柴田勝家と賤ケ岳の戦い【後編】 【歴史奉行通信】第八十八号
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こんばんは。伊東潤です。
4/14~16まで7月発売の『琉球警察』の取材に行ってきました。
天気は曇りがちだったのですが、取材中心だったので、さほど気にはなりませんでした。
詳細は後日。
それでは今夜も、歴史奉行通信 第八十八号をお届けします。
〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓
1. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【後編】
ー賤ケ岳周辺陣城図 / 長浜城の降伏から賎ヶ岳の戦い直前まで / 賤ケ岳周辺の陣城群
2. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【後編】
ー軍記類による賤ケ岳の戦い
3. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【後編】
ー賤ケ岳の戦いの実像
4. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い
5. お知らせ奉行通信
新刊情報 / Voicy・ラジオ出演情報
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1. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【後編】
ー賤ケ岳周辺陣城図 / 長浜城の降伏から賎ヶ岳の戦い直前まで / 賤ケ岳周辺の陣城群
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さて、前回はいかがでしたか。
今回は引き続き「柴田勝家と賤ケ岳の戦い」の後編をお送りします。
なお今回は双方の布陣図を添付しましたので、こちらをご覧下さい。
【改良版】賤ケ岳周辺陣城図(合体版)
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/c54haaxkgu7QoCbE
■長浜城の降伏から賎ヶ岳の戦い直前まで
琵琶湖東岸に築かれた長浜城は、清須会議の国分けで秀吉から勝家に譲渡されており、柴田方の最前線拠点になっていた。
この城を創築したのは秀吉なので、秀吉は城の隅々まで知悉している。
それゆえ攻防戦になっても攻め取れると思ったのだろう。
長浜城の城代に勝家が指名したのは、柴田勝豊という甥にして養子だった。
この勝豊は病弱で、この時も病に臥せっており、賤ケ岳の戦いの直前に病死している。
しかもこの年は積雪が早く、越前からの援軍も期待できないこともあり、十二月初旬に包囲されると即座に降伏開城した。
十六日、秀吉は大垣城に転じ、調略で美濃国衆を味方に付けた上で、勝家方として反旗を翻した織田信孝の籠もる岐阜城包囲網を作り上げた。
味方が集まらず万事休した信孝は降伏を申し出る。
秀吉はこれを受け入れ、三法師を返還させて人質を取ったものの、信孝には美濃一国を据え置いた。
主筋ということもあり、一度くらいは大目に見たのだ。
これにより秀吉は三法師の名代を信雄に決定する。
天正十一年(一五八三)の正月、信雄を三法師のいる安土城に移した秀吉は、上杉景勝と和睦を結び、勝家への牽制を依頼する。
またこの頃、勝家の南下を防ぐべく、賤ケ岳付近の北国街道沿いに陣城を築き始めている。
二月、秀吉は、前年末に反旗を翻していた伊勢の滝川一益攻めに赴いた。
伊勢に攻め入った秀吉は国府城を落とし、亀山・桑名・峯などの滝川方の諸城を包囲して一益の動きを抑えると、佐和山城を経て長浜城に戻った。
そこで勝家が南下してきたという知らせを受けると三月十七日、木之元に至った。
そこで勝家が思ったより北の内中尾山(玄蕃尾城)に陣を敷いたと知った秀吉は、第二線防御ラインとして、賤ケ岳、大岩山、岩崎山に陣城を築いた。
ちなみに第一線防御ラインは東野山砦、堂木山砦、神明山砦となるが、これらはすでに築かれていた。
■賤ケ岳周辺の陣城群
賤ケ岳合戦の最大の特徴は、双方合わせて二十にも及ぶ陣城を築き、高度な駆け引きを繰り広げたことだ。
陣城とは、合戦において臨時的に築かれる城のことで、中長期的に使用される拠点城と違い、その目的が終わった時点で大半が破棄される。
規模の点から見ても陣城は大小さまざまで、城と呼んで差し支えない規模や縄張りのものもあれば、削平しただけの狭い平場しかないものまで様々だ。
陣城は、策源地、出撃用陣地、包囲陣、街道封鎖、反撃抑止、敵状監視、兵員駐屯など多様な目的で築かれ、
なおかつ複数の役割を持つものも多い上、戦況によって役割も変わるので一概には目的を特定できない。
賤ケ岳合戦では、双方の陣城の特徴に大きな違いがある。
羽柴方の陣城には精緻な縄張りを持つものが多く、ある程度の期間の使用を前提としている。
田上山、東野山、神明山、堂木山、天神山がそれにあたる。
これらの陣城の縄張りは複雑なだけでなく、曲輪の周囲に土塁や横堀がめぐらされ、桝形虎口や馬出を備えているものもある。
一方、柴田方の陣城は玄蕃尾城(内中尾山城)を除けば簡易なものばかりで、駐屯地の域を出ていない。
玄蕃尾城は勝家の本拠の北庄城と琵琶湖東岸の長浜城を結ぶ中継基地の役割が課されていたためか、
入念に造られていたが、ほかの城は柴田方が北国街道を突破し、琵琶湖東岸に出るための出撃陣地にすぎないため、さほどの構えを必要としなかったのだ。
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2. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【後編】
ー軍記類による賤ケ岳の戦い
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■軍記類による賤ケ岳の戦い
徳川家康、毛利輝元、長曾我部元親らに出陣要請の書状をしたためた勝家は、雪も溶け始めた三月二日、佐久間盛政率いる先手衆を出陣させた。
先手衆八千五百を構成するのは、弟の佐久間安政、同じく弟の柴田勝政(勝家養子)、不破勝光、金森長近、原長頼、徳山秀現らで、
四日には、勝家と前田利家を中心とした主力勢二万も北庄を出陣した。
勝家は玄蕃尾城に本陣を置き、周囲の山々に寄騎諸将を布陣させ、決戦の好機を待っていた。
四月に入って信孝が再び挙兵した。むろん勝家に通牒してのことだろう。これを聞いた秀吉は美濃に向かう。
これにより四万五千だった賤ケ岳の羽柴勢は二万五千に減り、柴田勢とほぼ互角の兵力となった。
ところが十六日、秀吉は大垣城に入ったところで、揖斐川の増水によって足止めされた。
岐阜城に向かえなかったことで秀吉は切歯扼腕するが、これが逆に幸いする。
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