。
──やはり、そういうことだったのか。
薄井は皆をバックアップしたいと言っていたが、実は採算の取れなくなっている「歴史サーチ」のテコ入れに乗り出したのだ。
薄井がドイツ製の金縁眼鏡を拭きながら言う。
「この前の織田信長特集号は、新しい謎を見出せずに総花的なものとなったから散々だったな」
薄井の苛立ちがあからさまになる。
「ああ、はい。その通りです」
「もう信長や新選組といった出がらしのようなテーマでは、いくら絞っても新たな謎は出てこない。八甲田山遭難事件なら、珍しいテーマの上、過去に映画が大ヒットしたという実績もある。面白い企画じゃないかな」
この事件の正式名称は「八甲田雪中行軍遭難事件」といい、明治三十五(一九〇二)年一月二十三日、青森歩兵第五連隊第二大隊が雪中行軍演習を実施すべく、八甲田山中にある田代を目指して兵営を出発したが、折からの天候悪化により、道に迷って百九十九人の犠牲者を出した事件のことだ。
薄井が菅原の方を見て言う。
「それで菅原君、新事実みたいなものは出てきそうかね」
この事件に関しては、すべての事実関係が明白で、新たなネタなど出てきそうにない。
「難しいかもしれません」
それを聞いた桐野が「待ってました」とばかりに答える。
「新事実を発見できるか、新たな謎が出てこないと、この特集の実現は難しいですね」
薄井が首をかしげる。
「本当にそうなのかい。何かあるんじゃないか」
会議室が重い沈黙に包まれる。
薄井がため息をつきつつ言う。
「君らは、ディアトロフ峠事件というのを知っているかい」
桐野らが顔を見合わせる。それを見計らい、菅原が答えた。
「ある程度は知っています」
「ということは、あの本を読んだのかね」
「はい。『死に山』ですね」
「そうだ。君は読んでいるんだね」
「ええ、まあ」
菅原がうなずくと、薄井が桐野に向かって言う。
「菅原君に調査させたらどうだろう」
「賛成です。菅原さんは優秀な方ですから、きっと新たな謎を見つけてくれるでしょう」
追従笑いを浮かべながら、桐野が菅原に挑戦的な視線を据える。
──そうか。見つけられないと思っているな。
「よし、来年の第一弾は『八甲田山遭難事件の謎』でいこう」
そう言い残すと、薄井は出ていった。
──そうか。社長は大学時代、登山部だったな。
それが『死に山』に大きな関心を抱いた理由だと、すぐに分かった。
──登山部か。社長は体力に自信があるらしいからな。
菅原は小学生から中三まで柔道をやっていたくらいで、ほかにスポーツらしいスポーツをしたことがない。そのため過酷な部活を経験してきた薄井には、引け目を感じる。
額を寄せるようにして何やら佐藤と話していた桐野が、咳払いすると言った。
「では、特集の柱を三つに分けましょう。『生き残った者たちの人生』『新たに分かった事実』『解明されていない謎』ではどうですか」
桐野が早速、自分の提案したネタのように整理した。桐野には創造性の欠片もないが、こうした仕切り仕事だけはうまい。
──まあ、それだけが取り柄といえば取り柄だな。
とくに異論もなかったので、役割分担がなされて会議はお開きとなった。
菅原が部屋を出ようとすると、桐野に呼び止められた。
「菅原さん、これは社長案件なので責任は重大よ」
科を作るように桐野が近づいてくる。その目鼻立ちのはっきりした顔が目の前に来ると、さすがの菅原もたじろぐ。
「分かっていますよ」
ディオールの「ジャドール」の匂いが鼻をつく。さすがにファッション誌が柱の出版社なので、菅原でもそれくらいは知っている。
「とにかく些細なことでもいいから見つけて、大きな謎として書いてね」
──針小棒大か。
こうした雑誌の常で、大きなネタが見つからなければ、小さなネタでも大きなものとして記事にしなければならない。
「青森へ出張の必要があるわね」
「多分、そうなるでしょうね」
「出張費は厳しいけど、特別な枠をもらうからよろしくね」
「ありがとうございます」
そう言うと桐野は、「ジャドール」の香りをふりまきながら去っていった。
確かに桐野は女としては魅力的だ。だが女性管理職を増やしていこうという社長の方針によって出世したのも事実で、実力が伴っているとは思えない。
編集部に戻ると、すでに桐野が佐藤を呼んで何やら指示している。
──あの席には、俺が座るはずじゃなかったのか。
菅原は口惜しさを噛み締めつつ、自分の小さな机に向かった。
*
(明日に続く)