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「大久保利通暗殺事件の謎を探る」 【歴史奉行通信】第七十七号


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こんばんは。伊東潤です。
歴史奉行通信第七十七号をお届けします。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめに

2. 「大久保利通暗殺事件の謎を探る」
事件の背景 / 事件の謎

3. 「大久保利通暗殺事件の謎を探る」
事件の経緯 / 事件の余波

4. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い

5. お知らせ奉行通信
新刊情報 / イベント情報 / TV出演情報 / その他


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1. はじめに

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いよいよ寒くなってきましたね。

コロナ禍で散々な2020年ですが、
「いい年だった」と言うために、
残り少ない日々を頑張りましょう。


さて11/21、いよいよ『西郷の首』が文庫化されます。
本作は幕末から明治維新を駆け抜けた二人の加賀藩士の物語です。

幕末維新というのは、それまでの社会構造がひっくり返り、大半の日本人の生活を激変させました。
そんな新時代にうまく適応できず、不平不満を抱えながら生きていかねばならなかった人々もいます。
そうした運命の狭間に落ちてしまった人々を描いたのが『西郷の首』です。


今回は『西郷の首』の文庫化記念特集として、
「大久保利通暗殺事件の謎を探る」を
お送りします。
この論考は「伊東潤のメルマガ」の第4回でも取り上げましたが、短縮バージョンになっていました。
今回はロングバージョンになっていますので、
第4回を読んでいる皆様もお楽しみいただけると思います。

下記の地図を参照しながらお読み下さい。

紀尾井坂事件概要図


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2. 「大久保利通暗殺事件の謎を探る」
事件の背景 / 事件の謎

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西南戦争が終わってから半年余しか経っていない明治十一年(1878)五月十四日、
大久保利通が殺された。
暗殺者は石川県士族五人に島根県士族一人の六人だった。

この事件は、暗殺の行われた場所の地名から
「紀尾井坂の変」、
また「紀尾井坂事件」と呼ばれる(実際に事件があったのは紀尾井町)。

本稿ではこの事件の概要を説明しつつ、その謎についても探っていきたいと思う。



■事件の背景

刺客たちの中心人物の島田一郎は加賀藩の足軽階級の出身だったが、
戊辰戦争での活躍が認められて頭角を現し、
紆余曲折の後、石川県の不平士族の指導者的立場に就いていた。

残る刺客の面々も、いずれ劣らぬ才能と志を持った有為の材である。
世が世なら加賀藩の一翼を担う人々であったろう。

彼らに共通していたのは、武士の時代へのノスタルジーであり、
薩長両藩出身者以外に出世の道が閉ざされた藩閥政治への不満だった。
それは各地の不平士族に共通するものだが、
とくに加賀藩は百万石の雄藩だったことで旧藩士たちは誇り高く、
また早くから薩長に与していたにもかかわらず、新政府の要職に誰も送り込めなかったことへの不満は、ひときわ大きかった。


維新後、政治結社を組織して国事に奔走していた島田に、長連豪(ちょうつらひで)が合流したのは、
ちょうど西郷が政変で下野した明治六年(1873)頃のことだった。
彼らは明治九年(1876)に熊本で起こった
「神風連の乱」に端を発した各地の不平士族の反乱に刺激を受け、武装蜂起を画策し始める。

翌年、西南戦争が勃発すると、
島田らは旧加賀藩の不平士族に決起を呼び掛けるが、賛同者は少なく、
募兵に走り回っているうちに西郷たちは潰えてしまった。

西南戦争が終結したことで、
大半の不平士族は武力で新政府に抗うことをあきらめ、
自らの生活基盤を確立していくか、
自由民権運動へと身を投じていく。
だが島田と長は挙兵から暗殺に方向転換し、
政府の要人を狙い始める。

■事件の謎

明治十一年四月、大久保利通に狙いを定めた島田ら五人は上京し、大久保の隙をうかがう。
だが、なかなか大久保の行動を把握できない。
そんな最中に島根県士族の浅井寿篤(じゅとく)が参加する。

狙うとすれば大久保が外出する時だ。
とくに赤坂仮御所にある太政官へ出勤することが多いので、その道中を待ち伏せることになった。

大久保邸は三年町三番地にあり、
そこから赤坂仮御所にある太政官へのルートは限られてくる。
島田たちは、大久保の人相や姿形、
馬車の特徴、太政官への出勤日、
ルートなどを調べ上げたが、
襲撃場所が決まらない。


当時の太政官は、
赤坂仮御所(現・迎賓館)に置かれており、
大久保邸から行くとすると、赤坂御門を直進し、
紀ノ国坂を上っていく経路を取るのが普通だ。
この経路なら、通りを隔ててはいるものの、
警視庁分署(警視庁第三方面二分署)の目の前を行くことになるので、安全は確保されている。

当時の紀ノ国坂は、
今ほど幅が広くなく交通量も少なかったので、
たとえ通りを隔てていようと、
異変が起これば分署の門衛や宿直の巡査が瞬時に駆け付けてくる。

参議をはじめとした時の貴顕の多くは三年町周辺に住んでおり、
紀ノ国坂を上っていく経路で太政官に出勤していた。
ところが大久保だけは、別の経路を取っていた。

大久保邸を出発点とすると大木喬任邸のところを右折し、右手に西郷従道邸を見ながら進み、
ドイツ公使館に突き当たったところで左折してダラダラ坂を下り、三平坂を上る。
三平坂を登りきったところで突き当たる赤坂喰違坂を左折すると赤坂御門に至る。
そこからは紀ノ国坂を上っていくだけだ。

ところが大久保だけが赤坂御門をくぐらずに右折し、
その手前を左折して紀尾井町(清水谷)を突き抜けて紀尾井坂を通り、
仮御所の東門に至るという経路を取っていた。

現在、紀尾井町から紀尾井坂にかけては、
ホテルオークラやオフィスビルが立ち並ぶ賑やかな一帯になっているが、
当時は人気がなく昼でも寂しい道だった。

また赤坂御門から仮御所の東門に至るまでの距離も、
紀ノ国坂を通る本道に比べて近道というわけでもない。
しかもこの脇道は、東西の屋敷が一段高い場所にある谷底地形だった。
つまり刺客に道の前後を押さえられたら逃げ場がないのだ。

暗殺の危険が高まっているのは、大久保自身にも知らされており、
どうしてこの道を通っていたのか理解に苦しむが、
その理由として考えられる唯一の証言がある。


江藤新平の子孫にあたる鈴木鶴子氏の著作『江藤新平と明治維新』(朝日新聞社)に書かれている挿話だ。


新平には源作という三つ違いの弟がいた。
二人は瓜二つで、よく間違われていたという。
佐賀の乱で大久保の罠にはまった新平は処刑されたが、源作は貿易商だったので罪に問われず、
兄の新平が大久保に陥れられたと信じ、深い恨みを抱いていた。

明治十一年の四月、
新平の次男を東京の学校に入れるために上京した源作は、
恨み骨髄の大久保の顔を一目見てやろうと毎朝、紀ノ国坂で大久保を待っていた。

ある時、大久保の馬車がやってきたので、源作はにらみつけてやった。
この時、源作に気づいた大久保の顔色が変わり、
源作の方をじっと見つめていたという。

その後、大久保の出勤経路が、
紀ノ国坂から紀尾井町を通る脇道へと変わったというのだ。


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3. 「大久保利通暗殺事件の謎を探る」
事件の経緯 / 事件の余波

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■事件の経緯

五月十四日の七時半頃、六人の刺客は短刀や「斬姦状」を懐にしのばせ、
四谷にある林屋という旅館を出ると、
襲撃予定地点の紀尾井町に向かった。
主武器となる長刀は、前日に襲撃場所近くに架かっている石橋の下側の棚に隠しておいた。

紀尾井町に着くや事前の打ち合わせ通り、
長連豪と脇田巧一(こういち)の二人は西側の邸の斜面で花摘みを装い、
残る四人(島田一郎、杉本乙菊(おとぎく)、杉村文一(ぶんいち)、浅井寿篤は死角となる共同便所の裏に隠れた。


午前八時頃、大久保の乗る馬車が三番町の屋敷を出発した。
馭者台と伴乗台(とものりだい)には、馭者と馬丁が並んで座っている。

朝もやの中、馬車が共同便所前を曲がった頃には、馭者台と伴乗台の二人の視野に、花を摘む二人の男が入っていたはずだ。

馬車が石橋を通り過ぎた辺りで、
花を摘んでいた二人の男が、
馬車の行く手をふさぐように立ちはだかった。

馭者は二人にどくよう声を掛けたが、
それを無視して男たちは近づいてきた。
手には長刀が提げられている。
ようやく異変に気づいた馭者と馬丁が大久保に知らせる前に、
長刀が馬の前脚に叩きつけられた。
その痛みから馬はいななき走り出そうとする。
だが馬車を引いているため、
加速するまでに時間が掛かる。
間髪入れず二太刀目が叩きつけられ、馬の脚は切断された。

その時には、島田らも馬車に追いついてきていた。
馭者台と伴乗台に乗る二人は慌てたが、馬丁は助けを求めて逃げ出した。
屋敷の土手の斜面を這い上った馬丁は逃走に成功する。

一方の馭者は「狼藉者!」と叫び、
刺客たちの前に立ちはだかった。
だが何の武器も帯びていないため、
一刀の下に切り捨てられた。
この馭者は中村太郎という者で、
捨て子だったのを大久保に拾われて馭者にしてもらった恩があり、
命がけで大久保を守ろうとしたらしい。

大久保は左側の扉から脱出を図るが、島田が回り込み、
扉を開いて大久保を引きずり出そうとした。
この時、大久保は「無礼者!」と一喝したという。

島田は馬車内の大久保めがけて斬りつけたが、致命傷には至らず、
大久保は島田を凄まじい形相でにらみつけた。
だが右側の扉からも刺客たちは殺到し、
大久保を引きずり出し、
めったやたらと斬りつけた。

大久保は致命傷を負いながらも、
紀尾井坂方面に七、八歩進んだが、
その間も斬り付けられたので、
遂に地面に倒れた。
まだ大久保に息はあったが、
喉にとどめを刺されて絶命した。


かくして大久保の暗殺を成功させた刺客たちは、
近くの清水で喉を潤し、
凶器となった長刀や短刀をその場に置き、
自首すべく仮御所の東門へと向かった。

その後、島田らは厳重な取り調べの末、
臨時裁判所から「国事犯」として死刑を言い渡され、七月に処刑される。

■事件の余波

島田らが自首した頃、
ようやく警察が現場に到着した。
そこは凄惨な有様で、大久保と馭者の遺骸が血だまりの中に横たわり、
その傍らでは、脚を断ち切られた二頭の馬が、もがき苦しんでいたという。

この時、政府高官で最初に駆け付けた一人の前島密は、
「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見ゆ」と書き残している。


大久保の死は諸方面に衝撃を与えた。
何と言っても、近代国家として出発したばかりの日本は突然、その指導者を失ったのだ。

政争面でも、天下を取った形だった薩摩閥は西南戦争に続いて大きな痛手をこうむり、
それまで逼塞していた長州閥の復活を許してしまう。

大久保の後継者となった伊藤博文は、
大久保の打ち立てた「富国強兵」と「殖産興業」策を推し進め、
日本を欧米諸国に伍していける近代国家へと成長させていく。


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4. 終わりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い

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さて、いかがでしたか。

なお、この事件は『西郷の首』のクライマックスシーンになっています。
小説で読むと、島田一郎らの心理描写が入るので、格別の面白さだと思います。
拙著の中でも「五指に入る」と書評で言われた迫真の筆致をお楽しみ下さい。

『西郷の首』(文庫版)


最後に質問コーナーです。


Q.
伊東さんはかつてツイッターで、
多視点群像劇について触れていましたが、
そのことをもっと詳しくご説明いただけますか。
(伊之助)


A.
多視点群像劇の要諦


そうする必然性はあるのか

同じような年齢・性別・立場・仕事の人ではやらない

キャラや話し方(方言とか)に特徴を持たせているか

信長や秀吉など誰もがイメージしやすい有名人でやる

視点チェンジ後は、3~5行以内に誰の視点か読者に分からせる

その人物が登場した前のパートの感情や思考を引き継いでいるか

多くの視点による複線が次第に少なくなり、最後は太い一つの線に集約されているか

まず①ですが、
「そうする必然性がない」多視点群像劇が多すぎます。
多視点にする理由は、
「同一の事件や事象を様々な角度から見ていく」ために必要なもので、
多視点にする必然性がなければやらない方が得策です。

②ですが、
読者は作者と違い、
個々のキャラクターが十分に頭に入っていません。
にもかかわらず同じような人を視点人物に据えては、
読者は誰の視点か戸惑います。

③ですが、
読者に「誰だっけ」という混乱を避けて物語に没入してもらうには、
すぐに誰の視点になったかを分かってもらわねばなりません。
名前だけ出しても読者にはピンとこないので、
一人だけ関西弁にするとか独特の癖を持たせるといった工夫が必要です。

④は文字通りです。
こうした歴史上のメジャーな人物やイメージができ上っている人物の多視点群像劇は、
とてもやりやすいものです。

⑤は②と類似した意味ですが、
視点がスイッチした直後に、
誰の視点になったのかを分からせる必要があります。

⑥は難しいのですが、
個々の「思い」「鬱屈」「悩み」「コンサーン」などを継続させていかないと、
誰が誰やら分からなくなります。

とくに⑦は大事なことですが、
終幕に向かって視点人物を減らしていかないと
(殺すかフェイドアウト)、
視点人物個々の最後のシーンに、
それなりのカタルシスを用意せねばならなくなります。


ご理解いただけましたでしょうか。
多視点群像劇は安易に挑戦すべきではありません。
単視点で長編を書くことに慣れてきてから取り組むべき難易度の高い手法なのです。

とくに「一気読み」とは両立し難い手法なので、ご注意下さい。
(伊東潤)


伊東潤が皆様の質問にお答えします。
ご質問や感想・メッセージは
是非お気軽に以下のリンクより
お送りください。
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メールの場合は
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また、SNSでの感想アップも大歓迎です。
その際は「#伊東潤」ないしは
「#伊東潤メルマガ」というハッシュタグを
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いつも楽しく読ませていただいています。


それではまたお会いしましょう。

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